かすかな期待に、自然と歩幅が広がった。
大通りの交差点。
横断歩道を利用しようと、赤信号で足を止めている人たちの中にその姿を見つけた。
私よりも少し高いぐらいの身長で、濃紺のパンツスーツ姿。
そしてなによりも、脚にまで届こうかというほどに長く美しい頭髪。
日の光を受けて飴色に映る長髪はとても綺麗で、今度こそはと淡い期待に胸が疼いた。
その人物の側に立ち、ちらりと横顔を見やる。
整った面立ちをした女性だったが、私の求めていた人では無かった。
……もう何度目かも思い出せないほどに繰り返された溜め息。
信号が青になり、動き始めた人波に流されるように歩き出した私は、物思いに沈んでいった。
あの人と出会ってから五年。
卒業式で会えなくなってから四年と少しが経っていた。
……聖應女学院高等部で、エルダー・シスターと呼ばれる生徒達の代表に選ばれたあの人は、その美貌と才覚、優しい人柄とで多くの逸話を生み出していった。
高等部を卒業した後でも、あの人を知る者同士が集まれば、いつだってあの人のことが思い出として語られるほどに強い影響力を持っている。
けれど、卒業式からあの人の行方は杳として知れず。
あの人が今どこにいるか、なにをしているのかすら、誰も知らない。
あの人と仲が良かった十条紫苑さまは、ただ微笑むだけでなにも語らず。
あの人の幼馴染みだという御門まりやさんは、海外へ留学に行ったきり日本には帰っていないようだった。
卒業式から、あの人の消息はパッタリと途絶えてしまった。
あの人を知る者同士が集まると、あの人との思い出話から始まり、そうして今何処にいるのだろうか、という話題へと移っていく。
あれだけの美貌と才覚を備え持った人だから、高等部卒業後にただの人として埋もれていくとは考えられない。
あまりに誰も行方を知らないので、考えたくは無いものの亡くなったのではないか、という不吉な話から、海外に行っているのではないか、とか。
さらには、今思い返しても完璧過ぎる人だったので「宇宙人」だったのではないか、などと冗談混じりに語られるほどだった。
つい最近、社交界であの人と似た人物を見掛けたという噂話が流れたものの、その人物が男性らしいという追加情報が流れるにあたり、一笑に付された。
あの人ほどの淑女を男性と見紛うわけがないと、誰もがその話を信じなかった。
興信所や探偵やら、そういった類のものに捜索依頼を出した同級生も居たそうだが、結果はどれも同じ。
これは噂であるものの、契約期間前に依頼を断ってくる者も出てきて、どこかしらかの圧力を感じさせることもあったとかなかったとか。
……そうやって四年が経った今でも、あの人のことを忘れられなかった。
街中の雑踏で、デパートメントの中で、駅のホームで。
バスの中や、小さなコンビニエンスストアの中ででも。
あの人と同じ身長、あの人と同じ長さの頭髪の女性を見掛けると、顔を確認せずにはいられなかった。
百七十を超える身長と、腰下まで届く長髪の女性などそうそう見掛けないので、そんな頻度ではなかったものの。
長い髪の後ろ姿を見掛ける度に淡い期待を抱き、そうして毎回溜め息をつく。
そんなことをずっと繰り返してきた。
一年経ち、二年経ち、三年経ち、そうして四年が経った今。
それはもう誤魔化しが利かないほどに、自分の思いに気付かされてしまった。
一緒に聖應で勉学をしていた時には抑え切れていたこの感情。
特別仲が良かったわけでは無いし、時には衝突することもあったというのに。
思えば、あの時だっただろうか。
秋の学院祭の劇上で、事故の様な口付けを交わしたあの時から。
私……厳島貴子は、あの人に恋してしまったのだろう。
女が、同級生の女性に恋してしまう。
そんなことはあってはいけないし、世間的にも異常なことだと自分を抑えつける。
年上の先輩とか、特別仲の良い友人へと抱く淡い感情などでは無く。
この身を苛む感情は、恋い焦がれる本当の想いで。
怖いほどに真摯で、誤魔化しの利かない感情にまでなっていた。
あの人と会えないということが、逆にこの感情を育て上げてしまったのかもしれない。
