私を尾行していたふたり組は、私が鏑木の本社ビルへ入っていこうとするのを見て、慌てているようだった。
 狼狽した様子で携帯電話を取り出し、どこかに急いで報告しているのを遠目に見ることが出来た。

 大抵の場所まで男女どちらかがついてきた彼らも、さすがに敵対関係にあるライバル会社へは躊躇われるようだった。

 もしも本当に鏑木グループへ就職できてしまったら、厳島家の者たちにどれほどの衝撃を与えられるだろうか。
 それを想像して、くすりと笑ってしまった。

 ……見上げれば、何十階建ての高層ビル。
 ざっと見て、二十階ぐらいだろうか。

 厳島の本社ビルを見たこともあるが、それと比べると質実剛健といった印象を覚えた。
 周囲の高層ビルと比べても、デザインにこれといった特徴は無いものの、敷地にかなりの余裕が作られていて息苦しさを感じさせない。

 心地よい建築思想がうかがえて、自分の感性に合うようで嬉しくなる。

 正面玄関へと歩を進めながら、胸ポケットに収めた紫苑さまの万年筆に手を当てる。
 そうすることで、少し自分を元気づけることが出来た。



 中に入ってすぐの受付で名乗り、約束があると告げるとすぐに取り次いでもらえた。
 最初に私を対応しようとした時の態度と、私の名を告げた後の態度に明らかな変化を感じた。

 緊張感、だろうか。
 それと、とても強い興味。

「二十階の第一応接まで、ご案内致します」

 受付に座っていたふたりのうちのひとりが、少し慌てた様子で立ち上がり、私を先導してくれた。
 少し前まで学生であり、いまでは無職である自分に対して、そこまでの待遇とは。

 ……紫苑さまの話では、これから会う人物は、私が厳島の情報を鏑木に流したということを知っているという話だった。
 紫苑さま自身、私の厳島への告発のことを、その人物から教えられたのだという。

 生家への裏切り行為とも取れる、私の告発。
 それを知ってもまだ会おうとしてくれるということは、私の行為に負の印象を抱いていないということだろうか。

 受付の女性に案内されて、一緒にエレベーターに乗り込む。

 これといった会話は無いものの、その女性が私のことを強く意識しているな、というのが感じられた。
 それは良いとも悪いとも判別つかず、ただ、背中に目でもつけているかのように、こちらのことを注意しているというような気配が感じられた。

 これから会う人物とは誰なのか?と聞いてみたい所だったが、それすら知らずに招かれたのかと莫迦にされてしまうのではないかと思え、訊けなかった。
 これほどの緊張感漂う案内であることから、鏑木グループ総裁の鏑木慶行氏が待っている可能性さえも考えさせられてしまった。



「こちらになります」
 エレベーターで二十階に降りた後、長い廊下の奥のほうまで案内される。

 女性が軽やかに扉をノックし、「お客さまをお連れしました」と声を掛けると、中から「どうぞ」という声が返ってきた。

 ……ドクン、と胸が高鳴った。

 そうして、絶え間なく早鐘を打つ。
 なんだろう、この高揚感は。

 失礼しますと云って、受付の女性が応接室への扉を開けてくれた。
 だというのに、私は一歩も踏み出せず、廊下で立ち竦んでしまった。

 面接など、それこそ何十回とこなしてきたというのに。
 いま私を包む緊張感は、それまでの比ではなかった。

 理由は、わからない。
 ただ、逃げ出したい、怖いといった類ではなく。
 逆に会ってみたいという強い欲求だった。

「あの……」

 入り口の前で微動だにしない私に、案内をしてくれた女性が声を掛けてくる。
 それに対してとっさに言葉を返すことも出来ず、ただ頷き返すことしか出来なかった。

 癖というよりもどこか祈りを捧げるように、私は右手で胸ポケットの万年筆に手をやる。
 そうして目を閉じ一呼吸してから、部屋の中に一歩踏み出した。

「失礼しま、す……」
 す……という言葉を云い終えると共に、息を呑む。

 部屋の中に入ると……視界いっぱいに、夕陽に彩られたビルの森が飛び込んでくる。
 二十階という高層に相応しい景観だったが、それを見渡すことができるよう、大きな窓が前面に広がっていた。
 応接室の各所にある調度品よりも、目に飛び込んでくる赤い景色のほうが圧巻だった。

