1997.12/24 Wed 15:08
ピンポン、ピンポン、ピンポ〜〜…ン。
『うぉーい、早く開けちくり〜っ!』
呼び鈴と、詩子の情けない声が辺りに響く。
「騒ぐなって。メリークリスマス」
幼なじみの彼が、玄関のドアを開けて詩子を招き入れる。
「め、めめめめメリークリスマス。…んだって、すごく寒いんだよっ!」
ぶるぶると身を震わせながら、詩子が手荷物を抱えて入ってくる。
確かに、詩子の吐く息は真っ白で、外の寒さを如実に物語っていた。
「お、茜はもう来てるんだね。ゆうくんのご両親は?」
「今夜も遅くなるんだと」
「そっかー。ちょっと寂しいけど。まあ、遠慮なく騒ごーっ!」
「しいこが遠慮するとこなんて見たことねーけど…」
かって知ったる人の家。
詩子は慣れた仕草で、幼なじみの家に入っていく。
彼ら幼なじみ3人の、毎年恒例のクリスマスパーティー。
日程が前後することはあったものの、ほぼ例外なく、彼の家で毎年行われてきた。
「あかねあかね〜、ケーキはどお?」
「もちろん、作ってきました。詩子のほうこそ、どうですか?」
「買ってきたよ〜、チキン」
リビングに、持ってきた荷物をどかどかと置く詩子。
「う〜、寒い、寒いよ〜っ。すっかり体が冷えちゃったよ」
ガタガタと本当に寒そうに、詩子はその場で足踏みする。
「んじゃ、なんかあったかいの容れてやるよ。なにがいい?」
「熱かんでお願いっ。こう、熱いのを、きゅきゅーっと」
「オヤジかオマエは!」
「こう見えてもあたし、16歳の女の子なのよ」
「どっからどう見ても16歳の小娘だろーが」
「オヤジって言ったの、ゆうくんのほうだよっ」
「いや、ま、そうなんだけどな…」
「熱かん、熱かんっ」
「しゃーねーなあ…」
彼はぽりぽりと頭を掻きながら、リビングから通じるキッチンへと歩いていく。
と、思い出したように振り返る。
「つか、熱かんってどう作るんだよっ」
「日本酒をあたためるんだよ?」
「どうやって?」
「トックリにお酒をいれるんだよ」
「…トックリなんて、ある場所知らないっつの」
「うー。…じゃあコップに入れて、湯煎してもオーケーだよ」
「…ゆせんってなんだ」
「えっと、お鍋にお湯を入れてね。それを沸騰させて。それで、お酒をいれたコップをその中にいれて温めるの」
「…めんどい、却下」
「えー、そんなぁっ!」
ふたりのおなじみの掛け合いに、茜は微かに微笑む。
「レンジを使って、簡単に作れますよ」
「え、どうやるの?」
「コップにお酒をいれて、レンジにかけるだけで作れます」
「わぁ、そんな簡単に作れるんだ」
「その際、ラップはしないで、中の様子を見ながら温めてください。決して、沸騰させてはいけません」
「沸騰させると、どうなるんだ…?」
「気が飛びます」
「…茜」
「はい?」
「やけに詳しいな」
「そうでもないです」
…ち〜んっ。
「あちち、あちちちちっ」
「早く早くぅ〜」
「うっさいな。っていうかお前、ぬくぬくしやがって。もうすっかり震え止まってるじゃないか」
「かたいこと言いっこなし」
「待て待て。せっかくだから、3人で乾杯しよう」
そう言って彼は、温めてきた酒を3つのグラスに分ける。
「熱いから、気をつけろよ」
「…はい」
「わかってますって」
「んじゃ、乾杯すっか」
『かんぱ〜い』
カチンカチカチン。
ちびちび…ぐい〜…ぷは〜っ…。
…熱かんで、クリスマスの乾杯。
「というか私たち、まだ高校生です…」
「バッチリ飲んでおいて、なにを今更」
「こう見えてあたし、実は留年して、20歳なのよ」
「さっき、16歳の小娘だって言ってただろーが」
「しまった、そうだった」
「…しいこ、いつにもましてテンション高いな…」
「ふたりのノリが悪いのよう」
詩子は、持ってきた手提げ袋を探る。
「仕方ないわねえ。大ピンチのときに取っておくつもりだったんだけど」