普通に会い、話をすることが出来ていたなら、友人として接し、やがてこの感情も冷ますことが出来ていたかも知れないのに。
自分がおかしいのかと、大学時代に男性と付き合おうとしたこともあったがうまくいかず。
ならばいっそ、その手の同性の女性とお付き合いしてみようかと思うこともあったが、これは男性相手以上にうまくいかなかった。
異性とか同性とかである前に、あの人である、ということが第一条件になっていると思い知らされた。
高校時代のイベントで事故のように交わされたあの口付けが、今も私を呪縛し続けているのだろう。
高層ビルディングが建ち並ぶ中、ふいに、小さく開けた場所が目に入った。
場違いと思えるほどに大きな公園。
周囲を青々とした木々に囲まれ、しかしそれでいて見晴らしも悪くない配置をされている。
中央には小さいながらも噴水があって、それを囲むように数多くのベンチが並んでいる。
憩いの場としては充分すぎるほどの施設だったが、公園でよく見られるような主婦の集まりや幼い子供たち、学校帰りの小学生、といった姿はほとんど見掛けられなかった。
周りは高層ビルばかりの状況で、ここを利用するのはそこに勤める会社員たちがほとんどなのだろう。
昼前後ならばここで食事を取る人の姿を多く見掛けることもあったのだろうが、午後三時を過ぎた頃合いでは、人影も疎らで閑散としていた。
公園に添え付けられた柱時計を見て、念のため自分の腕時計も確認し、まだ約束までかなりの時間があることに満足して頷く。
丁度良いと、公園の中に入って手近な位置にあったベンチに腰を下ろした。
学生の頃は五分十分の時間を惜しむような忙しさだったのに、今現在の私は時間を持て余してしまうほどに暇になっていた。
それというのも……。
投げやりに視線を動かせば、ごくありふれたスーツ姿の格好の男女を、少し離れた所に見つけることが出来た。
そのふたりは隠れるようなこともせず、かといって悪びれる様子も無く、ただ淡々と私の後ろから一定の距離を置いてついてくる。
格好はありふれた物でも、ふたりで居るのにまったく会話らしいものをしていないことや、こちらのことをじっと見つめて来る様子など、あきらかに通りすがりでは無い。
はぁ……とひとつ大きく溜め息をついて、ハンドバックから手帳を取り出す。
付箋を貼っていたページを開くと、会社名と連絡先、面接日時などが羅列されたページに辿り着く。
そこには会社名が書き連ねてあったが、多くは消すように横線が引いてある。
そうして、上着の胸ポケットから取り出した万年筆で、また新しく横線を引いた。
午前中に面接を受けたばかりだというのに、つい先ほど不採用の通知があったのだ。
手帳には数多くの会社名が書き込まれていたが、そのほとんどに横線が引かれている。
それは不採用の印であり、ここ数ヶ月、私が時間を無駄にしてきたことの証明だった。
中途採用ということを差し引いても、あり得ないほどに採用を断られ続けている。
正社員が無理ならば、社会勉強だとアルバイトをしようとしてみても、それさえも不採用。
うまく誤魔化して一日二日アルバイトをすることが出来たとしても、すぐ後には確実に解雇されるようなことが続いていた。
そのページをただ見つめていてもしょうがないので、左手に持った手帳を閉じる。
そうして右手の中の万年筆に目をやり、思わず視界が歪んでしまった。
「……紫苑さま……」
キャップに薄桃色の模様が刻まれた万年筆を、胸に抱え込む。
それは紫苑さまから贈られた、和解と友愛の印だった。
心に深く刻まれ、なによりも強く誓ったあの日。
あれは、今から六年も前のことだった。
紫苑さまがエルダー・シスターに選ばれる少し前。
紫苑さまの口から、私の兄、厳島順崇との婚約の事を聞かされた。
泣き腫らしたのであろう、赤い瞳とうっすらと出来た目の隈。
私を前にしてはらりと零した一粒の涙を、私は忘れない。
元より体の弱い人ではあったが、そのことで心労がたたって入退院を繰り返す。
栄えあるエルダーの勤めを全うできず、それどころか出席日数が足りずに留年するはめになってしまった。
全ては厳島のせいだ。
……私の、せいだ。
あの日を境に、私の生き方は変わった。
