応接室を出て扉を閉めると、そのままその扉に倒れ込みそうになった。
 なんとか気丈に振る舞って部屋から出ることは出来たものの、膝に力が入らず、その場にしゃがみ込んでしまいそうになる。

 あの会見は一時間にも満たなかったはずなのに、心も体も疲れ切っていた。
 全身から絞り出すように、大きく溜め息をついた。

 ……今日のこの選択を、多分一生、後悔し続けることになる。

 奥歯を噛みしめ、震える唇を真横に閉じ、泣きそうに揺れる瞳に力を込める。

 広い通路に人影は全くない。
 応接室や会議室が並んでいるフロアらしく、実に静かなものだった。

 よろける足を酷使して数歩進むうちに、なんとか歩みに力を戻すことが出来た。

 散々に乱れた心を落ち着かせようとするが、かないそうもない。
 ともすれば、先の会見の内容を思い出して反芻してしまいそうになるのをなんとか押しとどめつつ、余計なことは考えずに帰ることに専念すべきだと自分に云い聞かせる。

 早く部屋に戻って、熱い風呂に入って、食事を済ませて、暖かい布団で眠りたい。
 そうして明日になれば、この心も少しは落ち着いてくれるだろう。

 少しでも早く帰りたいと思っていたが、エレベーターの手前でトイレの入り口を見掛けて、ふと気付いた。
 化粧は控え目にしていたものの、散々泣き濡らした自分の顔は、相当酷いことになっているのではないだろうか。

 いくら夜になったとはいえ、これから街中を歩き、さらには電車も乗ることを考えると、そのままというわけにもいかないだろう。
 それと気付いて、やむなくトイレの洗面台を使わせてもらうことにした。

 当然のことながら男女で別れていたので、男だと名乗ったあの人が、よもや後から入ってくることも無いだろう。
 私以外誰もいない女子トイレに入って、何度目かわからない溜め息をもらした。

 予想していたとはいえ、鏡面に映った自分の顔は酷いものだった。

 赤く充血した眼に、涙の跡が残る頬。
 薄化粧とはいえ、その涙に沿って色跡がついていたり、唇に塗った薄紅が滲んでいた。

 今日はこのまま帰るだけなので、洗面所のぬるま湯で思い切って洗顔してしまう。
 顔を何度も洗ううちに、化粧も涙の後も消せてすっきりする。

 大きな鏡面に映る水浸しの自分の顔を眺めて、少し笑うことが出来た。

 そうしてふと意識が散漫になると、先の会見のことを思い出してしまう。
 それに気付いて、あわてて頭を振って、そんな考えを振り払った。

 乱れた頭髪を手櫛で簡単に整えつつ、鏡面に映る自分の姿を見やる。

「………?」

 ふっと、鏡の中の自分に違和感を覚えた。
 ……しかしそれが何であるかと思い至るよりも前に、そう遠くない所から話し声が漏れ届いてきた。

「……年功序列がどうのって堅苦しく云いたかねぇけど。いくらなんでも、ついこないだまで学生だった世間知らずに、顎で使われたくはないよなぁ」
「とは云っても、会議を抜け出してきたのはまずくないっすか?」
「肝心のプロジェクトリーダー様が接客中で居ないってのに、俺らだけが雁首揃えて会議する意味は無いっしょ。アピール出来る相手が居るでも無し、テキトーにやってればいいんでないの」

 若い男性ふたりによる、ゆるい会話のようだった。
 最初は聞き取りづらかった所から、隣の男子トイレから出てきたふたりが、そのまま廊下で立ち話でもしているらしい。

 高等部の頃は男性を毛嫌いしていたものの、きちんとした敬語での会話なら問題もなく談話できる程度にはなっていた。
 しかし、ああいった若い男性が用いる微妙に崩れた日本語は、女子校出身の自分にはいまだ慣れないところがあった。

