1998.01/19 Mon 06:55

 月曜の朝。

 朝に弱く、二度寝などで幼なじみを困らせていた茜。

 幼なじみの電話で覚醒するのが常だった彼女も。
 今朝は、もうすでに目を覚ましていた。

 そうして、祈るような面もちで、電話機を見つめる。

 緊張して、心臓は通常よりも早い鼓動を刻む。
 すっかり冷え切ってしまった手を、自分の頬に当て、あたためる。

(今日も、いつも通りの朝)

 茜は、願う。

(そうです、きっとそうです)

 いままでと同じように行動すれば、きっと、いままでと同じ生活が送れる。
 異変に気づかないふりをして、いつも通りの毎日を続ければ、なにもかもが元に戻る。

 そう願って、茜は、今朝も幼なじみからの電話を待つ。

『ぷるるるるるるる…』

 …やがて、待望していた呼び鈴が静寂を破る。

『…ぷるるるるるるる』

 茜はゴクリと唾を飲み込み、大きく深呼吸してから、受話器を取った。

「…はい」
『……』

 受話器の向こうからは、沈黙。

 茜にはわかっていた。
 その向こうで、彼がなにを待っているのか。

「おはようございます、ゆう」
『…おはよう、茜』

 そうして、受話器の向こうから安堵の溜め息。

 茜から彼の名前を呼ばなければ、決して、彼は挨拶をしない。

『おはよう、ゆう』
『ゆうですよね? おはようございます』
『ゆう、今朝は早いですね』

 茜のほうから呼び掛けなければ、応じない。

(こんな風になったのは、いつからだったろう…)

 …まるで、茜が彼のことを覚えているか確かめてからでないと、声を掛けないような。
 それと気づいて、茜は震えた。

 そして、今朝もいつも通りの挨拶。
 茜は、安堵に胸を撫で下ろす。

 しかし、茜の耳は違和感をとらえた。
 受話器の向こうから、自動車がすれ違うような音が微かに聞こえた。

「ゆう…。いま、どこから電話しているの?」

『…今日は学校、遅刻しそうだ。先に行っててくれるか』
「えっ?」
『2時間目には間に合うと思う。待ち合わせ場所に寄らないで、そのまま学校へ行ってくれ』

(なにかあったんだ…)

 そう思って、受話器を握る手に力がこもる。

「なにがあったので…」
『…じゃあ、また後でな』
「ゆうっ!」

『――ぷつっ…つー…つー…つー…』

 受話器をだらんと手に提げたまま、茜はしばらく、動けなかった。



   同日 09:30

 学校。

 1年近く通って、馴れてきた校舎。
 同じ制服を着た生徒たちが、千人以上も通い続ける場所。

 授業時間の静寂と、休み時間の喧噪と。

 日常と、平穏と、退屈と。
 …そんな、他愛もないものに満ちた所。

 意識することなく送ってきた、楽しい毎日。

(…それがいま、崩れようとしています…)

 茜は自分の席に座り、空になっている彼の席を見つめた。

 1時間目が終わった後の休み時間。
 しかし、彼はまだ姿を現さない。

 茜を居心地悪くさせる違和感。
 それは、彼がいないということも起因していたけれど…。

(…誰も、ゆうが欠席していることを気にしていない…)

 握りしめた手に、ぎゅっと力がこもる。

 彼と親しかった友人たちも。
 そして担任の教師ですら、彼が欠席していることを全く気にしていなかった。

 出席を取る際、真っ先に呼ばれるはずの彼の名前。
 しかし、担任も、1時間目の教師も、彼の名前を呼ばなかった。

 彼が休みだと気づいているから呼ばない…という感じではなく。
 最初からそんな生徒はいない、とでもいったような具合に。

 …彼がいないということに、誰も気づいていないという違和感。

 ふと茜が気づくと、すでに2時間目がはじまっていた。
 このクラスの担任の授業だった。

 まだ、彼は来ない。
 出席を取る際、やはり彼の名前は呼ばれなかった。

(怖い…。まるで悪夢…)

 周りにいる人間がつぎつぎと、ひとりの人間のことを忘れていく。
 そうしていつの間にか、その人物を知っている人間は誰もいないのだ。

(悪夢…? 違う、これは現実…)

 異変は、最近になって感じられるようになった。
 ひとり…またひとりと、クラスメートが彼のことを忘れていく。

(始まりは…そう、冬休みが終わろうとする頃…)

