track 19……風を待った日



 嬉しかった。
 大声で叫びたいくらい、嬉しかった。

 またこうして、真琴と家に帰ることが出来るだなんて。

 真琴のためにずっと空けたままだった部屋に、静かに運び込む。

 秋子さんはなにも言わず、この部屋を真琴がいた頃のままにしていてくれた。
 そうして、部屋の掃除をしてくれているのを知っていた。

 当たり前のように用意されていた布団を敷いて、そこに真琴を横たえる。
 毛布をかけてやると…なにもやることがなくなってしまった。

 そうだ、真琴が起きたら、なにか食べさせてやろう。

 どうせすぐには起きないだろう…と思って、寝入る真琴をそのままに、階下に降りる。

 先日、秋子さんが肉まんを作ってくれた。
 それを、いくつか冷凍保存していたはずだ。

 …あった。
 すぐに温められるよう、外に出しておく。

 さて…他になにかやることはないか。

 居間にいた俺の目に、電話が目に入る。

 …いまのこの喜びを、誰かに伝えたい。
 この嬉しさを、誰かに分かち合ってもらいたい。

 秋子さんと名雪が出かけている今、俺の気持ちをいちばんわかってくれるのは、天野以外に考えられなかった。

 天野美汐。
 俺と同じ別れの経験を持つ、ひとつ年下の親友。

 それに天野は、真琴の友だちだ。
 真っ先に教えてあげないとな。

 壁にかけられた時計を見ると、もう7時近い時間だった。
 ちょっと逡巡したものの、思い切って電話をかける。

『…はい、天野です』
 聞き覚えのある声が、すぐに出てくれた。

「俺。…祐一。相沢だ」

 いざ電話をかけてみたものの、なにから喋ろうか、全然頭に浮かばなかった。
 なにかにせっつかれるように、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

『相沢さん? どうしました?』
「あー…ええと、すまん、忙しかったか? ええっと、その、なんだ。大変なんだ」
『はい?』
「お、おおお落ち着いてよく聞いてくれ。と、取り乱すなよ?」
『相沢さんが落ち着いてください』
「お前、そんな冷静に…。ちょっとは取り乱してみろ」
『…言ってることが支離滅裂です』
「わ、悪い…」

 うん、俺が全面的に悪い。

 あまりにも嬉しかったので、地に足がついていない状態だった。
 気持ちばかり焦って、言葉でうまく説明できない。

 うまく説明する必要なんてないのだ。
 ただ一言、こう伝えれば、話が進むはずだ。

「…真琴が」
『……』
「真琴が、帰ってきたんだ」
『……!』

 電話先で、天野が息をのむ様子がうかがえた。

「真琴が、帰ってきたんだよ…」
 あふれ出る喜びを、そのまま言葉にかえて紡いだ。

『…いまから、そちらにうかがってもよろしいですか?』
「ああ。真琴も、きっと喜ぶ。…いまは寝てるけどな」
『はい。それでは、すぐに行きますので』

 言葉もそこそこに、天野は電話を切った。
 受話器を元に戻し、俺はひとつ溜め息をつく。

 天野は、すぐにここへ来てくれるだろう。

 天野なら、この俺の気持ちを、いちばんに理解してくれるはずだ。
 なぜなら、天野は俺と同じ経験をしていて、俺を導いてくれた理解者なのだから。

 …そこで、気づく。

 俺の前に真琴は戻ってきたけれど。
 天野の元に、失った人は戻ってきただろうか?

 …戻ってきていない。
 俺と違って、天野に奇跡は起きてはいない…。

 浮かれていた心に、冷や水を浴びせられた思いだった。

 …そうだ、天野の前に、待ち望んだ奇跡が訪れるようなことはなかった。

 途端に、気持ちが沈む。

 天野が可哀想だ。

 俺と同じように苦しんでいた天野に。
 俺よりも先に、あの別れを経験した天野に。

 再会の奇跡が起きていないだなんて。

 天野は、どう思うだろうか?