「なんだよ、クリスマスで、どうやったら大ピンチに見舞われるんだよ」
「ちがう、ピンチじゃなくてクライマックスだった」
詩子は、袋の中から、3本のビンを取り出した。
3色のソレを、勢い良くドン…とテーブルの上に置く。
「どどどどぎゃ〜〜ん、ぽいずんドリンクぅ〜っ」
「ぐあ、なんだソレは!」
「…それはいったい…」
なにやら、一昔前の未来像といった感じの古風なイラストが描かれたラベル。
ラベルの上方には、このジュースの名前らしいものが記載されていたが、アルファベットのようでアルファベットでもなく、3人には解読できない。
その奇妙な文字の右下。
そこに控え目な感じで、日本語で名前が描かれていた。
『ギャラクティカ ドリンコ/宇宙味』
ノスタルジックな絵といい、申し訳程度に記載された名前といい、物凄い怪しいものの。
なにより、ガラス越しに覗けるジュースの色が、異様だった。
血を薄めたような赤色。
お酢とみりんを合わせて2分の1に凝縮したような黄色。
そして、限りなく黒に近い鈍い青色。
「なんなんだよ、これはっ、おいっ!」
見れば見るほど、本能が警鐘を鳴らすような形状をしたドリンクである。
「…宇宙味…」
さすがの茜も、その奇抜なドリンクに驚きを隠せない。
「ふふふ、つかみはオッケーね。これぞ、いまやその道で知らぬ者なしと言われる逸品。
…ぎゃらくてぃか・どりんこ、宇宙味よ!」
詩子は、してやったりといった表情。
「ど、ドリンコって…これはホントに、飲み物なのか?」
「もちろん。ちゃんと、店で市販されてたよ」
「そ、そうか…。市販されてるのか」
「…どういうわけか、ビデオ屋で売られてたんだけどね」
「へっ? しいこ、いまなんて言った?」
「ううんっ。なんでもないよ」
「いま、ビデオ屋で売ってるって聞こえたんだがな〜…」
(…不思議よね、あたしもびっくり。それに、ほこりかぶってたし…)
「…うちゅうあじ…」
茜が、興味津々といった感じで、その謎ジュースを手に取る。
「うわあ、駄目よ、茜っ!」
それを、詩子は慌ててもぎ取った。
「…これからみんなで飲むんだから、原材料とか見ちゃだめっ」
「飲むのかコレをっ!」
「…飲むんですか?」
「なんたって宇宙味なのよ。滅多に手に入らない、貴重な逸品なんだからね。飲まなきゃ損ってものよ」
「製造元が愛知県になってましたが…」
「き、気のせいよっ!」
「原材料の中に、香辛料というのを見かけましたが…」
「それも気のせいっ!」
「どうして、ジュースに香辛料が…」
「細かいことは、言いっこなしっ!」
たん、たん、たん…と、詩子は小気味良い音を立てて、テーブルに空のグラスを3つ置く。
そうして、きゅきゅきゅ…とドリンクの蓋を開け、それにダクダク注いでいく。
「ま、まじで飲むのか、それを…?」
「マジよ、大マジ」
やがてテーブルの上に、見るも鮮やかな3色のジュースが置かれた。
赤、黄、青。
三原色である。
ビンから放たれ、グラスに容れられたソレらは、いままで以上の異様さを醸しだしていた。
「…何味なの? 色によって、違うんですよね?」
「わからないわ。原料を見ればわかると思うけど、それじゃつまらないし」
「……」
「…ただ…」
「ただ?」
「3種類の内のひとつが、とてつもない破壊力を秘めているという噂なのよ」
3つの内のひとつ…。
3人の視線は、申し合わせたかのように、青色のジュースに注がれる。
ガラスビンに入っていたときは、黒に近い鈍い色だったものの。
煌々と照る蛍光灯の下に照らし出されたそれは、いままで以上に、毒々しい色合いを撒き散らしていた。
赤と黄も、不自然に透明度があって怪しかったものの、青の禍々しさに比べるべくもない。
(…きっと青ね…)
(…ぜってぇ、青だ…)
(…間違いなく青です…)
「じゃんけんで決めるわよっ」
詩子が、高らかに宣言する。