『ゆう…って、誰?』

 幼なじみの詩子が、真っ先に彼のことを忘れた。

『こんなヤツいたっけ…?』

 クラスメートが浴びせる、奇異の視線。

『その男の子、茜ちゃんの知り合い?』

 自分の息子を、他人を見る眼で眺める母親。

 …ふと…。

 茜は、彼の名前が呼ばれたことに気づいた。

 はっとして顔をあげると、そこに、教壇に立つ教師の姿があった。
 このクラスの担任である教師が、手にプリントを持ってなにやら言っていた。

 先日行った小テストを返していたのだけれど、その中に1枚だけ、見覚えのない名前があったのだ。

「…こんな名前の生徒、うちのクラスにいたかー?」

 ぞわっ…と、茜の背筋に寒気が走る。

「誰、それー?」
「いねっすよ、そんなヤツ」
「センセ、やだなぁ。自分のクラスの生徒ぐらい、覚えといてくださいよぉ」

「いや、先生もだな、おかしいと思って訊いたんだぞ。
 どっかのクラスのが混ざったのかもなあ。でも確かに、ここの組で記入されてるんだが…」

 …もう誰も、彼のことを覚えていなかった。

(…私だけ…私だけしか、ゆうのこと、覚えていない…)

 そうして緩やかに忍び寄って来た異変は、彼に冷たく突きつけられる。

 …教室が静寂を取り戻した頃。
 教室の後ろのドアが開き、ひとりの生徒が入ってきた。

「すみません、遅刻しました…」

 そうやって、申し訳なさそうに入ってきたのは、幼なじみの彼だった。

 しかし、教室に1歩踏み入って、彼の足は止まる。
 教室を満たす空気が、彼を拒んでいるのを察したのだ。

 担任の教師とクラスメートたちの視線が、一様に、彼を見知らぬ者として認識していた。

 さぁっと顔が青くなった彼は、しかしつぎの瞬間、笑ってみせる。

「…す、すんません、教室間違えたみたいっす!」

 そう言い残し、勢いよくドアを閉めて駆け去っていった。

「…誰あれ?」
「教室間違えたっつってたぞ」

 教室のあちこちで囁かれる声と忍び笑い。

(…やめて…)

 なにも気づかないふりをして、すべてが元通りに戻ることを願う。
 …そんなことが、もうすでに無意味であることを、茜は悟った。

「すんごい慌てぶりだったねー」
「やれやれ、まだ春は先だっつの」

(…やめてください…)

 ぎぎぎ…と音を立てて、茜は席を立つ。

「やめてくださいっ…!!」

 茜は声を限りに叫んだ。
 その勢いに、教室がシン…と静まる。

 茜は、机に掛けてあった鞄を持ち、ふらふらと歩き出す。

 あいた手で口を押さえるが、嗚咽は抑えられない。
 その頬を、涙が止めどなく流れていた。

「わ、私…今日は早退…します…」

 こみあげる嗚咽につかえながら喋った後、教室を出る。

「お、おい、里村っ!」

 茜はよろよろと走り、駆け去っていった彼を追おうとする。
 しかし、運動の苦手な彼女が、もとより彼に追いつけるはずもない。

 階段を降りる際、足がもつれて、数段分、転げ落ちた。
 そうしてうつぶせになって、茜は肩を揺らして泣き伏せた。



   同日 11:12

 …ザァー――…。

 雨が降っていた。
 冷たい雨が、止めどなく降り続けていた。

 彼の家を訪れた茜は、その異様な光景を目にすることになった。
 小さな庭に、積み上げられた物たち。

 彼の使っていたベッド。
 引き出しの抜け落ちた机。
 倒れた椅子。
 中身が残っている衣装箪笥。
 破れたクローゼット。
 彼が自慢していたテレビ。
 どれも見覚えのある衣類。
 散乱した書籍。
 デッキが開いたままのラジカセ。
 ケースから飛び出た何枚ものCD。

 それらが庭に無造作に捨てられ、山となっていた。

 彼の部屋を構築していた物たち。
 彼が存在していた証。

 それがいま、降りしきる雨に打たれ、無惨な姿をさらしていた。

『その男の子、茜ちゃんの知り合い?』

 彼の親は、自分たちの息子のことを忘れて。
 使っていないはずの部屋に、見覚えのない家具が置かれているのを知って、気味悪がって捨てたのだ。

(…彼はもう、ここには帰ってこない…)