余暇はもちろん、睡眠時間や勉強の時間さえも可能な限り削る。
そうして、全ては紫苑さまを救い出すために時間を使った。
嫌われ、疎まれ、避けられてしまったけれど。
私はただ、敬愛する紫苑さまのために、自分が正しいと思ったことをするまでだ。
紫苑さまを救い出す、という最初に抱いた気持ちから。
……縁談を壊す。
壊すには厳島家と十条家とを結ぶ関係を切らせるのが一番だろう。
縁を切らせるには、例えば厳島の醜聞や不正を明らかにして、十条家との縁談を続けられない状態に持っていくのが確実ではないか?と考え。
厳島家が数多くの不正を連ね、十条家を絡め取ろうとする陰謀を見つけ出すに至るまでに六年の歳月が必要だった。
……陰謀。
まるでテレビや映画、漫画の世界の中でのみ語られるような言葉でありながら。
現実に行われていたソレは、生臭く、どす黒く。
おぞましいほどの醜悪さで、私を打ちのめした。
十条家が経営する製紙会社と競う別会社を事実上乗っ取り。
十条家の製紙会社を追い落とし、結果として逼迫する状況に追い込む。
追い込まれた十条家が厳島家へ助けを求めざるを得なくなり、その見返りに、厳島の息が掛かった人間を送り込まれる。
この二社と競い合うもうひとつの別会社の乗っ取りも進んでいて、事実上、日本の製紙業界を牛耳ろうと綿密な計画が練り上げられていた。
この計画を遂行するにあたり、多額の金銭や多数の人間、それに付随する不正行為が判明していくにつれて、自分の父親の冷血さと醜悪さに怖気立った。
こんなことを調べあげるのは、私ひとりの力では到底不可能だ。
皮肉にも、母が父の浮気を調べるために利用していた調査会社が役に立った。
約束された金銭さえ払えば確実に仕事をこなす本物のプロフェッショナル。
下手な調査会社を使っていたら、結果を知る前に、事が父に露見していたかも知れない。
……この件を白日の下に晒せば、厳島家と十条家の縁談など露と消えるだろう。
しかし、この事が世間に知れ渡ればどれほどの騒ぎになるか、想像が付かなかった。
厳島家の損害や、それに関連する企業への影響。
なによりも、この陰謀に関わってきた複数の人間たちの立場。
どれほどの影響を及ぼすかすら予想出来なかったものの、もう時間が無かった。
紫苑さまが大学を卒業すればすぐに結納が行われる。
結婚式の日取りが話し合われるほどに、現実味を帯びてきてしまっていたからだ。
一縷の望みに賭け、全てを明るみにする前に父親と対峙する。
調べあげた証拠を突き付け、厳島と十条家の縁談を取り止めるように要求した。
私がひとりで調べあげたことに驚き、感心した様子だったが、私の要求など歯牙にも掛けられなかった。
子供の戯れ言に構ってはいられない、と書類を破り捨てられる。
「それを破り捨てても無駄です」
すでにマスコミで取り上げる準備は出来ているし、それを厳島の力で握りつぶしたとしても、厳島とライバル関係にある鏑木グループにリークする手筈も整えている。
マスコミを黙らすことは出来ても、厳島と敵対関係にある鏑木グループならこの情報を活用しないはずがない。
それを伝えると、初めて父の顔色が変わった。
再度縁談の取り止めを求めるが、それでも頑として受け入れられなかった。
この計画に掛かった時間や金額、人脈とを惜しむ様子だったが、それでも納得できないことがある。
製紙業界を牛耳ることで、確かに多大な利益は出るのだろう。
しかし、父をここまで固執させる理由としては希薄に思える。
私の提示した情報が明るみに出ることによる被害のほうが圧倒的に大きいはずだ。
この件を調べていくうちに大きくなっていった違和感。
製紙業界の支配は、いわばついでで。
まるで十条家を手に入れることが一番の目的で、それを絡め取るにあたり「損をしないように動いた」ように思えてしまう。
「まさか本当に、十条家を手に入れたかったのですか? そんなことをしたところで、厳島が貴族になれるわけでもありませんのに」
悪い冗談だろうと吐き出した言葉は、しかし次の瞬間、痛みを持って返された。
乾いた音と衝撃。
真っ白になった思考は、地面に倒れ込んだ自分を認識するのに一呼吸するだけの時間が必要だった。