「お、俺は嫌だっ」
「…私も嫌です」
「じゃ〜んけ〜ん…」
『ポンッ』
詩子の声に、反射的に応じるふたり。
『…ポン、ポンっ、ポンッ!』
「よしゃ」
「やったー」
「……」
安堵するふたりと、ひとり落胆を隠せない茜。
「それじゃあ俺は、せっかくだからこの赤色を選ぶぜ」
「んじゃ、あたしは、オレンジジュースっぽい、この黄色〜」
「…私は、ミステリアスブルーをいただきます…」
3人とも、いざ手元にジュースを引き寄せたものの、誰も飲もうとはしなかった。
(…なんだこれ、消毒液くせえ…)
(…薬品くさっ…)
(…墨汁のような臭いです…)
「あ、そだ、氷いれなきゃ」
ふと思い立って、詩子が氷を取りに立つ。
馴れたもので、すかさず氷を3欠片持ってくると、各自のコップに放り込んでいく。
じゅわわわわ〜っ。
3色すべてに炭酸が入っていたのか、氷が勢いよく反応する。
それは、哀れな氷が酸の海に溶かされていく様に映って、場の空気をさらに重くした。
氷によって、その液体は活性化し、刺激臭がさらに強さを増す。
「…それじゃあ、ゆうくん。ジャンケンで買ったあなたから、どうぞ」
「お、俺か? 俺なのかっ?」
「危険度からいえば、最初に選べたゆうくんが一番少ないんだから。…ね?」
「くっ…」
観念したのか、彼は赤い液体の入ったグラスをガッシとつかみ取る。
「うぬぬぬぬぬぬ…。南無…三っ」
…ゴキュっ。
一口、飲み込んだ。
「……」
「……」
「……」
じっと、なにかに耐えるような彼。
やがて、頬にあぶら汗がにじみ出て、ぶるぶると唇が震えはじめる。
「〜〜〜っ!!」
そして、がばっと立ち上がる。
怒濤の勢いでキッチンに駆け去り、水を流す音が聞こえてきた。
「あっははははは、やった! ゆうくんの当たりっ!」
「…助かりました」
「んじゃ、今度はあたしね。オレンジジュースみたいな味なのかなあ、これって」
安心して、穏やかな表情のまま、詩子は黄色の液体をグッと飲み込む。
…ゴクっ、ごくっ、ご…く…。
にこやかな表情のまま、詩子の動きが止まる。
「…詩子? どうしたの?」
茜の問いかけに、詩子はギギギ…とぎこちない動きで、茜に向き直る。
そうして、ニコリと、ぎこちない感じで微笑む。
やがて、ぶるぶると頬が震えはじめる。
「〜〜〜っ!!」
そして、やはり勢い良く立ち上がり、キッチンのほうに駆け込んでいった。
ひとり残された茜は、きょとんとした顔つきで、自分に割り当てられたジュースを見つめる。
「…ゆうと詩子が、当たり?」
キッチンから、水が勢い良く流される音と、うがいの音が聞こえてくる。
ひとり残された茜は、手持ちぶさたになったのか、気乗りしない様子でジュースに口を付ける。
…んく…んく…んく…。
半分ほど飲み終えた茜は、グラスをトンッとテーブルに置いて、小首を傾げる。
「…う〜ん…」
「うおえぇ〜…」
「やられたよー…」
やがて、げっそりとした表情のふたりが戻ってきた。
そして、コクコクと青い液体を飲んでいる茜の姿に気づく。
「…茜、それ、うまいのか?」
「なんと言えばいいんでしょうか。昔あった粉末ジュースに似ているような。それと、微妙に炭酸が利いていますね」
「…おいしいの?」
「不味くはないです。…結構いけます」
「ふ〜ん…?」
興味を惹かれて、詩子は茜からグラスを受け取り、一口飲む。
コクン…と飲んだ後、トンッと茜の手元にグラスを戻す。
「…茜」
「はい?」
「ゲロ不味いよ、こで」
うっぷと口を抑えて、再びキッチンに駆け込む詩子。
「結局これは、何味と何味なんだ…?」
彼は、テーブルに置かれたガラスビンを引き寄せ、ラベルを探す。
そして、ビンの裏面に原材料などが書かれているのを発見する。
「ええと、青色は…ぶどう糖、酸味料、香料、香辛料、カフェイン、着色料(青色1号)…? んで、何味なんだ?