 ……そして。
 そして、そんな大きな窓際に、ほっそりとした人影がひとつ。

「座って待っていてください。すぐに終わらせます」

 窓の外を向いていたその人が、ゆっくりと振り返ってそう云った。
 ……その、声。
 その人影が携帯電話を持った手を指し示す動作よりも、その声に胸を打たれた。

 姿は……はっきりと見えない。
 夕陽で逆光となり、その人影をよく見ることが出来ない。

 けれど……けれどそれは。
 夕影の中でなんとか見て取れるその人は、癖のない長髪を背に流したスーツ姿で。

 再び窓のほうに向けられたその人の細い体。
 その影が描く、ゆるやかな線。
 右手に持った携帯電話と、その右肘を支えるように当てられた左手。

 ……私は、この人を知っている。

 その声を、その影を。
 思えば、別れたあの日から、ずっと求めていたような気がする。

 無意識だろう、癖のない長髪をすっとかき上げ、耳にかける。
 そんな何気ない仕草を見て、共に机を並べて勉強していた頃、横に居たその人の仕草を思い出して懐かしくなる。
 それはもう、痛いほど鮮やかな感情と共に、私の身内を駆けめぐった。

 私に背を向けたまま携帯電話で会話していたけれど、どんな内容かまではまったく理解できなかった。
 いまはただ痺れたような頭で、なんとか立っているだけでも大変だった。

「……大切な来客ですので、後でこちらから連絡しなおします」

 その人はそう云って、携帯電話に一回電子音を鳴らせた後、慣れた動作で折り畳み、胸ポケットに仕舞い込んだ。
 そして小さく溜め息をついた後、ひとつ咳払いをする。

 今の私には会話の内容は理解できず、ただ音楽のように、その人の話す声が頭の中に鳴り響いていた。
 その声が止むと、大都会の真ん中であるというのに、この部屋は怖いほどの静寂に満たされて。
 その人の振り返る動作で流れた髪が奏でる音さえ、聞き取れてしまいそうだった。

 窓際の人物は、ようやく、体を私のほうに向けてくれた。

 けれど眩しくて。
 窓から差し込む夕日があんまりに眩しくて、よく見えない。

 はっきりと見たいのに、見えない。
 そのもどかしさに、微かにうめき声さえ漏らしてしまう。

「あっ、気付きませんでした。ブラインドを落としますね」

 ジャッと音を立てて、夕陽に面した窓のブラインドを下げてくれた。
 横に長い影がいくつも生み出された応接室の中で。
 私は今度こそほんとうに、その人をしっかりと見ることが出来た。

「……お久しぶりです、貴子さん。ずっとお会いしたかった」

 四年と少し前。
 聖應女学院高等部の卒業と共に姿を消した、宮小路瑞穂がそこに居た。



 こんな光景を、何度夢見たことだろう。
 そして、再会したらこんな言葉をかけようとか、こんな事を話そうとか色々考えていたはずなのに、まったく思い出せないほどに思考は真っ白になっていた。

 ただ、正面のあの人を凝視するだけで呼吸さえも出来ず、立ち尽くしてしまう。

「あ」
 あの人の慌てた声と、足下に物音がして。
 ようやく私は、呪縛から解き放たれる。

 見れば、手に持っていたはずのハンドバックを落としていた。
 慌てて屈んで拾い上げると、あの人が少し可笑しそうに微笑んでいた。

「どうしたんです? まるで幽霊でも見たような顔をしていますよ」

「ゆっ……」
 そんな云い方はあんまりだった。
 私がどれだけの間、探していたと思っているのだろう。
「そ、そんな口ぶりは酷いのではありませんか? この四年間、あなたはそれこそ幻のように行方がつかめなかったというのにっ」

「まぼろし……そう、幻ですね。出来うるならば……聖應のみんなのことを思うのなら、そのまま幻のように消えてしまうべきだったのかもしれません」

 その顔から微笑みが消え、なにやら悲しそうな顔つきになってしまった。
 それは同時に、四年前の卒業式から、隠れるように行方をくらましていたことを自ら明かしていた。

 あの人の薦めるままに、私は応接室の椅子に腰を下ろした。
 なんとか軽口を返すことは出来たものの、いまだに膝は他人の物のように震えて云うことを聞かないので助かった。

 けれど、座ることを薦めた本人はと云うと、相変わらず辛そうな顔をして立ったままで居た。

「なにから話すべきでしょうか……。筋立てて話すつもりだったのに、貴子さんの顔を見たら懐かしくて、話す内容を忘れてしまいました」
「わ、私もです。再会できたら、沢山話したいことがあったはずなのに……。なんだか頭が痺れているようで、よく思い出せません」