 どうして俺にだけ奇跡が起こったのかと、嫉妬するだろうか。
 恨むだろうか。

 いまのこの、穏やかで優しい関係が崩れてしまわないだろうか。

 …嫌だ。

 天野を失いたくない。
 天野をこれ以上、悲しませたくない。

 やっと笑みを取り戻してきた天野を。
 俺は、大切に思っていた。

 …しかし、その心配も杞憂に終わる。

 天野はここまで走ってきたのだろう。
 呼吸も荒く、挨拶もそこそこに、真琴のいる部屋へと上がっていった。

 そして、寝入る真琴の顔を見て、瞳を涙で濡らしながら喜んでくれた。

「よかった。ほんとうによかった…」

 俺と一緒に、天野は素直に喜んでくれたのだ。

 天野を信じ切れなかった自分に憤り。
 そして同時に、いままで以上に天野が好きになった。



 夕方の出来事を天野に語ったり、これからのことを話したり。

 しばらく待ってみたが、真琴が目覚める様子はなかった。

「そういや、腹が減ったな…」
 気持ちが落ち着いてくると、途端に、体が空腹を訴えてきた。

 時計を見ると、もう10時近くだ。

「天野は、夕食は食べたのか?」
「はい」

 じゃあそうだな、さっき出した肉まんを1個だけ食べて、簡単にすますか。

『それじゃ、祐一。ぴろのこと、お願いね』

「…あ」
「どうしました?」
「ネコの餌、忘れてた」

 また名雪にどやされる。

 猫缶(ぴろの餌)を持って、家の中を探し回る。

「ぴろ〜。ぴろぴろ〜、ご飯だぞ〜っ」

 そこで、またも思い出す。
 よく考えたら、ぴろは真琴のネコじゃないか。

「おい、ぴろ〜。お前のご主人様が帰ってきたぞ〜っ」

 いつもなら「うにゃっ」とか言って、元気よく駆けてくるぴろの姿が、見えない。
 というか、ぴろは大抵、真琴の部屋の中にいたはずだ。

 そういえば、昨夜から、ぴろの姿を見かけないな…。

 首をひねりつつ、真琴の部屋に戻る。

「ネコ、見かけなかったか?」
 念のため、天野に訊いてみる。

「いえ、見かけません。…相沢さんの家では、ネコを飼っているんですか?」
「へ?」

 天野の言葉に、ちょっと意表をつかれた。

 天野を連れて、この家に何度も来ていた。
 その甲斐あって、天野も慣れ、秋子さんと名雪とも親しくできていた。

 あんなに何回も訪れていたのに、不思議と、天野とぴろが顔を合わせることがなかったのに思い当たった。

「ぴろっていってさ。真琴が拾って、すごく懐いていたネコなんだ」
「真琴が拾った、ネコ…?」
 天野が、ちょっと考えるような仕草をする。

「どうした?」
「いえ…。私も昔、飼っていたことがあったものですから」
「へえ」
「ちょっと、思い出しただけです」

 それきりネコの話が続くわけでもなく。
 穏やかな静寂が訪れる。

 …これ、どうしようかな。

 開けてしまった猫缶を前に、ちょっと困った。
 とりあえず、皿に移して、いつもの場所に置いておくかな。

 ぴーぴ、ぴーぴ…。

 電子音のようなものが聞こえてきた。

「あ」
 天野がちょっと驚いた後、その電子音も止まった。

 天野が腕にしている時計のアラームのようだ。

「もう10時ですね。遅くなってしまいますし、そろそろお暇しないと」
 言いながら、天野は立ち上がる。

 名残惜しげに、真琴の寝顔を見ていた。

「ゆっくりして行けよ。天野が帰るときは、送っていくからさ」
「そういうわけには…」
「なんだったら、泊まっていってもいいぞ」

 何回かだけれども、天野がここに泊まっていったことがあった。
 もちろん、名雪か秋子さん、どちらか一緒の部屋で、だけれど。

「名雪さんや秋子さんに悪いですから」
「いや、今日はふたりとも旅行でいないから。その点は気を使わなくていいぞ」
「……」
 俺の言葉を聞いて、天野が額に指を当てる。

「相沢さん。それは別の意味でまずいのでは」
「…い、いやいや、変な意味でなくて、だな。それに、大丈夫だ。変な気なんて起こさないから」
「それはそれで、なんだか私が情けないような気も」
「って、別にそういう意味で言ったわけじゃあっ…」

