1997.12/27 Sat 07:30

『ピピピピ…ピピピピ…』

「…うう〜ん…」

　目覚まし時計があげる電子音に、ゆっくりとまぶたを持ち上げる茜。

　布団をかぶったまま、両手を万歳して、枕元の近くにある時計を探った。
　指が固い感触を捕らえ、それを引き寄せる。

　茜は仰向けに寝たまま、引き寄せた時計の文字盤を眺めた。

「…まだ７時半…。それに今日は冬休み…」

　ボソリと呟いた後、目覚まし時計のアラームをオフにする。
　そうして、時計を右手に持ったまま、茜は再び微睡みの中に落ちていく。



　　　同日　09:53

「…ん〜…」

　むくりと、ベッドから上半身を起こす茜。
　ふわわ…と、大きく口を開いてあくびをひとつ。

　右手に持っていた目覚まし時計に気づいて、文字盤を見る。

「…９時…５３分…。そか…。ずいぶん寝てしま…た…」

　上半身を起こしたものの、まだ眠いので、ゆらゆらと前後していた。
　…かと思ったら、ポテっと横に倒れる。

（…うう〜ん…。冬休み。今日はなにをしよぉ〜…）

　目覚ましを持っていない手で、指折り数えつつ、これからなにをしようか数えはじめる。

（…まずは起きて…顔を洗って…お弁当作って…それで…それで…え？）

　ムクリ、再び上半身を起こす茜。

「なんで、休みの日にお弁当…？」

　…寝ぼけてるのかなぁ…と、今度は逆の方向にポテっと横に倒れる。

（…それで…服を着替えて、詩子と待ち合わせの…。…詩子…待ち合わ…）

　ガバッと、今度こそパッチリと目を開けて起きる。

「…詩子、待ち合わせ、映画ぁっ…」

　さーっと顔が青くなる茜。
　さらに、手に持つ時計を見て、彼女の驚きは増す。

「ちこ、遅刻しますっ…」

　あわわ、と、慌ててベッドから降りる。
　しかし、足下が定まらないのか、ペタンと座り込んでしまう。

（…あ、でも…）

　茜の頭が覚醒すると、導き出される答えがあった。

（待ち合わせは１０時。…距離的にどう考えても不可能です）

　それと思い至ると、茜の気持ちは落ち着いた。
　ふぅ…と胸に手を置いて溜め息をつくと、ゆっくりと立ち上がる。

（…詩子。あなたの忍耐強さに感謝します。今日はたくさん奢りますから、許してくださいね…）

　詩子が待っているであろう方向にペコリとお辞儀をした後、茜はノロノロといつものペースで服を着替えはじめた。

『ぷるるるるるるる…』
「わっ…」

　茜の部屋に据え置かれた電話が鳴る。

『…ぷるるるるるるる』
「……」

　電話機とにらめっこする茜。
　…覚悟を決め、おずおずと受話器を取る。

「…はい」

『茜っ！！』

「は、はいっ」
『こんな時間に部屋にいるだなんて。やぁっぱり遅刻ねっ？』
「そ、そうです…。でも、まだ約束の時間前なのに…」
『茜のことだから、遅刻じゃないかと思ったのよっ』

（…その通りです、詩子…）

『こんなことなら、もっと早く電話掛ければよかったー。茜を信じてたのに…』
「…ごめんなさい」
『一刻も早く来なさいよねっ。…どうせ遅刻だからって、のんびりマイペースで来たら、承知しないから』

（…悟られてます。さすがです、詩子…）



　　　同日　10:24

　映画は次の上映時間に合わせることになった。
　茜と詩子は、商店街にあるハンバーガーショップ『ＢＯＳ』で時間を潰す。

　…もちろん、代金は茜持ちだ。

「こないだの別れ際、あたしに『忘れないでくださいね』…とか念を押して置いて、自分で忘れるなんて」
「…ごめんなさい…」

　茜は、シュン…とした様子で、コーラをストローでチュ〜っと吸う。
　そんな茜を、詩子は本当に楽しそうな顔で眺める。

「ま、でもぉ…。普段は落ち着いてる茜を、こう、チクチクッと苛められるのも、たまには楽しいけどね」
「…ひどいです」
「ホント、朝には弱いんだよねえ、茜は…」
「…はい」