 いまだ、混乱している。

 再会できた喜びが強かったものの、それが少し落ち着いてくると、数々の疑問で心が埋め尽くされていく。
 目の前にいるあの人への妙な違和感とか、四年間どこでなにをしていたのかとか、今なにをしているのかとか、なによりもなぜ此処にいるのか、とか。
 なによりも現実感が薄くて、夢の中にいるような心地さえしてしまう。

「そうです……お姉さま、なぜこんな所にいらっしゃるのですか?」

 突然、私の前に現れたことはもちろん。
 鏑木の本社ビルの、しかもこれほど大きな応接室を使用できるということ。
 受付の女性の態度から察するに、ただの一般社員だとは思えない。

 聖應を卒業してすぐに働き始めたとしても、四年でそこまでの地位につけるだろうか。
 そもそも、就職ではなく進学するという話を聞いたことがあったはずだ。

 あの人は、迷うそぶりをかなぐり捨てるように。
 右手を己の胸に当てて、思い詰めたような表情でこう告げた。

「……それは、私が鏑木瑞穂だからです」



 真っ直ぐな瞳だった。
 痛くて辛くて悲しそうで、それでいて澄んだ瞳だった。

 夕陽に翳る高層ビルの一室で、真摯な顔つきでそう云ったあの人は、まるで一枚の絵画のようで。
 だからそれに見入ってしまい、その口から紡がれた言葉を理解するのに必要以上に時間が掛かってしまった。

 宮小路瑞穂が、鏑木瑞穂で。
 だというのなら、それは。

 ……唐突に胸が苦しくなる。
 もう取り戻しようもないと云うことなのかと、時の流れに切なくなる。

「ご結婚、なさったのですね」

 私が苦しげに呟くのを聞いて、なぜだかあの人は天を仰いだ。
 鏑木グループで、鏑木の名を持つ方に嫁入りしたのでは……?

「違います……違うんです、貴子さんっ」
 なんだか泣きそうな声だった。
「私をよく見てください。さっきから違和感がありませんか?」

 あの人は両手を広げて、自らを示すように立っている。

 そう、違和感。
 再会したときから、視覚的な違和感もあったはずなのだ。

 ……そしてようやく気付いて、頭を殴られたような衝撃に襲われた。

「お姉さま、む、胸が……」

 胸が、無い。

 それは小さいだとか控え目だとかそういったものではなく。
 聖應時代にはしっかりとあった胸の隆起が、見る影もなく無くなっていた。

 夏にあった水泳の授業であの人の水着姿を見た知人が云うには、着やせするタイプだという話だったが、今現在のそれは着やせするだかいうレベルでは無い。

 ……なにか、手術をしたのだろうか。
 たとえば、乳ガンの手術のように、乳房を切除しなければならない病気で……。

 私が気の毒そうに感じているのを表情で見て取ってか、あの人は首を横に振った。

「私は、聖應のみんなにふたつの大きな嘘をついていました」
「ふたつの、おおきな、うそ……?」

 あの人の真剣な表情を見て、少しは収まったはずの緊張がぶり返してきた。
 膝の上に乗せた手を握りしめ、身を乗り出し、あの人の喋ることに集中しようとする。

「ひとつは、名前を偽っていたこと。そしてもうひとつは……性別を偽っていたことです」



 ………。

 息詰まるような沈黙が、部屋を静寂で満たす。
 それこそ、呼吸することさえ苦しいような間。

 ……なにを云っているのだろう……?

 部屋の中は静寂で満たされているが、私の身内では心臓が荒れ狂い、血の流れる音がうるさいぐらいに頭を悩ませていた。
 胸の鼓動は収まることを知らず、いまやもう痛いぐらいで……。

「……ありえませんわ」
 あの人が告げた言葉の端を少しでも理解しはじめた途端、自分の口から出た言葉はそれだった。
「そんなこと、あるわけないではありませんか……」

 悪い冗談だと、引きつった笑い声が口から漏れた。

「私は宮小路瑞穂ではなく、本当の名を鏑木瑞穂と云います。そして、貴子さんと同じ女性ではなく……本当の性別は男なんです」
「もう冗談は止めてくださいっ……! お姉さまが男性だなんて……悪い冗談です」
「貴子さん。今の私を見て、男だとは思えませんか?」