 それでは、どこに行くというのか。

『そんな幼い初恋に囚われて、俺はどこかに行くのかもしれない』
『いままでずっと一緒にいたお前を置いて…。俺は、どこかに行くのかもしれないんだ』

 茜は、その光景を前に、呆然と立ち尽くしていた。
 傘を打ち付ける激しい雨音が、彼女を押し包んだ…。



   1998.01/22 Tue 07:02

 彼が学校へ来なくなってから、数日が経った。

『…ぷるる――』

 鳴り始めた電話を、待ちかまえていた茜が即座に取る。

「ゆうっ…!」
『…つー…つー…つー…』
「……」

 彼からのモーニングコールは、まだ続いていた。
 けれど、茜が受話器を取ると、即座に切られてしまう。

 彼が最後に学校を訪れたあの日から…。
 茜は、彼と会うどころか、声さえも聞くことが出来なくなっていた。

 …ただ、毎朝のモーニングコールだけが、彼がまだどこかにいることを物語っていた。

 そして…。



   1998.01/26 Mon 07:30

 ついに、彼からの電話が途絶えた。

 時計が、朝の7時を示す。
 5分…10分…20分…そして30分。

 …電話は、鳴らなかった。
 物言わぬ電話機を見つめ、茜は、ひとり泣いた。

(…もう来ない…ゆうは…あの人はどこ…)

 茜は泣いた。
 子供のように、しゃくり上げて泣き続けた。

 学校へ行くはずの茜が降りてこないのを心配して、母親が部屋に入ってくる。
 そうして、声を上げて泣きじゃくる娘に驚く。

「茜、今日は学校休む…?」

 そんな母親の言葉に、茜はまともに答えられない。
 ただ駄々っ子のように首を振って泣くだけだった。



   同日 08:00

 …ふいに。
 沈黙していたはずの電話機が、鳴り始めた。

『ぷるるるるるるる…』

 涙も涸れ、ベッドの上で放心していた茜は、その音でビクリと震えた。
 そうして、ぶるぶる震えながら、受話器を取る。

「…あ…あぁ…」

 まともに声も出せない。

 受話器の向こうから、物音。
 雨の音と、車の音。

「ゆぅ…ゆぅう…」

 茜がようやく喘ぐように声を出すと、受話器の向こうで溜め息が生まれた。

『…お前、どうして学校に行ってないんだ…』

 1週間ぶりに聞く、彼の声だった。
 それを聞いて、止まっていたはずの茜の涙が、ぶわっと泉のようにわき上がった。

「あぅっ…ひぐっ…」
『…学校、遅刻するぞ…』
「ゆぅ…ゆうぅー…」

 お互い、しばらくなにも言葉を出せない。
 茜の嗚咽と、受話器の向こうから聞こえる物音だけが響く。

『…茜。もう、俺がいなくても大丈夫だよな? ひとりでも、起きられるよな…?』

「…無理…ゆう…いないと…」
『ばか…、いつまでも甘ったれるな…』

 受話器の向こうの、彼の声がかすれる。

『電話してもお前が出なけりゃ、安心できたのに…』
「…ごめ…ごめ…なさい…」
『それが心配だけど…。でももう、お別れだ』
「…いゃ…いやぁ…」

『茜』

 そう言って、彼はしばらく黙り込む。
 数呼吸置いてから、ひどく冷静な声で告げた。

『今日でお別れだ。…お前も、今日で忘れる』

「…いやです…いやあぁっ…」
『いろいろと、ありがとう。それと…ごめんな…』
「…やだ…やだよおぉっ…!」

『……』

 ふいに、彼の背後から聞こえていた雑音が大きくなった。
 …そして、おもむろにガチャリ…と電話が切れる。

『…つー…つー…つー…』

「……」

 茜は、彼との繋がりを失い、そのまま泣き崩れるはずだった。

 …しかし、彼女の瞳に、光があった。
 いままでの彼女なら、そこであきらめ、泣いていただけだった

 けれど茜は、絶望しなかった。

 微かな希望。
 彼の背後から聞こえていた雑音から、それを聞き取っていた。

『…〜番ホーム…〜電車…〜ります』

(駅。間違いない、ゆうは駅の近くにいる。もしかしたら、これからどこかへ行ってしまう…?)

