track 3……木々の声と日々のざわめき
昼食を食べた後、なんのあてもないまま、商店街をふらつく。
もしかしたら、なにか起こるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、俺はひとり、寒空の下、商店街を歩いていく。
なにか、ではない。
俺が望むものはひとつ。
真琴が帰ってくることだ。
昨日も一昨日も、この街中を歩き回っていた。
偶然知人に会うことはあっても、いちばん会いたい真琴を、探し当てることはできなかった。
そういえば、と思い出す。
真琴と出会った…いや、再会したのは、この商店街だったな。
『やっと見つけた…』
まとっていた毛布を投げ捨て、その中から痩せた少女が現れ、俺を睨みつけてきたのだ。
『…あなただけは許さないから』
覚悟、と一声叫んで、俺に殴りかかってきたんだ。
しかし、アイツの頭に手をやって制すると、小さいアイツの手は俺に届くことなく、宙を掻くだけだった。
『許さないんじゃなかったのか』
『お腹すいてるからっ…それで調子が出ないのよぅっ』
そう強がって見せた後、ほんとうに空腹で気絶してしまった真琴。
「まったく…」
あの時の様子を思い出し、にわかに笑いがこみ上げてきた。
商店街の中で、ひとり笑い出すわけにもいかないので、息を大きく吸って吐いて、笑いの衝動をごまかす。
吐き出された息はたちまち白く濁り、そしてやがて、空気の中に散っていった。
…帰るか。
もしかしたら、家のほうにアイツが帰ってきているかもしれない。
今日も昨日も一昨日も、そう思って、家と商店街、そしてものみの丘を行き来していた。
そろそろ、夕方という頃合いだ。
赤い夕焼け空が目をさす。
…どっかで弁当でも買って、帰ろう。
そう思って、弁当屋かなにかを探しはじめた俺に、黄色い声が襲いかかってきた。
「あ〜っ! 祐一さんだぁー」
綺麗に澄んだ声が商店街に響き渡り、俺のみならず、周囲の人々も、その声の持ち主に視線を送る。
倉田佐祐理。
ひとつ年上の、俺の親友。
「お、おう、祐一さんだぞ」
声だけでなく、その美しい容姿が周囲の視線を集めていた。
そんな注視の中に入っていくのに、それなりの勇気が必要だった。
しかし、ここで気づかないふりをして帰ろうとすれば、マイペースな佐祐理さんのことだ。
さらに大声あげたり、果ては「祐一さ〜ん」とか言って後ろからつかみかかってきそうな気がした。
「祐一さん、こんな時間に、おひとりでどうしたんですか?」
佐祐理さんは、スーパーの大きなビニール袋を手に提げていた。
「いや、ちょっと弁当でも買おうかと思ってさ」
「はぇ〜…。秋子さんと名雪さんは、どうなさったんです?」
佐祐理さんに、俺の家族ふたりを引き合わせたことがあった。
佐祐理さんといい、秋子さんといい、名雪といい、おっとりとマイペースな一面があるので。
互いの会話が噛み合わず、若干ずれているというのに、楽しげな会話が延々と続くさまは圧巻だった。
「ふたりはいま、温泉旅行で出掛けているんだ」
「なるほど〜。それで、ひとり残された祐一さんは、御飯を求め、商店街をふらついていたんですね」
そんな風に言われると、なんだか自分が可哀想になってきた。
「じゃあ、祐一さん。せっかくですから、佐祐理たちと一緒に、ご飯を食べませんか? 今夜はお鍋です」
そう言って、佐祐理さんはスーパーの袋を掲げて見せた。
「鍋か…」
お鍋。
しかも、あの佐祐理さんの鍋料理だ。
うまくないはずがない。
「う、む…」
佐祐理さんの美味から、しばらく遠ざかっていた。
秋子さんの料理は抜群に美味しいのだけれど、佐祐理さんの料理も、俺は好きだった。
思わず、よだれが口中ににじみ出る。
「鍋、お鍋、お鍋ですよ〜」
うりうり、と俺を誘うように、佐祐理さんが食材に満ちたスーパーの袋を揺らす。
抗いきれず、俺はその袋をガッシとつかみ取る。
「…お邪魔させていただきます」
「はいっ」
佐祐理さんが持っていた袋を、俺が代わりに持つことにする。
そして、佐祐理さんの隣に立ち、さっきからなにも喋らないその人物に目をやる。
「んで、佐祐理さん。このお隣の人は、佐祐理さんの彼氏?」
ドシュッ…!