 そう云って、あの人は自分の体を指し示す。

 先ほども見たが、胸の膨らみは皆無だった。
 ほっそりとした外見で、身長の高さだけみれば男性的だと思えなくはない。
 着ている服は目立った所の無いパンツスーツで……いや、よくよく見ればボタンの位置が逆で、男性のそれだった。

 しかしその程度では、男装していると見えなくもない。

「せ、聖應時代のお姉さまは、どう見ても女性でした」
「母親似のせいか、昔からよく女の子だと間違われてきました。胸にはパッドを入れていました。化粧や香水は、親戚のまりやに仕込まれました。髪は以前から伸ばしていましたし、立ち居振る舞いについては戸惑いましたが、すぐに慣れることが出来ました」

「見た目を誤魔化せたとしても、女子校で男性が問題なく過ごせるわけがありませんっ」
「まりやと友人の紫苑さんが色々と手助けしてくれました。いつバレてしまわないかと恐れていましたが、無事に一年を過ごせてしまいました」

「例え女生徒たちを誤魔化すことが出来たとしても、学校側を騙し通すことは出来ないはず……」
「私は鏑木瑞穂です。鏑木家の祖先が聖應女学院を創設し、現在でもなお援助が続いていて家の影響力は強く、学校側も協力せざるを得なかったのでしょう」
「鏑木……瑞穂……」
「厳島家と敵対関係にある鏑木グループの総裁、鏑木慶行の長男です」

「……そんなことをして」
 手の震えが止まらない。
 泣き出してしまいそうになるのを、ギュッと奥歯を噛みしめて我慢する。
「そんなことをする理由が、わかりませんっ……!」

「五年前に亡くなった祖父、鏑木光久の遺言でした」

「性別を偽って、大切な高等部三年の時期を過ごせと……!?」
 手を振り乱し、勢いよく立ち上がる。
「女装してまで、女子校に通えと……!?」
 立っているあの人に詰め寄る。
「正体をばれないようにしてまで、聖應に通えというのが遺言ですかっ……!?」

 あの人の胸ぐらに掴みかかり、揺さぶろうとして。
 その平板な感触に気づいて、はっとなって飛び退いてしまう。

「遺言の意図までは知らされませんでしたが……。聖應に通うまでの自分は、心から友人と云えるものを持てない、勉強や習い事だけが取り柄の人間でした。今思うと、そんな私のことを変えるためにあんな無茶な遺言を残したのかも知れませんね……」