 若い男性が会話している所にトイレから出て行って鉢合わせになるのが嫌で、彼らが立ち去るのを、息をひそめたまま待つことにした。

「……将来的には重役になるんだろうし、恩を売っておいた方がよくないっすかねえ?」
「総裁は、ひとり息子だからって後継者にするとは限らない、使い物にならないようだったら別の人間に後を継がせるって明言してたけどなぁ」
「の割には、すぐにプロジェクトを任せたりしてますけどねえ」
「ビシバシやってくれってことじゃねえの? あのボンボン、頭は良いんだろうが世間知らずで空気が読めないところが苛つくなぁ」

 総裁のひとり息子、という言葉が聞き取れた。

 外にいる男性社員ふたりが、どうやらあの人のことを噂しているのだとわかった。
 それも悪口のようで、ざわりと苛立ちを覚える。

「あとはあれだ、なにせ顔が良いからなぁ。女子社員に人気あるところが気にいらねぇ」
「玉の輿狙いってのもあるんじゃないっすか」
「あーあ、瑞穂ちゃんが女の子だったら、俺も逆玉狙っちゃうのになぁ!」

 ゲラゲラと、品の悪い笑声をあげる二人組に怒りを覚えた。
 その会話から察するに、さすがのあの人も、入社したてでうまく人間関係を築けていないらしい。

 聖應女学院高等部に転校してきたあの人は、持ち前の才覚と人柄であっと云う間に人気を得ていった。
 しかし、年齢も性別も性格もさまざまな人間で構成される大会社の中では、新人でしかないあの人も、自分の力だけではどうにもならないのかもしれない。

 あの人からの誘いを断り、それどころかもう二度と会わないだろうと思っていても。
 あの人の悪口を聞かされるのは、面白くなかった。

 洗面台の上に乗せた両の拳を、ギュッと握りしめる。
 怒りに震える手を、鏡越しに見やる。

 そうして、やはり違和感を覚えた。
 そういえばさっきも、自分の姿を鏡越しに見て違和感が……。

「あっ……!!」

 ……無い。
 万年筆が、無い。
 胸ポケットに差していたはずの、万年筆が無くなっている!

 全身の血の気が引くとは、まさにこのことだった。

 胸ポケットを探り、シャツやスーツ各所のポケットを何度も探し、ハンドバックをひっくり返して中身を確認し、洗面所の床を見て回っても、見つからなかった。

 ……紫苑さまから贈られた、大切な万年筆。

 胸の動悸が痛いほどに激しく、それを抑えようと胸に手を当てつつ、鏡に映る自分を見つめた。
 そうやって少しでも気持ちを落ち着けようとしながら、最後に万年筆を手にしたことを思い出そうとする。

 確か……このビルへ入る前、気持ちを落ち着けようと胸に手を当てたときには、あった。
 いや、さらにその後、あの応接室に入る前にも触った記憶がある。

 それならば、あの応接室での会見と、この洗面所に来るまでの間に落としたに違いない。

 ……そうだ、応接室。

 あそこでハンドバックを落として、それを拾うときに屈んだ。
 それと、あの人の正体があんまりにもショックで立っていることがかなわず、しゃがみ込んでしまったこともあった。

 どちらかの際に、胸ポケットに差していた万年筆が抜け落ちてしまったのかも知れない。
 いつもだったら気付いただろうが、激しく動揺していたので、落としたことに気付かなかったのかも……。

『……さようなら、お姉さま……』

 去り際に残していった、決別の言葉。
 もう二度と、会うことはないと思っていた。

 いま応接室に向かえば、あの人はまだ居るかもしれない。

 普通の万年筆だったなら、そのまま諦めただろう。
 しかし、あの万年筆は紫苑さまから贈られた物で、私にとって大切な物になっていた。

 迷っている暇は無い。

 あの人、あるいは別の人間が万年筆に気付いて拾ってしまうと、少し面倒なことになるかもしれない。
 ハンドバックの中身を戻し、鏡に映る自分の姿を再確認した後、迷いを捨ててトイレから出て行った。

 ……と。

 トイレを出てすぐの廊下に、若い男性ふたりが立ち尽くしていた。
 先ほど聞こえていた、あの人への陰口を叩いていた二人組なのだろう。

 負の感情がこみ上げ、怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたが、それをグッと押しとどめつつ、念のためだと問い掛けてみた。