「…あ、もしかして〜…」

　詩子は思いつくことがあって、テーブルの上に身を乗り出す。

「まだ、ゆうくんに起こしてもらってるの？」
「……」
「ゆうくんのモーニングコール？」
「……」

　詩子の問いに、茜はすいっと顔を逸らす。

「うわぁ、らぶらぶぅ、やぁらしぃ〜」
「ど、どうして、やらしいんですかっ？」

　詩子は椅子にギィッと寄りかかりながら、悪戯っ子めいた微笑みを浮かべる。

「高校生にまでなって異性に起こしてもらうなんてぇ。ふつーの彼氏彼女でも、そんなおんぶだっこしないよ」
「…そんな…」

　椅子にもたれながら、詩子は腕を組んでふふふと笑う。

「…んで、どうなの」
「なにが、ですか？」
「見た感じ変わりないけど。ゆうくんと、その後進展してるの？」

　にた〜、と笑う詩子。
　一方、茜は身を退く。

　こういうときの詩子が、粘着的にシツコイことを、茜は経験から思い知らされていた。

「…嫌です。黙秘します」
「なにが黙秘よ〜。っていうか言いたくないってことは、イコールなにかあったってことじゃないっ」

　にんまりと指を突きつける詩子。

「…詩子、どうしたんです？　なんだか、今日はやけに絡んできます」
「ごまかさないの」
「詩子こそ、ごまかさないでください。なにか最近変です」
「……」

　１０年以上もの付き合いだ。
　相手に不審な点があれば、簡単に見出せてしまう。

　詩子は、わざと苛立っている様子を見せようと、意識して自分の頭髪を掻き回す。

「あなたたちのことがさ、心配なのよ」
「私とゆうが、ですか？」
「そう。いつまでも、なあなあで済まさないで、ちゃんと付き合えばいいのに」
「そんな…」

　詩子は、テーブルの上に身を乗り出す。

　そうして、彼女には珍しく、真剣な眼差しを茜に向ける。
　詩子が真剣に言葉を紡ぐことはあるけれど、いつも、笑みという表情をかぶっていることがほとんどだった。

　だから茜にも、詩子が本気で語りかけていることがわかっていた。

「あたしたち、いつまでも子供じゃないのよ」
「…わかっています」
「わかってないよ。もしもゆうくんが…茜、以外の女の子と…付き合ったら、どうするの？」

　茜は、その問いに意識を向けていたので、詩子の言葉が少しつかえたことに気づかない。

「…嫌、です。悲しいです。つらい…です」
「許せないんでしょ？　それくらい、ゆうくんのことが好きなんでしょ？」
「はい。…好きです。私は、ゆうが好き…」

　茜は頬を染めながらも。
　うつむき加減になりながらも、それでもしっかりと答えた。

　そんな茜を見て、詩子は一瞬、悲しそうな表情をちらりとのぞかせ。
　そうしてすぐに、満足そうに頷いた。

「そういうのを、きちんと、言葉で伝えてる？」
「…いいえ、あまり…。でも、お互いにわかってると…思う、し」
「ダメよ。きちんと言葉や行動で伝えないと。１０年一緒に居たって、言葉にしないと、伝えられないことがあるんだからね」
「…は、い」