痛む右頬に手を当てて顔をあげると、腕を振り下ろした格好で息荒くこちらを見下ろす父の姿があった。
自分が殴られたとわかったと同時に、痛切なまでに理解してしまった。
それは、父親が娘の間違いを正すために振るわれる躾ではなく。
大の大人が、気にくわない女に苛ついて振る舞われた暴力でしかないのだと。
私の言葉が、父の痛いところを突いたのだった。
突き付けられた真実のほうが、頬の痛みよりも強かった。
「……出て行け。この恩知らずめ」
そう云い捨てた後、振り返ることなく父だった男は去っていった。
大学を卒業したら家を出て独立するつもりで準備していたのだが、それが半年ほど早くなった。
例の調査会社へ払う費用もあって、余裕があるというわけではなかったものの、残り少ない学生生活に支障が出ないだけの貯金は残すことが出来た。
質素堅実はむしろ望んでいたことなので、生活の落差は苦もなく受け入れることが出来たが、一人暮らしをするにあたって雑事に割かれる時間のほうが痛かった。
ただそれも、ひとりという気楽さと、自分が生きるために必要なことだと割り切って次第に慣れていく。
今まで紫苑さまを救うために時間を費やしていた。
その時間がすっぽり消えることによって、時間と心とに余裕を持てたのも大きいだろう。
……結局、最初に実施したマスコミでの取り扱いは厳島家によって差し押さえられてしまったものの、次の手である鏑木グループへのリークは功を奏した。
厳島家の策謀が業界内で露見し、広まり、厳島グループの信用が著しく低下する。
以前からそういった噂が絶えず、燻っていた火種が一気に燃え広がり、厳島グループ内外に飛び火する。
グループ内からも批判の声があがるなどして造反が相次ぎ、事態の収拾には長い時間が掛かることだろう。
厳島が狙っていた製紙業界の再編も頓挫し、各社に食い込んでいた厳島の息が掛かった者たちが更迭されるなど、業界の清浄化も進んでいく。
十条家が経営する製紙会社も大規模な再編が行われ、経営状態も改善することだろう。
もちろん、事が世間に知れ渡るにあたって、厳島と十条の縁談など粉微塵と消え去った。
感謝されたくてやったわけでは無かった。
ただ、贖罪の意味は強くあった。
厳島の血を引く者としての罪と、けじめ。
けれど一番強い想いは、自分が憧れ、尊敬している人に幸せになって欲しいというものだった。
……聖應女学院高等部を卒業してから、たまにしか会う機会の無かった紫苑さまが私の元を訪ねて来たのは、厳島と十条の縁談が無くなってすぐのことだった。
紫苑さまはどこから聞き及んだのか、事の発端が私の告発からはじまったのだということを知っていた。
大学卒業を控えた紫苑さまは、女の自分でも見とれてしまうほどに美しくなっていた。
それは見た目だけでなく、内面から醸し出される雰囲気からもうかがえる。
聖應女学院高等部で見掛けていた頃にはまだ残っていた少女らしさがゆるやかに抜け落ち、大人の女性としての空気を纏わせていた。
一方の私は、厳島の家から出てからというもの、最低限の身だしなみしか整えていない。
紫苑さまの突然の訪問でうろたえ、自分の格好をかえりみて恥ずかしくなった。
……紫苑さまは、今日は感謝と謝罪のために来たのだと、私に対して深々と頭を下げた。
たおやかな長い髪が地面につこうかというほどに頭を下げられ、私をいっそう慌てさせる。
顔をあげて欲しい、感謝されるいわれなどなく、むしろ厳島のせいでああなってしまったのだから当然の贖罪であると云い募る。
「それに、例え縁談を無くすことが出来たと云っても、紫苑さまの学生生活に翳りを落とし続けていたのは事実です。それはもう取り返しのつかないことですから、私に感謝する必要なんて……無いのです」
紫苑さまから感謝されて舞い上がっていた気持ちも、自らの言葉で薄れていった。
縁談という話が、紫苑さまにずっとストレスを与え続けていた。
あんなもののせいで、輝かしい学生生活に大きな影を落としていたのは紛れもない事実であり、今更どうやっても取り返しのつかないことだった。
……六年。
六年だ。