「すみません、万年筆を落としてしまったのですが、見掛けませんでしたか?」

 焦りと怒りを抑えながら、至極丁寧に訊ねることが出来た。

「い、いやぁ……見掛けなかった、ですよ」
 その男性ふたりは、共に二十代後半と云ったところだろうか。
 どことなく年長風の様子を見せる長身の男性が、私の質問に答えてくれた。

「そうですか、ありがとうございます」

 それならばもう用はない、とこの場から立ち去ろうとする。
 しかしどうしても我慢できずに、立ち止まって振り返り、その男性ふたりを正面から見据えた。

「……それと。女子トイレの前で立ち話に興じるのは、少々デリカシーに欠けると思いますわ」

 心の中で渦巻く感情を、どれだけ抑えることが出来ていたかはわからない。
 ただ、その男性ふたりは酷く慌てたような様子で狼狽えた。

 その場から足早に立ち去った私は、背後から聞こえてきた「かわい子ちゃんに叱られちゃったよ、俺」などというおどけた声を無視して、応接室へと戻っていった。



 第一応接室の扉を前にして、またもや緊張がぶり返してきた。
 緊張したときの癖で胸ポケットに手をやり、そこに万年筆が無いことに気付いて眉をしかめる。

 あんな言葉を残して別れたというのに、あの人とまた顔を合わせたらなにを話せばいいのだろうか。
 いや、そもそも本当に、この応接室で万年筆を落としてしまったのだろうか。

 このまま廊下で立ち尽くしていてもしょうがないと、焦りや戸惑いを押しのけ意を決し、応接室の扉を手の甲で叩いてみた。

 ………。

 二度、三度と丁寧に叩いてみたものの、中からのいらえは無かった。
 あの人が居ないということに安心するとともに、どこか残念に思う気持ちも生まれる。

 応接室に鍵が掛かっていたらどうしようかと思いつつドアノブに手を掛けると、何の抵抗も無く扉は開いた。

 扉を開けて眼に飛び込んでくるのは、前面に広がる窓から見える、夜の街の姿。
 先ほどは夕焼けに彩られたビル群が印象的だったが、今はもう、夜の闇に浮かぶ無数の光が舞い踊る世界が広がっていた。

 応接室は電灯も点けられておらず、やはりあの人の姿はない。
 静まりかえった空気が、先ほどここで行われた会見が遠いことのように思えて、寂しかった。

 あの人が居たらどうしようかという恐れと、同時に抱いていた微かな期待が消え失せ、脱力感を覚える。

 先ほど自分が居た辺りをさっと見渡してみるが、暗くてよくわからない。
 応接室の入り口近くの壁面を手探りしてスイッチを探し当て、電灯を点ける。

 パッと、人工の明かりに満たされ、明るくなる室内。

 応接室の絨毯の床に、光を受けて黒く輝く万年筆を見つけることが出来た。
 そしてそれと同時に、近くから人のうめき声が聞こえてきた。

「……!?」

 光に満たされた室内をよく見れば、先ほど私が座っていた所の向かいのソファに、あの人が仰向けで横になっていた。
 私との会見が終わった後、この応接室のソファで休んでいたのだろうか。

