夕焼けに彩られた駅前のベンチ。
そこにちょこんと座る、女の子の姿。
(…あゆ…)
男の子は、残りの距離を早足で歩いていった。
「…あ」
彼の姿に気づいて、女の子…あゆは顔を上げた。
悲しそうだった表情が、笑顔へと変わる。
「…こんにちは。祐一君っ」
まるで氷が溶けるように、あゆは明るく笑った。
ついで、慌てて拗ねた表情をして見せる。
「遅いよ、祐一君」
「ごめん、今日はちょっと準備があったんだ」
「…準備?」
「荷物の整理とか、色々な…」
「……」
あゆは、寂しそうな表情を隠さずにうつむく。
「ほら、そんな顔すんなって」
「祐一君…もうすぐ帰っちゃうんだね…」
「前から言ってたことだろ?」
「…そう…だけど」
彼は、冬休みの間だけ、いとこの家に遊びに来ていた。
もう冬休みが終わるので、そろそろ帰らなければならない。
「あゆには、俺のとっておきの物をやっただろ?」
「願いの叶うお人形…?」
「そうだ」
あゆは思い詰めた表情で考えた後、ぽつりと呟く。
「…このお人形にお願いしたら、祐一君、帰らない?」
「言っただろ、叶えられるのは俺にできることだけだって」
「…そう…だよね…」
「それにだ、まだ今日と明日があるだろ?」
「……」
「2日もあれば、何だってできるぞ。たい焼きだって食べられるし、木にだって登れる…」
「……」
「今日は、あゆの行きたいところに連れていってやるぞ」
「あの場所がいい…」
「また、街を見るのか?」
「うん…」
あゆは力なく頷いて、ベンチから立ち上がった。
「…あゆ」
彼は、あゆに顔を見られないように後ろを向いた。
「俺だって、帰りたくないんだから…」
「…祐一君」
「ほら、行くぞっ。ゆっくりしてると、日が暮れるぞっ」
「…う、うん」
夕焼けに彩られた街。
ふたりの影が、もつれるように仲良く走っていった。
「風が気持ちいい…」
あゆはひとり、大木の枝に乗って、そこから見える風景を眺めていた。
街の風景。
(ボクと祐一君が出会った街…一緒に遊んだ街)
母親を失い、独りになってしまった女の子。
絶望に打ちひしがれ、ひとりさまよううちに、彼と出会った。
(…祐一君と出会えて、よかった…)
そう思って、あゆは溜め息をもらす。
吐いた息が、強い風に乗って流れていく。
もしも、彼と出会えていなかったら、どんな冬休みになっていただろう。
だからこそ、彼と遊んだ2週間を、かけがえのない時間だったと思えるのだ。
(ずっと冬休みだったらよかったのに…)
もう一度、溜め息。
(…祐一君、遅いな。今日は、ここで待ち合わせしたのに。もしかして、駅のほうに行っちゃったのかな?)
不安になって辺りを見回したあゆは、待ち望んでいた人が木々の合間を縫って走ってくるのを見つけた。
大好きな、彼の姿。
「祐一君、遅刻だよっ」
胸に溢れる喜びをギュッと抑えて、拗ねた口調で言ってみせる。
…いままで抱いていた不安と、待ち望んでいた喜び。
それに気を取られていたあゆは、状況を忘れ、警戒心を解いてしまっていた。
風が吹きつけてきた。
強い、風。
木々を揺らし、その上に積もった雪を振り落とさせるような、強い風。
それをまともにくらって、あゆの身体が揺らぐ。
「祐一く…」
太い枝につかまっていたあゆ。
体勢が悪くて、強風を受け止めきれず、背中から倒れた。
枝から滑り落ち、宙に浮かぶ女の子の身体。
(…あっ…)
浮遊感。
永遠とも思える一瞬。
…そして、衝撃と。
闇。
「…祐一…君…」
「喋るな! 今、病院に連れていってやるから!」
「痛いよ…すごく…」
「分かったから、だから喋るな!」
「あはは…落ちちゃったよ…。ボク…木登り得意だったのに…」
苦しそうに呟いたあゆの表情は、笑顔だった。
「でもね、今は全然痛くないよ…」
あゆの閉じた瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ボク…どうなるのかな…」
「痛くないんだったら、絶対に大丈夫だ!」
「…うん…」
頷くように、まつげが微かに揺れる。
「…祐一君…」
あゆは言った。
「…また…ボクと遊んでくれる…?」
「……」
彼は返事をしたいのに。
頷きたいのに、どうしても言葉が出てこない。
喉の奥に何かが詰まったように…。
たった一言が、どうしても出てこなかった。
だから、彼は肯定を示す意味で、あゆの小さな手を握った。
「…嬉しいよ…」
「……」
「…約束…してくれる…?」
あゆの手を握る力を強くする。
「…だったら、指切り…」
そう言って、いつものように笑っていた。
彼は、あゆの小指に、自分の指を絡ませた。
「ほら、これで指切りだ…。ちゃんと…指切りしたぞ、あゆ…」
「……」
「…約束だから…」
「うん…」
あゆは言った。
「…約束、だよ」
…あゆを森から担ぎ出した後。