ずっと紫苑さまを苦しめ続けていたことを思えば、会わす顔など無かった。
「それは、あなたも同じではありませんか?」
紫苑さまは私の手を取り、まるで祈るように両手で抱え込む。
「貴子さんも、私と同じようにずっと苦しみ、戦い続けてくれたのでは無いのですか? 私のことなど放っておけば、もっと多くのことをご自分のために成すことが出来たはずなのに。あなたは決して、私を見捨てることはしなかった」
そうだ。
ずっと、走り続けてきた。
六年前から、ずっと。
「貴子さん。私たちは、お互いにお互いを、許し合わなければならないのかもしれませんね……」
そう云って、溶けいるように微笑んだ紫苑さまの瞳は、涙で揺れていた。
……あの日からずっと我慢し続けていた私は、その日、数年ぶりに声をあげて泣いた。
──そうして、今に至る。
右手に持った万年筆は、紫苑さまから贈られた物だった。
和解と、友愛の印。
紫苑の花の細工がキャップに刻まれていて、デザインは控え目ながらもセンスの良さがうかがえる逸品だった。
なんでも、デザイナーの卵である友人に作ってもらったというオリジナルの万年筆で、世の中に三本しか存在しないという話だ。
ひとつは紫苑さまが、ひとつは紫苑さまの友人に、そして残りひとつがこの私の手に。
紫苑さまの友人、と聞いてあの人のことかなと思ったけれど。
あの人のことを訊ねても、紫苑さまははっきりと答えてくれなかった。
簡単には答えられない状況にいるのかとわかって、少し怖くなってしまう。
あの人は今、どこで何をしているのだろう……。
大学在学中に内定が出ていた就職先は、なんだかんだと理由を付けて私の採用を反故にした。
間違いなく、厳島家からの圧力があったのだろう。
慌てて別の就職口を見つけようとするが、どれもこれも引っかかりもしない。
大手ならば自分の力が及ばなかったとも諦められるが、小さな企業でも同じだった。
気付けば、外に出る時には常に尾行がついていて、私の行く先々の企業を逐一調べ、厳島の力で根回しして邪魔しているようだった。
飽きもせず、ひとつひとつ丹念に完璧に、私の就職は阻まれていった。
……厳島家からの嫌がらせだとわかって、心底うんざりする。
そうこうするちに大学を卒業し、働くこともできない毎日を過ごさざるを得ず、さすがに生活費も危うくなってくる。
社会勉強だとアルバイトをしようとしても、それすらも邪魔された。
尾行をまいてアルバイトに就けることもあったが、それもただ解雇が数日遅れるだけの話だった。
あれから交友関係を持つようになった紫苑さまが、そんな私を見かねて、十条家で経営する北條製紙に就職しないかと持ちかけてくれた。
しかし、再建に奔走している所へ世話になるのは気が引けるし、そんな状況に追い込んだ厳島家の血を引く私が、その中で平静としていられる自信はなかった。
それならばと、なにやら面白いことを思いついたとでも云うかのように、紫苑さまはクスクスと笑った。
そうして、私にこんなことを提案してきた。
「厳島グループと敵対関係にある、鏑木の門戸を叩いてみてはいかがでしょう」
……いままで全く考えもしなかったことだ。
確かに、厳島と敵対関係にあるなら、その根回しを受け入れる必要が無い。
しかし、厳島家を出たとはいえ、ライバル関係である財閥の長女を受け入れてくれるだろうか?
そう考え、今まで鏑木グループの関連企業は避けていたのだ。
「北條製紙の再建には、鏑木グループからの業務提携も大きく関係しています。私にもツテがありますので、その方を訪ねてみませんか?」
そう云って、どこか悪戯っ子のように微笑む紫苑さま。
紫苑さまにそんな笑い方をさせる人物がいるのかと興味がわいた私は、その提案を受け入れることにした。
頃は良し、と万年筆と手帳をしまい、ベンチから腰を上げる。
これから向かう先は、鏑木グループの東京本店。
鏑木グループの関連会社ではなく本店、しかも本社ビルでの面接という話だった。
紫苑さまが取り計らってくれて、本社ビルの受付で私の名前を告げればその人物に引き合わせて貰えるということになっていた。
そんなことが出来るほどに、その人物とは大物なのだろうか?
◇