 天井から降り注ぐ人工の明かりに、眩しそうに顔をしかめるあの人。
 万年筆を拾い上げようと、反射的に手を伸ばしていた体勢を慌てて戻し、電灯のスイッチをオフにした。

 暗くなった室内で、あの人はソファから起きあがることも無く仰向けのまま、呼吸さえも聞き取れないほど静かになった。

「………」

 あの人が起きるのを恐れ、私は息をひそめてじっとしていた。

 音の無い世界でじっとしていると時間の経過がわかりづらいが、頭の中でたっぷり三十を数え、あの人が目を覚ます様子がないことに胸を撫で下ろす。

 暗い中でじっとしていたためか、目も慣れてきた。

 先ほど場所を確認していたということもあって、難なく、下に落ちていた万年筆を拾い上げる。
 その万年筆を、意識して慎重に胸ポケットに差して納めた。

 そしてそのまま立ち去るべきだったのだが……。
 あの人が目覚める様子がないことに安心し、大胆になっていた。

 息をひそめ足音を殺し、ゆっくりとあの人の側に歩み寄る。
 そうして、暗闇の中で目が慣れてきた私は、寝入るあの人の寝顔をそっと凝視した。

 ……綺麗な、人だった。

 高等部の頃からもそうだったが、羨ましいほどに美しい人だった。
 ただ整った顔立ちというだけでなく、どこか人を引きつけるような、華のある美貌。

 昔と比べると、少しやつれただろうか。
 先ほど立ち聞きしてしまった社員たちの噂話から察するに、色々と苦労が絶えないのだろう。

 あの告白を聞いた今でも、この人が男性であるとはなかなかに信じがたいものがある。
 しかし以前に比べると……子供らしさが抜けて、中性的な感じが強くなっているような所はあるかもしれない。

 ……しかし私は知っている。
 この人の魅力は、そんな見た目だけで語れるものではないということを。

 私を惹きつけて止まなかったのは、その内面。
 優しく、気高く、強く、柔らかく、暖かい。

 この人と一緒に居るだけで、どれだけ楽しい気持ちになれたことだろう。
 どれだけ胸が温かくなり、あるいは切なくさせられただろうか。

「………」

 また、この人の側に居ることが出来たかも知れなかったのに。
 どうして私は、あの誘いを断ってしまったのだろうか……。

 嘘をつかれていたということはショックだったし、この想いが一方通行でしかなかったということを思い知らされたということもあったけれど。
 私の意地、なけなしの誇りを守るために断ったと云うこともあるけれど。

 私が取らなかった、別の選択肢。
 それを選んだときに訪れたであろう別の未来を思うと、酷く残念だった。

 ……また、いつもの暮らしに戻るのだろうか。

 閉塞感に色を失いつつある自分の世界が、この人と出会うことでパッと晴れ渡って清々しい気持ちを味わえたというのに。
 この人からの誘いを断ってしまった私は、またあの日々に逆戻りになってしまった。

 灰色の世界に埋もれていこうとする自分。
 この人の側にいるだけで、そんな暗鬱とした気持ちがクリアになっていたのに、と。

 人形のように静かに、仰向けに横たわっているあの人。

 手を伸ばせば触れることが出来るほどに近づいているというのに。
 私は、何も云うことが出来なかった。

 ただ、一言。
 「よろしくお願いします」と、たった一言を口にのぼらせることが出来ていたなら、私の世界はあっという間に激変していたかもしれないというのに。

 私を助けてください、と口にすれば、この人は全力でもって私を助けてくれたかも知れないのに。

「未練、がましい……」
 そう、思わず呟いてしまった。

 だから、この人の前には戻りたくなかったのに。
 この人の顔を見ていると、私が進むことのなかった明るい未来が想起させられ、とても辛い気持ちになる。

 また泣き出してしまいそうになる瞳を、両手で覆い隠した。

「……どうして、でしょうか……」

 かすれるような、小さな声。
 私の声ではなかった。

 両手を退けてあの人の顔を見てみると、うっすらとまぶたを開き、優しそうな瞳が開かれていた。

「ここで待っていれば、貴子さんがまた、戻ってきてくれるような気がしていました」

 私のことを驚かせないようにと配慮してか、あの人はソファに横たわったまま、私のことを見上げていた。

「……いつから、目が覚めていたのですか?」
「貴子さんが、ライトを点けた時に。社員の誰かが応接室を片付けに来たのなら、寝たままやり過ごすつもりでいました」
「どうして、そんなことを……」
「どうして、でしょうね……。ただなんとなく、今日という日を逃せば、貴子さんとはもう会えないような……そんな気がしていたんです」