彼は、自分に突きつけられた現実を受け止めきれず、逃げ出した。
(…こんなのは嘘だ…)
あれは幻だったのだと信じて。
(…そんなの、あんまりに酷すぎるじゃないか…)
そうしてまた、いつものように駅前のベンチに座って、待つ。
そうすればきっと、待ち望んだ女の子が笑顔を見せて現れてくれる。
そんな、無力な願いにすがって、彼は待ち続けた。
やがて日が傾き。
夕焼けが世界を染めあげ。
そして日は沈み。
暗闇がのしかかる夜になった。
…待ち望んだ女の子は、現れない。
(…これが現実…)
木のベンチに座って、彼は泣いた。
雪が降りはじめていた。
降り積もる頃、駅前の人影はまばらになっていく。
彼はひとりぼっちで、泣き続けていた。
「…やっと見つけた」
ふいに、彼に話しかけられた声。
彼は待ち望み、切望していたことが現実になったのかと、顔をあげる。
…しかしそこにいたのは、彼が待っていた女の子ではなかった。
彼のいとこ。
二本のお下げを垂らした、同い年の女の子。
「…家に帰ってなかったから…ずっと捜してたんだよ…」
彼は落胆した。
そうして、もう一度、思う。
(…これが現実――)
次の日。
2週間を過ごした雪の街から、彼は去っていった。
…悲しみに彩られた街。
そこで出会った、ひとりの女の子。
それが自分の初恋だったと、彼は気づいた。
しかし、それと気づいたときには、もう決して叶えられることのない想いだった。
そうして男の子は、もう二度と、この街に来ないことを誓った。
…悲しみに打ちひしがれる男の子。
彼の両親は、仲の良かったいとこと別れるのを、寂しがっているのだと思った。
元より仕事の忙しかった彼の両親は、息子が本当に助けを必要としているのに、気づいてやれなかった。
小学校に行く気も起きず、ただ、悲しみを抱えて時を送る男の子。
両親がそれと知らされたのは、彼の幼なじみが、休日に家を訪ねたときだった。
「あら、茜ちゃん、こんにちは」
「あの…おばさん、ゆうは元気ですか…?」
「…え?」
「ゆう、ずっと学校、お休みしてるから…。何度も呼びに来たのに、誰も出てくれないから…」
彼の母親に招き入れてもらい、茜は、彼の部屋を訪ねる。
「ゆう…」
「……」
彼女は、幼なじみの変わり果てた姿に、しばらく言葉を失った。
大きなベッドに、ひとりしゃがみ込んでいる彼。
食べ物をとっていないのか、無惨にも痩せ細っていた。
部屋に踏み入るのに躊躇していた彼女は、小さな手をギュッと握りしめて、部屋に踏み出す。
そうして、彼が座るベッドの横に、自分もちょこんと座った。
しばらく互いになにも言わず、のしかかる沈黙。
「…出てけよ…」
閉ざされていた口を開き、彼が呟いた。
顔はうつむけたまま。
「…嫌です」
彼女は静かに…しかし、揺るぎのない口調で応えた。
「…邪魔なんだよ…」
「ごめんなさい…」
そう謝ってみるが、彼女はやはり、部屋から出ていかない。
「…なんでお前…」
「だって。ゆうの側に、誰かいなくちゃいけないって…思うから」
彼女はそう言って、彼に静かな微笑みを向けた。
そうして、手に持っていた包みを、彼に差し出した。
「お土産です」
「……」
「こないだ、ゆうに教えてもらった、たい焼き屋さんで買ってきたんです」
「…たい焼き…」
彼女は包みから、たい焼きを取り出し、彼に手渡した。
「あったかいうちに、食べましょう」
彼女はそう言って、ぱくりと一口、食べて見せた。
じぃ…っと、たい焼きを見つめていた彼も、一口、かじる。
「…しょっぱい…」
彼は呟いた。
その瞳から、涸れていたはずの涙があふれ出していた。
「…あかね、このたい焼き、しょっぱいぞ…」
「……」
「…でも、うまいな…。うん、うまい…」
「はい」
「…ううっ…ひっ…んぐ…」
肩を揺らして泣きはじめた彼を。
彼女は優しく、抱きしめた。
「…悲しいことがあったんだ…」
彼女に背後から抱きしめられ、ゆったりとした心地よさの中で、彼は言葉を紡ぎはじめた。
「ずっと続くと思ってたんだ。楽しい日々が。たとえいまは別れても。1年後にはまた、会えるはずだった」
「……」
「俺は、幸せだったときにずっといたかった。それだけなのに…」
「……」
「でも、永遠なんてなかったんだ。幸せなんて、いつかは終わってしまうんだ」
絶望し、悲しみの淵から呟かれるような彼の言葉に、彼女は応えた。
「…永遠はあるよ」
彼を抱きしめる腕に力を込めながら、彼女は言った。
「ずっと私が、一緒にいてあげます。これから、ずっとです」
「…ほんとか…?」
「はい」
彼女は、自分の小指を差し出す。
彼はそれに、自分の小指を絡めた。
もうひとつの、指切り。
『…約束、だよ』
もうひとつの、約束。
約束。
それは誓い。
そう、盟約だ。
…永遠の盟約だ。
◇