それで黄色は、と…ぶどう糖、酸味料、香料、香辛料、カフェイン、着色料(黄色4号)。…あれ?」
彼は首をひねって、2本の原材料を見比べる。
「同じ味よう、それー…」
キッチンから、情けない詩子の声が聞こえてきた。
「着色料が違うだけなのかも…?」
茜が、小首を傾げて言う。
「なんてこった。結局これは、3種ともゲテモノだったのか…」
「…青色、美味しかったですよ?」
「茜ぇ…」
料理を作るのが好きで、さらに技術もある茜。
しかし意外にも、味覚が人のソレと微妙にずれていた。
「ううう〜、まいった。これじゃあ、噂のアレ、実験しないほうがいいわね」
「なんです、その噂のアレって?」
「うん…。これはね、全色を同量で混ぜると、真の味になるという噂があるのよ」
「真の味…」
「なんでも、このラベルに書いてあるキテレツな文字を解読すると、全色を混ぜろと書いているそうなの…」
「なんだそりゃ。よーするに、3本全部買って飲んでみろっちゅう、販売戦略か?」
「だよねえ。それに、3本混ぜて、これ以上どんな味になるっていうのかしらね」
「着色料しか違わないのになあ」
乗り気でないふたり。
「…いえ、やってみましょう」
珍しく茜が、積極的に主張した。
「せっかく3本あることだし、少しずつ残っていますから」
「……」
「……」
渋々と言った様子でふたりも手伝い、ひとつのグラスに、3種類の液体を等量で注いでいく。
やがて出来たそれは…。
『黒っ、ごっつ黒っ!』
彼と詩子は、その不気味な色合いに恐れおののく。
見事なまでに真っ黒い液体が出来上がる。
…というか、三原色の液体を混ぜれば、黒色になるのは当然だった。
興味津々といった感じで、その禍々しいグラスを手に取る茜。
「茜っ! 止めろ、止めるんだっ!」
「そうよ茜っ! それ、見るからにやばいよっ!」
「そうだぞ、死ねるぞ、それはっ!」
「コーラみたいな感じですよ? それに、ジュースじゃ死にません。…多分」
ふたりの制止を振り切り、茜はコクリと一口飲む。
「……」
「……」
「……」
「う〜ん…」
茜は、内心の気持ちをあらわすように、小首を傾げる。
「…美味しい、かも?」
ふたりに笑いかけ、茜は言った。
『…ぷっ』
茜の顔を見て、ふたりが仲良く吹き出した。
「うはははは」
「あっははは」
「…私? 私がどうかしました?」
「茜っ、洗面所で鏡見てきなよっ」
「……?」
首を傾げながら洗面所へと向かった茜は、鏡で自分の顔を見て、絶句する。
「〜〜〜っ!!」
あのジュースの染料が物凄い強烈だったらしく、彼女の口の中は真っ黒になっていた…。
同日 22:16
「いやぁ、毎年楽しいけど、今年は格別だったねぇ…」
アルコールがほどよく入り、顔を赤らめた詩子。
帰り支度を終え、玄関でゆらゆらと揺れていた。
「だな、茜のあの慌て顔といったら…」
「そうそう、あっははは」
「…ひどいです、ふたりとも」
パーティーを終え、玄関のドアを開けると…。
3人の目に、その風景が飛び込んできた。
家からの灯りに照らし出され、白い世界が広がる。
「…雪…」
誰ともなく呟く。
いまも、空から大粒の雪が降り続けていた。
「どうりで、寒かったわけだな」
「ホワイトクリスマスだねぇ」
「…きれい」
3人は喋ることを忘れて、しばらくそのままで、外の景色を眺めていた。
雪の降る音さえ聞こえそうな静寂。
やがて、いちばん早く現実を取り戻した詩子が、ぼやいた。
「…ああ、しまったよ。こんなことになるとは思ってなかったから、傘持ってこなかったよ」
「私もです。…でも家は近いし、少しくらいなら、雪を浴びるのもいいかもしれません」