 そうして、あの人はソファから半身だけ起きあがり、微笑んだ。
 人形のように静かだったあの人の顔が、花開くように鮮やかになる。

「そしたらほら、やっぱり貴子さんは戻ってきてくれた」

 そういって、無邪気に笑うあの人。
 落とした万年筆を拾いに戻っただけだと告げれば、その顔を翳らせてしまうだろうか。

 言葉に詰まり、ついには呼吸さえも止めて、私は逡巡する。
 ただ「戻ってきた」と告げれば、全てはうまくいくはずなのだ。

 そうして出した答えは、しかし。

「私は、ただ……」
 胸のポケットに差した万年筆を、抜き取る。
「この万年筆をここで落としてしまったらしくて、拾いに戻っただけ、なんです……」

 そんなにも、この人のことを思い続けていた過去の私は頑ななのだろうか。
 今も呪縛し続けていて、ただ「はい」と頷くことさえ出来ない。

 ……足りないのだろうか。
 過去の私を、思い出を、くだらない誇りを、意地をかなぐり捨てるほどの何かが。

 あと、もう一押しなのだ。
 あともう少しだけのなにかがあれば、きっと私は、はいと頷けるはずだったのに。

 私に微笑み掛けてくれたあの人を、また落胆させてしまった。

 あの人以上に、多分私自身のほうが落胆していた。
 痺れたような頭で、ただぼーっと、あの人に向けて示すように突き出された右手と、そこに乗せられている万年筆とを見つめる。

 どうしてそんなことをしているのかな、と自分の行動に首を捻った。
 忘れ物を取りに来たと告げるだけでよかったはずなのに。
 わざわざ万年筆を取り出してまで見せて、自分が戻ってきた云い訳を口にして。

「そうだったのですね」

 顔を俯けている私に、あの人が優しく話し掛けてくる。
 その声は気落ちしたものではなく、どこか楽しそうで。

「三本目は、貴子さんが持っていたのですか」

 え?と、あの人が口にのぼらせた言葉を完全に理解するよりも前に。
 あの人は、自分の胸ポケットから一本の万年筆を取り出す。

 薄暗い中でもハッキリと見て取れる、紫苑の花が刻まれた万年筆。
 私が手に持っているのとまったく同じ物が、あの人の手の中にもあった。

 紫苑さまが、デザイナーの卵であるという友人に作ってもらったという、オリジナルの万年筆。
 三本しか存在しない物で、一本は紫苑さま自身が、もう一本は私が。
 そうしてもう一本は、あの人の手に渡されていたのだ。

 紫苑さまからその話を聞いたとき、そんな気はしていた。
 三本目は、きっとあの人に渡したのだろう、と。

 しかしそれを実際に目の前で示されると、紫苑さまが私とこの人とを引き合わせようとして渡したかのように思えてしまった。

 ……いや、そもそも。
 今回の鏑木グループへの入社面接に赴くように薦めてくれたのは、その紫苑さまだったではないか。

 そうして、思い出す。

 紫苑さまの十条家が経営する北條製紙。
 その再建に、鏑木グループからの業務提携が大きく関わっていると、先日紫苑さまが云っていたことを。

 私は、確かに紫苑さまの望まぬ縁談を壊し、紫苑さま個人を救うことは出来た。

 しかし同時に、厳島グループと決裂した十条家とその北條製紙は、経営的には窮地に立たされたのではないだろうか。
 それを救い出したのが、鏑木グループ……強いては、目の前のこの人が成したことではないのだろうか。

「紫苑さま……」
 泣き出してしまいそうなほど震えた声で、私は呟く。

 この人と引き合わせ。
 そうして、立ち去ろうとした私を引き返させたのも、やはり紫苑さまだった。

 私とこの人とを、紫苑さまが繋げてくれている。
 そんな気がして、胸が熱くなった。

「どうして……どうして、こんな私を必要としてくれるのですか……?」
 問わずにはいられなかった。
「私は、大学を卒業したばかりで、社会経験も皆無です。それなのに、一体あなたの何に役立てるというのですか……?」

「経験なんてものは、これからいくらでも得ることは出来ます。未熟な部分は、これからいくらでも努力すればいい。大切なのは、それでも前向きに進もうとする気持ちと、一緒に歩んで楽しめるかどうか、ということではないでしょうか……」

 私にもよくわかっていませんが……と、あの人は少し恥ずかしそうに笑った。

「父の会社で働くようになって、未熟な自分を痛感させられました。鏑木グループ総裁である父は、私を助けるどころか、プレッシャーを与えてきます。大規模なプロジェクトを押し付けてきたり、私が周囲から反感を買うようなことを云ってみたり。あまりにうまくいかないものですから、私も正直疲れてきていました」