「ぐふぉあっ!」
超弩級のツッコミを、その人物…川澄舞から喰らう。
…というか、それはツッコミじゃなくて本物の手刀だった。
「…祐一、私のこと、忘れたの?」
「い、いや、ジーンズ履いてて長身だから、てっきり男かと…げふぉげふぉ」
お約束をかまして、こんな痛い思いをするのは勘弁してほしい。
「あははー、舞と祐一さん、相変わらず仲が良いですねえ」
どこをどう見たらそうなるんでしょうか、佐祐理さん。
舞が先頭を歩いて、その後ろに俺と佐祐理さんが会話しながらついていく。
1年前から変わらない、あのお馴染みの構図。
佐祐理さんは、社会勉強という名目で親元を離れ、ひとり暮らしをしていた。
ちょうど、この商店街の近くにある小綺麗なマンションだ。
舞なんかは、頻繁に泊まっているらしい。
何度か俺もお呼ばれしているものの、やはり世間体というものが気になって、なるべくお邪魔しないように気をつけていた。
年頃の……しかも綺麗な女性の部屋を若い男が出入りしていては、近所の風評によくないだろう。
佐祐理さんは、こと自分に関して、ほんとうに鈍い。
あるいは、周囲の目がどうとらえようと、本人がいいと思うのなら構わないタチなのかもしれない。
いい意味でも、悪い意味でもマイペース。
そういえば、ふたりが俺と同じ高校に通っていた頃は、周囲から三角関係がどうのと思われていたようだ。
俺たちの仲がギクシャクするようなことがなかったのは、佐祐理さんも舞も、そういうことをぜんぜん気にしないからだろう。
それでいて、佐祐理さんは恋愛方面の話が人並みていどには好きらしく、俺と舞をくっつけようとすることさえあった。
ただ、その興味も人の恋愛だけであり、佐祐理さん本人は、自分の恋愛に無頓着らしい。
と。
先頭を歩いていた舞がふいに立ち止まり、さっと振り向いた。
「どうしたんだ?」
「……」
舞は、俺たちの背後を見つめている。
俺と佐祐理さんも振り返ってみるが、商店街の一風景が見えるだけで、これといって目を引くモノはなかった。
夕方という時間帯からか、穏やかな活気に溢れた商店街。
人通りもかなりのものだ。
「後をつけられている…」
「え?」
「…ような気がする」
舞にしては珍しく、自信なさそうに首をひねった。
「佐祐理さんのストーカーとか?」
冗談でそう口にしてみて、その可能性の高さにゾッとした。
佐祐理さんほどの女性になら、懸想してとんでもない行動に及ぶ男が出たとしても、不思議じゃない。
「…スニーカー?」
とか舞がぬかすものだから、反射的にツッコミをいれる。
しかし、舞は俺以上の反射神経でもって、そのツッコミを受け止めた。
「なにするの?」
舞は、ちょっとムッとして言った。
「舞がボケをかましたから、ツッコミをいれようとしたまでだ」
「ボケ?」
「…いや、もういい」
「知り合いかな?」
佐祐理さんは見知った顔がないか、通り過ぎる人々の顔を見回していたが、それらしいモノはなかったようだ。
「知り合い、というか」
舞は、やはり自信なさげに呟く。
「まるで…」
考えつつ、ポツポツと言葉にする舞。
「…そう。小さな犬さんに餌をあげたら、家までついてきてしまった。…それに、似てるような似てないような」
「なんだそりゃ」
「今日は、犬さんは見てないですねえ」
「それと、子供をいじめようとしていた犬さんを懲らしめたら、逆恨みされて、家までついてきてしまったような。
…それにも、似てるような似てないような」
…さっきと全然違う感じなんじゃないか、それって。
「結局なんだ、野良犬かなんかがついてきてるのか? それらしい姿はないけどな」
「でも、犬でもないような」
おいおい。
「…結局、なんなんだよ」
「わからないから、困ってる」
舞は、納得いかない表情で、商店街を見回している。
「それじゃ、人気のない所に行って、誘い出してみるか? ストーカーだったら、懲らしめてやるぞ」
「…ストーカーって、なに? 靴の種類?」
「だから、舞、お前な…」
「いえ、帰りましょう」
佐祐理さんは、にっこり微笑んで言った。
「犬さんだか、ストーカーさんだかはわかりませんが、佐祐理のマンションに戻れば、大丈夫ですよ」
まあ確かに、佐祐理さんのマンションは交番も近いので、治安は良さそうだ。
「さあ、行きましょう」
佐祐理さんは、スタスタと歩き始める。
それに遅れないよう、俺と舞も続いた。
そうして何事もなく、佐祐理さんのマンションに着いた。
俺たちを迎え入れようと、自動ドアが開く。
「さ、中に入りましょー」