ふたりの言葉に、彼は「あっ」と声をあげた。
「どうしたの、ゆうくん?」
「ふたりとも、ちょっと待ってろっ」
「うん?」
「…はい?」
1分も待たせず、彼は、包装されたままの傘を、2本持ってきた。
「忘れるとこだった。ほら、俺からのクリスマスプレゼントだぞ」
「えーっ、どうしたの? クリスマスはプレゼントなしだって決めてたじゃないの」
「そうですよ、お返しなんてありませんし…」
「いいんだって。今年は特別だ。なんとなく、プレゼントしたかったんだよ。受け取れって」
茜にピンクの傘、詩子にブルーの傘を差し出した。
「茜はピンクが好きだから、ピンクの傘で。しいこは、いまの制服に似合うだろうから、青色の傘にしたんだ」
照れくさそうに、微笑みを浮かべる彼。
「あ、ありがとぉ…」
「…ありがとうございます」
詩子と茜は、彼からのプレゼントを受け取る。
「さっそく使っていけよな」
そう彼にうながされ、ふたりは傘の包装を解く。
『しいこは、いまの制服に似合うだろうから、青色の傘にしたんだ』
彼の言葉と贈り物を前に、詩子は胸の奥がキュッと熱くなった。
(嬉しい…。どうしよう、すっごい嬉しい…)
詩子は、少し涙ぐんでしまった自分に気づいた。
「ゆうくん、ありがとっ。あたし、大切にするよ」
「…私も大切にします。ありがとうございます」
「ああ」
彼は、ふたりの反応を見て満足そうに頷いた。
傘をさして、夜道を帰る詩子と茜。
とは言うものの、ふたりの家は、彼の家から数分の距離にある。
「嬉しいなあ、ゆうくんが、こんな気の利いたプレゼントくれるだなんて。いつも、変なのばっかなんだもん」
「そうですね。大切にしなくちゃいけませんね…」
暖かい気持ちを胸に、帰途につくふたり。
しかし…。
(…あ…)
その途中、詩子は、2日前のことを思い出した。
『そういえばさ、茜ぇ』
『はい?』
『その傘、ずいぶんと使ってるんだね』
(…そっか…)
2日前、見るからに古びた傘を手にしていた茜。
(…そうなんだ。ゆうくん、茜に新しい傘をプレゼントしたかったんだ…)
詩子の顔から、笑みが消えていった。
(…あたしは、ついでだったんだぁ…)
喜びから、ふいに悲しみへと移っていく表情。
(…そう…だよねぇ。そうだよねえ…)
ふるふると、小刻みに唇が震える。
(…あ、あたしぃ…ばかみたい…。すっごい喜んで…。かっこ悪ぅ…)
「それじゃ、詩子。ここでお別れですね」
「……」
「土曜の映画の件、忘れないでくださいね?」
「…うん」
「詩子? どうしたの?」
急に黙り込んだ詩子に、茜はいぶかしげに問い掛ける。
しかし詩子は、青色の傘を傾けて、茜から顔を隠す。
「…ん〜ん、なんでも…ないよぉ」
「詩子? 声が…」
「なんでもないってぇ。…それじゃ、ばいばいっ」
詩子は後ずさり、そのままくるっと背を向け、自分の家のほうに帰っていった。
まるで逃げるように。
…いや、事実逃げていた。
「……」
詩子は…。
なにもない中空を睨み付けるようにして目を見開き、静かに泣いていた。
唇がふるふると小刻みに震えていたが、決して、嗚咽をもらさない。
その間にも、瞳からこぼれる涙は止まらない。
傘をつかむ手が、力の入れすぎで震えていた。
(…苦しいよ)
いつか…。
彼女が、自分の中でリズムをつけた台詞が浮かぶ。
(あいつも好きで、あの子も好きで。いまの関係、壊れてしまうよ。それより前に、あたしの心が壊れてしまうよ。
…それならいっそ。それならいっそ、こんな想いを消せたらいいのに)
それが、彼女の中で延々とリピート。
◇