 目の前に居るあの人のことが、急に怖くなってきた。
 嘘をついてきたと告白するあの人のことが、信じられなくなってくる。

「嘘だと……今云ったことは全部嘘だと云ってください……。酷い冗談ですが、今ならまだ、赦してあげますから……」
「………」

 顔を少し俯けたまま、何も云ってくれない。

「……信じろというのですか、そんな無茶な話を? 今時、子供だってもっとましな嘘をつきますっ」
「………」
「なんとか……なんとか云ってください、お姉さまっ!」

 私の泣きそうな声を聞いて、あの人は苦しそうに顔を歪める。

「私にはもう、お姉さまだなんて云われる資格は無いのです。いえ、もともと初めから資格など無かった。だから、聖應を卒業したら姿を消すつもりだったのです」

 姿を消すつもりだった。
 だから四年もの間、誰にも行方を知られずに居たということで。
 ならば、どうして。

「……ならばどうしてっ!」

 もう、我慢できなかった。
 あの人のことを見つめる視界が、歪んでいく。

「ならばどうして、私の前にまた現れたりしたのですかっ……!」

 目から熱い涙が溢れていく。
 止まらない。

「こんなことなら……もうっ、会いたくなど、なかったのにっ……!!」

 酷すぎる。
 あんまりに酷すぎるじゃないか。

 こんな真実を突き付けられるのなら、再会などしたくはなかった。
 ずっと、あの聖應での一年を大切な思い出として残しておきたかった。

 街行く中で、あの人と似た後ろ姿を見つける度に胸を高鳴らせて。
 期待して、けど裏切られて。
 そんな繰り返しさえも、今では愛しかったと思えるぐらいで……。

「どうして……放っておいてくれなかったんですかぁ……!」

 膝に力が入らず、その場に膝をついてしまった。
 こぼれ落ちる涙が、絨毯のうえにパタパタと染みを作っていく。

 そのまま突っ伏して泣き崩れてしまいそうになるのを、両手で床をついてグッと我慢する。
 しかし、瞳からは涙が、口からは嗚咽が止まらなかった。



 ……近くに、衣擦れの音。
 見れば、私のすぐ前にあの人が両膝をついていた。

「友人が大変な目にあっているというのに、放っておくなんてこと、出来るわけないではありませんか……」

 あの人の両膝に当てられた手が、かたく握りしめられていた。

「私にとって、聖應での一年はかけがえのない思い出です。あの学生生活を振り返れば、まず思い浮かぶのが紫苑さんとまりやと妹たちと……そして、貴子さんのことでした」

 あの人の顔は直視できない。
 だから、もどかしそうに震えている、あの人の握り拳を見つめる。

「紫苑さんは酷いです。婚約の話を、破談になるまで私に内緒にしていたんです。だから、あの縁談を貴子さんが壊してくれなかったら、今頃取り返しのつかないことになっていたかもしれません」

 あの人の声は、少し震えていた。
 しかしそれでも、優しく染み入るような口調で言葉を紡いでいく。

「友人である紫苑さんを助けてくれた貴子さんは、私にとっても大切な恩人です。そんな貴子さんが、紫苑さんを救うために生家と袂を分かち、嫌がらせを受け続け、働き口さえも見つからない窮地に追い込まれていることを知りました」

 その語りに惹かれて、視線がおずおずと上がっていく。
 あの人が喋る度に動く唇を、じっと見つめる。

「紫苑さんを救う機会は与えられませんでしたが……今の私なら、貴子さんを助けることが出来ます。私に、あなたを救わせて欲しい」

 そこでしばらく口をつぐんで。

「……貴子さん。あなたを、助けたいんです」

 目と目が合った。

 多くの嘘で塗り固められていたかも知れないあの人は。
 しかしそれでも、その瞳は怖いぐらいに真剣で、綺麗に澄んでいた。

 ……あなたを、助けたいんです。
 そう紡がれた言葉が、痛いほど胸に染み込んでいく。

 不思議と、涙は止まっていた。
 ただ、息をつくことさえ苦しいような緊張感が漂う中、あの人と見つめ合う。

 外から差し込んでくる夕日の光が、眼と頬とに熱く感じられた。

「貴子さん、私の元で働いてもらえませんか? あなたに助けて貰えるのなら、これほど心強いものはない」

 そう云って、あの人はゆっくりと、私の前に右手を差し出した。

 ……その手を取れば、全てが変わるとわかっていた。

 男性にしては端正すぎる、ほっそりとした手。
 窓から差し込んできた夕日に彩られたその手を見つめる内に、逼迫した日々の中で色を失っていた私の世界に鮮やかな色が浸透していった。
 それはまるで目が覚めるような勢いで、私の意識を覚醒させていく。

 厳島家からの嫌がらせも。
 明日さえ見えない生活も。
 生きていく理由さえ見失い掛けている、今の自分も。

 私を取り巻く環境全てが、その手を取ることで良い方向へと変わっていくに違いなかった。
 運命の分かれ道という言葉が脳裏をよぎるが、正解がこれほど明らかな選択は無いだろう。

 その手を取れば、全てが変わるとわかっていた。

 ……それでも。
 それでも私は、その手を拒絶した。

 両手で押しのけるように、あの人の手を戻した。

「……貴子さん……」

 ふいに、目の前が暗くなった。

 それは言葉の通りで、辺りを赤く染め上げていた夕陽が高層ビルの影に入ったからだった。
 日はそのまま地に没し、やがて間もなく夜が来るだろう。

 薄暗くなっていく部屋の中で、心の内から言葉を探しつつ、ぽつりぽつりと呟いた。

「私は愚か者です。どう考えても、今この場であなたからの誘いを受けるべきだとわかっています。わかっているんです……」

 私は今、どんな顔をしているのだろう。
 涙は止まっていたが、頬と唇の震えが止まらない。
 また泣きそうな顔をしているかもしれない。

「お姉さま……いいえ、あなたは……きっと知らないでしょう」

 笑え。
 笑って、私の顔よ。
 胸の前で両手を抱き締めるようにして、私はゆっくりと、しかしはっきりと告げる。

「私、厳島貴子は、宮小路瑞穂という同級生の女の子に恋をしていました」

 目の前にいるあの人の瞳が、大きく見開かれる。
 少しは驚いてくれたのかな、という気持ちに胸の痛みが和らいだ。

「それと自覚したのは、あの秋のことです。聖應で行われた学院祭での、演劇中での事故のような口付けがキッカケでした。たわいの無いことでしたが、キッカケはそれで充分だったのです」