 しかし茜は、微かな手がかりに望みを託し、ベッドから立ち上がった。


 雨が降っていた。

 静かな雨。
 霧のように細かな雨。

 茜は傘をさして、駅のある方向へひた走る。

 もう、駅からどこかへ行ってしまったかもしれない。
 電車に乗ってしまったかもしれない。
 そもそも、元寄りの駅ではないのかもしれない。

 そんな、茜の気を萎えさせるような思考が浮かんでは消える。

 荒い呼吸。
 こぼれそうになる涙。
 漏れそうになる嗚咽。

 けれど茜は、ただがむしゃらに走り続けた。

 自分の頭がおかしいのではないか…。
 そう、疑うこともあった。

 彼という人間など初めからいなくて、自分の妄想が生み出した産物なのではないか、と。
 おかしいのは自分ひとりで…。

 そんな疑惑にとらわれそうになった頃、手に持つ傘に気づいた。
 去年のクリスマスに送られた、彼からのプレゼント。

(…ゆうはいた! 確かにいた! あの人を忘れないで、迷わないで、惑わされないで!
 確かに、あの人は存在していた。あの人の声、その優しさ、そのぬくもりを、私は忘れないっ…)

 茜は歯を食いしばって、気を奮い起こす。

 駅近くの、横断歩道で足止めをくらう。
 ここを過ぎれば、駅はもうすぐだ。

 信号待ちの間、荒い息を整えようとする。

 そんな自分に、信号待ちをする者たちが好奇の視線を向けるのがわかった。
 しかし茜は、睨みつけるような視線を虚空に向け、それを退けた。

 …茜は、ふと、視線を感じた。
 好奇のそれではない。

 茜は、視線を走らせ…。

 そうして、互いに吸い寄せられるように、ひとりの人物と視線が合った。

「…ゆう…」

 向こうの道で、信号待ちをしている人たちの中に、彼の姿があった。

 傘も持たず、雨に打たれるままにしている彼。
 ずぶぬれの姿をさらし、人混みの中にぽっかりと浮かび上がって見えた。

 …ふいに、彼は茜の視線から逃れるように、走りはじめた。

「ゆうっ!」

 横断歩道の信号は、まだ赤のまま。
 茜は彼を追おうとして、車道越しに平行して走る。

(あぁ…あぁ…!)

 茜は、走るのに邪魔になった傘を街路に投げ捨てる。

 しかし茜の足で追いつけるわけがない。
 さらに、車道に平行して走っていた彼も、途中の路地で折れた。

 茜に背を向け、全力で走り去る彼。

「ゆう――…!!」

 茜は…。
 反射的に、街路のガードレールを越え、車道に乗り出していた。

 激しいクラクションと、車の急ブレーキをかける音が響き渡る。

 突然、前方に飛び出してきた少女。
 雨で濡れる路面。

 走っていた車が、止まりきれるはずがない。

 …しかし、茜が迫り来る車に気を取られず。
 ただがむしゃらに車道を越えようとしていたことが、彼女を救った。

 茜の背をすれすれにかすって、ブレーキをかけた車が通り過ぎていった。

 よろよろと疲れ切った身体で、茜はガードレールを乗り越え、彼のいる街路に辿り着いた。

 背筋を凍らせるような甲高い物音を耳にして、立ち止まっていた彼。
 そんな彼に、茜は手を伸ばし、ギュッと抱きついた。

「ゆう…!」
「…お前…ばかなことして…」
「よかった…もう会えない…って…」

 茜は、もう絶対に逃がさないと示すように、力の限り、彼に抱きつく。

「どうしてお前は、俺のことを忘れないんだ…。なんでお前だけが…」
「…そんな…当たり前…です…。…私は誰よりも強く…ゆうを必要としていて…誰よりも強く、ゆうを想っているんですから…」

 茜は右手だけ離し、彼の頬をつかんで、自分のほうを向かせる。
 そうして睨みつけるような視線で、彼を見つめる。

 互いの吐く息が白くなって、宙で混じり合う。

「相沢祐一」

 茜は、誇らしげに告げた。

「…それが、あなたの名前です。ゆうの顔、ゆうの声、ゆうの温もり。
 ゆうとの思い出なら、私、どんなことでも覚えています。

 …かけがえのない、あなたとのこと。
 どうして私が、忘れるっていうんですかっ…――!?」



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