そう言って、佐祐理さんがマンションの中に入っていく。
…と、その時だ。
「ま、待ちなさいよぉ〜っ!」
背後から、どたどたという駆け足の音と、呼び止める声が聞こえてきた。
…俺の心臓が、ドクンと激しく脈打つ。
「待ちなさいって…うわあぁあっ!」
ズシャ…と音を立てて、彼女はうつぶせに転んだ。
…その声、俺が間違えようはずがない。
「あぅ〜っ。痛い〜、足すりむいたよぅ」
「…大丈夫?」
「て、敵の情けは受けないわっ」
膝小僧を擦りむいた彼女に、舞が手をさしのべる。
しかし、彼女は噛みつきそうな勢いで、その手をはね除けた。
…あまりの出来事を前にして、地に足がつかないような感覚。
「ひとりになるのを待っていたのに…減るどころか増えちゃうし」
彼女は悪態をつきながら、よろよろと立ち上がる。
…叫び声をあげたいくらいなのに、喉が貼りついて声が出ない。
「やっと見つけた…」
彼女は、懸命にこちらを睨みつけてくる。
…そう、1年前も、お前はそう言ったんだったな。
「…あなただけは許さないから」
彼女は敵意をあらわに、俺と佐祐理さんのほうににじり寄ってくる。
…足が震える、喉が震える。
俺はいま、泣いているのではないだろうか。
「覚悟! …って、は、離しなさいよっ!」
拳を振り上げた彼女を、背後にいた舞がつかんで制止する。
…もう限界だった。
いや、なにを我慢する必要がある。
俺は…俺は、この時を1年も待っていたんだから。
衝動にまかせて。
身体が自然に動くのにまかせて。
俺は、彼女を正面から抱きしめた。
「うぷっ、ちょっ、苦し…っ!」
彼女は、俺の突然の抱擁に苦しそうにあえぐ。
力の加減ができない。
…でも、それぐらい我慢しろよ、1年ぶりなんだからさ…。
「なに…! 離…!」
俺の腕の中でもがく彼女を、俺はより一層強く抱きしめる。
彼女の髪のにおい。
乾いた日向の、あの暖かで優しいにおい。
間違いない。
間違えようがない。
…真琴だ。
真琴が、帰ってきたんだ…。
「真琴っ…!」
ほっそりとした柔らかい身体を、ただがむしゃらに抱きしめる。
この時を。
真琴が帰ってくるというこの時を。
ずっと…ずっとずっと、俺は待っていたんだ。
「…真琴ぉ…」
頬が熱い。
涙が、つぎつぎに流れているのだろう。
でも、構わない。
いまは、なにをしても。
どんなに無様なとこを見せたとしても、自分を許せる。
「…祐一」
「ずっと…ずっとずっと、待ってたんだぞっ…」
「祐一」
「心配かけさせやがって…」
「祐一っ」
「でも、よかった。ほんとうに…」
ポカ。
…痛い。
なんだ、と閉じていた目を開けると、眉間に舞のチョップが決まっていた。
「…舞?」
「祐一、その子を離してあげて」
「邪魔するな。1年ぶりの再会なんだからな」
「…でも、その子気絶してる」
「えっ!?」
抱きしめていた小さな身体を離す。
舞の言うとおり、気を失っているらしい真琴が、ぐにょんと後ろに崩れかかる。
「わーっ! ま、真琴ーっ!」
慌てて、真琴を前後に揺らすと、頭がガクガク揺れた。
「思いっきり抱きしめて、気絶させてしまったようですね」
俺の背後から、佐祐理さんが冷静に状況説明する。
「…感動の再会シーンで相手を締め落としてしまうだなんて、俺ぐらいなもんだぞ…」
「世界初かもしれません」
そんなもの、ぜんぜん嬉しくなかった。
「でも…」
気を失っている真琴を、今度はできるかぎり優しく、きゅうっと抱きしめる。
「ほんとうに、ほんとうに…よかった…」
佐祐理さんと舞だけでなく、通行人の目も気にならず。
俺はしばらく、そのままでいた。
興奮があるていど落ち着いてきてから、真琴を両手で抱き上げる。
「佐祐理さん、舞。ごめん、今日は俺、帰るよ」
「そうですか。…そうですね、わかりました」
「うん。…ごめんな、また今度、お呼ばれするよ」
「はい」
佐祐理さんと舞に、俺は背を向ける。
「…祐一」
舞の呼び止める声。
「なんだ?」
「……」
しばらく、舞と見つめ合う。
舞はなにかを言いたげだったけれど、やがて、首を左右に振った。
「…なんでもない」
「そうか?」
ちょっと気になりはしたが、いまの俺は、それどころではなかった。
「じゃあ、またなっ!」
挨拶もそこそこに、俺は帰路を急ぐ。
両腕にある真琴の重みが、なんとも心地いい。
気を失っている真琴に、俺はそっと囁く。
「…お帰り、真琴」
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