 この口から告白の言葉が紡がれているというのに、不思議と恥ずかしさは感じられなかった。

「顔を見るどころか、姿を思い浮かべるだけでも胸が苦しくなるだなんてこと、初めての経験でした。そうです、お恥ずかしながら初恋です。女子校ですもの、恋を知らずに大人になる子だって沢山いたはずです」

 甘く、しかし切なくて苦しい思い出。

「自分の思いを持て余し、苦しみました。同性の女の子に恋をするだなんて莫迦げていると、なんとか抑えようと必死でした。ただの一過性の気の迷いだと信じて、あなたには何も告げられないまま、卒業を迎えることになりました」

 卒業したら、忘れられると思っていた。
 ……しかし、それで想いは断ち切られなかった。

「けれど、会えなくなってもこの気持ちは消えませんでした。いえ、会えなくなってからのほうが、想いは強くなってしまったのです。思い出は美化され、願望がそれに味付けして、いつしか本当の恋へと成長してしまったのかもしれません」

 溜め息をつく。

 あの人が男だと知って、自分が異常では無かったのだと安心できたと同時に。
 ならば今まで、自分が苦しんできたのは何だったのかと悲しくなった。

「四年……四年です。厳島貴子という女の子は、同性の宮小路瑞穂という少女に抱いてはいけない恋心に捕らわれ、いつか再会できる日を心待ちにしていたんです……」

 確かに存在していた、淡くて儚い恋心を。
 かつての自分を抱き締めるように、胸の前で自分の両手を抱き合わせた。

 四年という長い間、抱いてきた気持ちを、はいそうですかと捨てることなどできはしなかった
 あの日々を無駄だったと切り捨てることは、あんまりに悲し過ぎる。

「……今、ここであなたからの誘いを受けてしまえば……。あの日々は何だったのだと……無駄なことだったのではないかと、否定することになりそうで。それではあんまりに、過去の私が不憫でなりません……」

 同性へのあり得てはいけない恋に焦がれていた日々は、切なくてもどこか甘くて、私の少女時代で大きな部分を占めていた。

「私のくだらない感傷に過ぎないとわかっています。でもそのくだらない所を切り捨ててしまえば、今はもうなにも持たない私にとって、大切な何かを失うことに思えてしまうのです」

 夕陽が落ち、控え目に電灯が付けられているだけの応接室。
 私が口を閉じると、静かな、しかし長い沈黙がやってきた。



 あの人は、私の告白を受けても驚いているだけで身動きできずに固まっていた。
 しかし、それが何よりも返事となっていた。

 わかっていた。
 この想いが一方通行でしかないということを。

 聖應の高等部で過ごした一年。
 友人とは云えるだろうが、親友とも云いづらい間柄だった。

 友人としか思われていない。
 親友だったり、あるいは恋心を抱いていてくれたなら、四年も放っておかれることなどなかっただろう。

 ……私の初恋は、今日この時に終わったのだ。

 ただ、意外に大きな解放感があった。
 結果のわからない恋ほど、尾を引くものなのかも知れない。

 所在さえつかめず、ただ思い出を温めるだけの日々は、想いを募らせるだけだった。
 騙されていたということによる負の感情は残っていたものの、何にせよ、これで全てに区切りをつけられるだろうと感じていた。

 いままで嘘をついてきたこの人を、私の告白で困らせてやれた。
 そんな小さな復讐にひとつ笑って、ゆっくりと立ち上がった。

「……このままここに居たら、決意が揺らいでしまいそうです。これで、帰らせていただきます」
「貴子さん……」

「鏑木、瑞穂、さん」
 初めて口から紡ぐ名前に、強い違和感があった。
「あなたからの誘いは、私にとって十分に救いでした」

 そうして、まだ膝をついたままのあの人に向けて、意識して微笑みを作る。
 溢れそうになる様々な思いを乗せて、ゆっくりとこう口にした。

「……さようなら、お姉さま……」

 もう二度と、そう呼ぶことは無いだろう。
 それどころか、もう会うことすら無いかも知れない。

 後ろ髪引かれる気持ちをかなぐり捨てるように。
 身体を反転させ、外に出るために扉へと歩いていった。

「……貴子さん」

 そんな私を引き止めるように、背後から声。
 私の足は止まったが、それでも振り返ることだけは我慢できた。

「急ぎません。もし気持ちが変わったら、私の元を訪ねてください。ずっと……ずっと待っていますから」

 その言葉が持つ魅力に抗うことは辛かった。
 それでも、私は何も答えず、応接室から立ち去った。



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