 会えない間、ずっと憧れるだけだったあの人が。
 いつの間にか等身大の人物として、私の側で苦しみを吐露していた。

「紫苑さんから、貴子さんの話を聞いて。そうして、貴子さんが今日訪ねてくれた時に。重苦しい気持ちが、一気に晴れ渡る心地でした。……私にとって、あの聖應での一年がどれだけ心の支えになっていたのかと、気付かされました」

 この人も、私と同じなのだろうか。
 私たちはお互いに、再会した時に目の前が明るくなるような……そんな感覚を共有できていたのだろうか。

「あの楽しかった頃を共に歩んで来た貴子さんが、私の側に居てくれたなら……。私は、自分が自分のことを一番好きだった頃の気持ちを、忘れずにいられるかもしれない。そうすれば、自分を見失わず、こんなに息苦しい社会の中でも、頑張って前へ進むことが出来るんではないかと……そう、強く思ったんです」

 私にも助けが必要だったように……。
 この人にも、助けが必要だったのだろうか。

 私の意地のせいで。
 ほんの小さなプライドのせいで、私とこの人の転機を潰してしまってもいいのだろうか。

「私は先ほど、貴子さんを助けたいと口にしました。でも本当に助けが必要だったのは、この私だったのかもしれません。……貴子さん。私を、助けてくれませんか……?」

 そうして、あの人はもう一度、私に向けて手を差し出してきた。

 その声を、その顔を、その瞳を。
 闇に慣れてきた私には、目の前のあの人が、幼い子供のように映って見えた。

 全てをさらけ出してまで、私のことを必要だと云ってくれている。
 こんなにも真剣に、私を必要としてくれた人が、いままで居ただろうか……?

 私は、眼を閉じた。

 揺れる気持ち、頭の中を駆けめぐる言葉たち、胸を騒がす焦燥。
 そんな中から、たったひとつの大切なことをつかみ取ろうと、目を閉じて集中する。

 まぶたの裏に、ひとりの少女の姿が浮かび上がった。

 ……もう、いいのではないのかしら……?

 その少女に、そっと問い掛ける。
 宮小路瑞穂という少女に憧れ続けていた、ひとりの少女に。

 ……ねえ、もういいよね……?

 つい少し前まで、私自身であったその少女は。
 今ではもう、私の中で別人として存在しているように思えた。

 ……あの人のことを……。
 それと、別の選択をしようとする私のことを、もう許してもいいよね……?

 その少女は、笑ってくれたような気がした。
 四年……いやもっと長い間、私の中に居た私自身が、微笑んでくれた気がした。



「……もう、仕方のない人ですね」

 私は、大げさに溜め息をついてみせた。
 やれやれといった感じで肩をすくめてみせるが、その声の震えまでは誤魔化せてはいないだろう。

「頼りのない瑞穂さんには、私のような小うるさい人間が側に居てあげないと、駄目なのかも知れませんね」

 本当は泣き出してしまいそうなほど、まぶたや頬が、震えていた。

「私には、今はまだ何もありません。でも近いうちきっと、あなたにとって本当に必要な存在に……仕事上のパートナーとなれるよう、なれるように、きっと……」

 心の抵抗を押し切り。
 押し切った勢いで、目の前に差し出されていたあの人の手を、両手で握り返した。

「……きっと、なりますから。だから……だからよろしく、お願いしま、す……」

 ……ようやく、云うことが出来た。
 それと同時に、一粒の涙が、頬を伝って落ちるのを感じた。

 あの人は、左手を上から添えて、両手で私の手を包んでくれた。
 そうして、私たちは力強く両手を握り合う。

「貴子さん、これから、よろしくお願いします」

 そう云ってあの人は、私の心に刻まれて消えなくなるほどに、鮮やかな微笑みを浮かべてくれた。



 電灯の消された暗い応接室の中だと云うのに。
 この人と居る世界が、とても明るく映っているように思えた。






Fin



後書き

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