　詩子は、ふう…と大きく溜め息をついた後、背もたれに身を預ける。

「も〜。あたしが離れて、ふたりきりになる機会が増えれば、ちゃんとくっつくと思ったのに」

「…詩子、それって…」
「んー？」
「詩子が、私たちと違う高校を選んだ理由って…」
「うん、それもひとつの理由だよ」

「そんなっ…」

　茜はガタンと席を立って、詩子に詰め寄る。

「どうしてそんなことするんですかっ。詩子と同じ学校に行きたかったのに…」
「…茜」

　対して詩子は、悲しみを抑えきれずに滲ませたまま、無理に微笑んでみせる。

「あたしと、ゆうくん。どっちかを選べって言われたら、茜はどうする…？」
「そんな、なにを突然…。詩子っ？」

「答えてよ、茜…」

　詩子は穏やかに問い掛ける。
　それに込められた意志の強さを感じ取り、茜は追いつめられるような感覚を抱いた。

「茜だったら、どうするの？」
「…私、は…」

　やがて、茜は悲しそうに顔を振る。

「選べません」
「…どうしてっ？」

　詩子は、少し苛立ちを見せる。

「ゆうのことは好き。…でも、詩子のことも好きです」
「…茜っ！」

　…ごまかさないの。
　そう言いかけたが、茜の目を見て思いとどまる。

　茜の瞳に迷いは見れたものの、真摯な眼差しを詩子に向けてきていた。

　詩子は、全身で溜め息をつく。

「だめよ、茜。両方を…全てを手に入れることなんて、できないんだからね」
「……」
「なにかを手に入れるためにはね、なにかを捨てなきゃいけないの」

　そこで、詩子はちょっと笑う。

「…年上の友だちの、受け売りだけどね」

（そうしてあたしは、３人での友情を選んだんだよ）

　けれど茜は、答えを出さない。

「無理です。…私には無理です」
「ちょっと茜ぇ…」
「たとえば、お父さんとお母さん、どちらか選べと言われても。…私には選べません」

「…は？」

　詩子は、がくん…と顎が落ちるくらいに大口を開ける。

「おおお、お父さんお母さん…？」
「たとえば、です。…私にとって、ゆうと詩子は、親兄弟以上に大切な人ですから」
「……」

　詩子は、まるで魚のように口をぱくぱく開閉させている。

「詩子は、さっき、言葉でちゃんと伝えないといけないと、私を諭しました」
「……」
「だから、あえて言います」

　茜は、椅子に座る詩子の側に立って、曇りのない表情で言う。

「私は、詩子のような親友と、今後の人生で出会うことはないと思っています。
　…詩子とは、ずっと親友で居たいです。
　私たちが大人になっても、お母さんになっても、おばさんになっても、お婆さんになっても…」

　その茜の飾らない言葉が、頭に浸透してくるにつれ…。

　詩子の心の中で、さまざまな感情が生まれ、渦を巻いた。
　それは悲しみ、それは喜び、それは憤り、それは嬉しさ、それは哀れみ、それは労り、それはもどかしさ。

　あまりに複雑過ぎて、彼女はにわかに処理できない。

　…ただ。

　茜が、まだ子供であるということ。
　茜が、本当に自分を愛してくれているということ。
　茜が、これだけ言っても、自分が彼に恋していると気づいてないこと。

　それを、詩子は切なさと悲しみと、痛みをもって受け入れた。

「…茜は、子供ね。わがままで欲張りで。そうしてバカで、底抜けに甘くて、優しい…」

　詩子は、自分の側に立っていた茜に、ぎゅっと抱きつく。
　椅子に座ったままだったので、茜のお腹に抱きつくような感じで。

「…詩子、ひどいです」
「ほめてるのよ、これでも。憧れてるのよ、あたしは…」

　親友は、子供で、欲張りで、わがままだけれど。

　それを全力で求めようとするところ。
　真摯で生真面目なところが、とても愛おしく思えるのだ。

　馬鹿で、愚かで物知らずの親友。
　だけれど、そんなところを気に入っているのだと、詩子は思う。

（…いいよ。わかったよ、茜…。茜は、自分の信じることを求めればいいよ。あたしが、それを手助けしてあげるから）

　詩子は、自分が姉のような。
　あるいは母親のような感情を、茜に覚えていた。

（損な性格、損な役回り。…でもしょうがないよね。１０年で、こんな関係を築いてきちゃったんだから…）

　一言で表せないくらい複雑な感情を抱く親友。
　そんな彼女に、詩子はぎゅっと抱きついた。

「…詩子。恥ずかしいです。人が見ています…」

　ハンバーガーショップの店内だ。
　午前中なので人影は少ないものの、店内に居る人間が、こちらを意識していることにふたりも気づいた。

「…ねえ、茜」
「はい？」

「想いってどうして…消せないんだろうね…」
「…え？」

　詩子の独白めいた言葉を理解するのに。
　茜には、まだもう少し、時間が必要だった。

NEXT

◇