 しどろもどろになってしまった俺を見て、天野がくすりと笑う。

「冗談です」

 真琴が帰ってきて、俺はずいぶんとハイテンションになってるような気がしていたが。
 天野も、例外ではないようだ。

「…今夜は、眠れそうにないんだ」
 俺は、少し照れながら言ってみる。
「天野がいいっていうなら、話し相手になってくれないか」

 ふぅ…っと、天野が微笑んでためいきをつく。

「そうですね。それじゃあ、お言葉に甘えて。
…それに、いまから帰っても、テレビに間に合いませんし」
「テレビ?」
「10時から、見たいテレビがあるんです」

「天野も、テレビを見るのか?」
 ちょっと意外だったので、思わず言葉に出してしまった。

「当然です。それに、クラスのみんなについていけなくなってしまいますから」

 クラスのみんな。

 そんな言葉がなにげなく出てくるくらいに、天野は自分を取り戻してきていた。
 それも、俺にはとても嬉しいことだ。

「んじゃ、下でテレビ見ようか」
「え」
「ん、どうした?」
「…相沢さんも、一緒に見るんですか?」
「ああ。天野が、普段どんなテレビ見てるか、興味あるしな」

「……」
 急に、天野は黙り込む。

「さあ、見ようぜ? もう、10時になっちまうぞ」
「…相沢さんは、真琴の側にいてあげてください」
「どうせすぐ起きないって。コマーシャルの度に、見に来れば大丈夫さ」
「……」

 しぶる天野を押して、1階のリビングでテレビを見る。

 …そして、天野の意外な一面を知ってしまった。

「……」
「……」

「…天野」
「はい…」

「こ〜いうの、好き…なのか?」
「ち、違いますっ。クラスで流行っているんです、なぜか」
「そ、そうか…」

「……」
「……」

「…俺も、それほど嫌いじゃないかも」
「そ、そうですか。それはよかったです」
「天野は好きなんだろ? こういうの…」
「…嫌いじゃないです」

「意外だな。…いや、ほんと言うと、俺はちょっと苦手かも」
「さっき嫌いじゃないって言ったじゃないですかっ」

 普段冷静な天野が、顔を赤くしてオロオロする姿が、とても新鮮だ。
 こういうとき、さすがの天野も、年相応の女の子らしく見える。

 それが見たくて、よく天野を困惑させて遊んでいるのだが、度が過ぎると怒られてしまう。

「いや、冗談だ。嫌いじゃないぞ、うん」
「…相沢さんは、性悪です」

 ちょっとやり過ぎたかもしれない。

 そんな感じで、会話しながらテレビを見て…時はゆっくりと流れていった。



 天野は、自分からはあまり話を持ちかけないタイプだ。
 だから、俺たちの間に沈黙が訪れることはよくある。

 でも、それを苦痛に感じることはない。

 優しい静寂。
 居心地のいい空気が、そこにはあった。

 深夜。

 テレビ放映も一通り終わり、電源を切った後。
 なんとはなしに、ふたりして居間でくつろいでいた。

 会話も途切れ、ぼーっとしていた。

 …だから、2階でなにか物音が聞こえたとき、俺たちはすぐに気づいた。

 ふたりしてうなずき合って、真琴の眠る部屋に急ぐ。
 ドアを開けて部屋の電気をつけると、案の定、目を覚ました真琴が上半身を起こしていた。

 俺と天野のほうを、寝ぼけまなこでぼんやりと見つめている。

 真琴が、またこうして、この部屋に戻ってきた。
 その思いに、胸が熱くなる。

 駆け寄りたい衝動を抑えつつ、つとめて冷静に声を出す。

「よぉ、真琴、起きたか?」
「お帰り、真琴」

 そう話しかける俺たちを、真琴はしばらくぼうっと見つめていて。
 俺たちをはっきりと認識した後、大きく目を見開く。

「あああ〜〜っ! さっきの変態っ!」
「へ、変態っ!?」

 真琴は俺のことを指さして叫ぶ。
 そして、布団から立ち上がってずざざっと後ずさる。

「さっき、いきなり抱きついてきたじゃないっ!」
「それは、お前…」
「こんな所に連れ込んで、なにするつもりなのよぅっ。いったい、ここはどこなのっ!?」

 半分泣きべそになって騒ぐ真琴。
 その言葉に、その態度に、俺は背筋に嫌な寒気を覚えた。

「真琴、お前…」
「まことまことって…さっきから、あたしのこと、言ってるの?」
「あ、当たり前じゃないかっ。沢渡真琴。それが、お前の名前だろう…!?」
「……」

 きょとん…とした顔つきで、俺と、そして天野を見やる真琴。

「まこと…。あたしの名前? あたしのこと、知ってるの?」
「なっ…!? なにを言ってるんだ、お前っ!」

 冗談は止せ。
 …それぐらいで、冗談は止めてくれよ。

「だって」
 真琴は、不安な表情をのぞかせ、俺を見つめてきた。

「…だってあたし、記憶がないんだもん」

 なにかが、軋む音を、聞いたような気がした。


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