1997.12/22 Mon 15:10
「おもいっきり降ってるなあ…」
下駄箱のある昇降口から空を見上げ、彼は溜め息をついた。
「…ゆう」
背後から話しかけられ、彼は振り向く。
そこに、幼なじみの少女…茜の姿があった。
「帰りましょう」
「…そうだな」
とは言ったものの、彼は乗り気ではなかった。
(降水確率30%って言ってたから、降らないかもと思ってたのに)
だから、幼なじみの詩子に、あまり考えずに傘を貸した。
(まさか、本当に相合い傘になるとは…)
茜の持つ傘はピンク色で、いかにも女物。
しかも、幼い頃のプレゼントなので、あまり大きな物ではない。
となると、かなり密着した状態になってしまう。
ひとつの傘の下で、雨から逃れようと肩をぶつけ合う男女。
(はちじゅう…)
またも思い出し、彼の視線が落ち着かなげに泳ぐ。
「どうしたの?」
「…なあ茜、もうちょっと、校舎で時間潰していかないか?」
そうすれば、雨も止むかもしれない。
人通りも減るだろうし。
「…嫌です」
にべもなく断る茜。
「どうしてー…?」
「明日は祝日ですし、早く家に帰りたいです」
「明日が休みだからこそ、ゆっくりしていけるんじゃあ、ないのかね?」
「……」
隣に立った茜が、彼を見上げる。
「それでは、学校でゆっくりしていくとして、なにをするの?」
「…そうだなぁ、教室でダベって時間をつぶすとか」
「わざわざ教室でなくても…」
「クラスの連中も巻き込んで、なんかして遊ぶか」
「みんな、部活に行ったり、帰ったりしてます」
「ううん、それじゃあ、教室を貸し切って…」
「貸し切って?」
「机をどれだけ高く積み上げられるか、競争してみたり」
「…嫌です」
ぱむ…と音を立て、茜の傘が開く。
「わー、待てって、茜っ」
「…はい?」
茜は、開いた傘を閉じる。
その顔が、微かに笑っていることに、彼は気づいた。
「茜、お前、楽しんでるだろ?」
「…少し」
はぁ〜っ…と、彼は大げさに溜め息をつく。
「はっきり言えばいいんですよ。ピンクの相合い傘が恥ずかしいって」
「わかってるなら、いじわるしないで訊いてくれよっ」
「今朝のお返しです」
「くっ…」
「それに、相合い傘も悪くないと思ってましたから」
茜は静かに顔をうつむけて、下駄箱に戻っていった。
茜の言ったとおり、教室には、生徒はほとんど残っていなかった。
茜の席は、窓際にある。
そこに歩み寄りながら、彼女はふと思い当たって、彼を見やる。
「ゆうの席にする?」
「…いや、大丈夫だ」
彼は、茜の前の席に、窓を背にして横座りする。
雨に濡れる風景を窓から見ながら、ぽつぽつと会話するふたり。
もうひとりの幼なじみ、詩子を交えたときのように、会話がエキサイトすることはないものの。
ふたりの間に、居心地のよい穏やかな時間が流れていく。
「詩子も、ここに来ればよかったのに」
「そうだなぁ…」
幼稚園、小学校、中学校と、ずっと3人で過ごしてきた。
だから、高校で詩子が別の道を選んだとき、ふたりは戸惑った。
そうして、ふたりでいることが多くなり、自然と、そのことを意識することになる。
(…俺は、茜のことを好きなんだと思う…)
彼は、窓から外の景色を眺めている茜の横顔を、そっと見つめる。
睫毛の長い、その瞳を。
すぅっと結ばれた、その唇を。
滑らかな曲線を描く、綺麗な頬を。
背まで届く、まっすぐで長く艶やかな髪を。
高校になって目立ってきた、その柔らかな双丘を。
抱きしめれば折れそうなくらい、ほっそりとしたその肩を。
(あまりに長い間一緒にいたから、それと気づかないほどに)
彼と茜とは、赤ん坊の頃から一緒だった。
兄弟以上に親しく、両親よりも長い時間を一緒に過ごしてきた。
小学生の頃、周りにからかわれるのを嫌って、互いに避けるようなこともあった。
しかしそれも、あることがきっかけで、意地や見栄を張るのを止めた。
(茜がいなかったら、いまの俺はどうなっていただろうか…)
そんな風にも思えるからこそ。
彼は、いまの時間を…茜と共にいられる時間に、感謝する。
当たり前すぎて気づかない、そんな幸せ。
兄弟や親よりも、長い時間、接してきたふたり。
たまに近づきすぎて、うっとうしく思えてしまうこともある。
(でも、もしも茜が他の男と付き合うようになったら。…俺は、我慢できないと思う)
茜を奪われたと思い、そして、茜に裏切られたと思うのだろう。
かといって、本格的に茜と自分が恋人同士になる、というのも、彼はにわかに考えられない。
あまりに近すぎて、異性としてよりも、肉親に抱くような愛情に近い。
茜に対して、彼の男としての性欲がうずくことはまれだった。
それに関してなら、茜よりも、詩子に抱くことが多い。
ふたりと詩子は、幼稚園の頃に出会った。
それからは、高校までずっと一緒だった。
(しいこのことも、俺は大切に思っている。掛け替えのない親友だ。俺も茜も、あいつのことは好きだ)
…けれど、彼と茜の間にある、まるで仲のよい双子のような。
そんな、一緒にいるのが当たり前のような関係には、なれなかった。
それと悟り、詩子がふたりと距離を持つようになったのは、いつ頃だっただろう。
(しいこが、俺たちとは違う学校を選んだのも、多分、それがあったんだろう…)
ふと彼が気づくと、茜も見つめてきていた。
臆することのない瞳。
視線がぶつかっても、とっさに逸らすようなこともなく。
互いに、瞳を見つめ合う。
「…ゆう」
「ん?」
「相合い傘よりも、こうして、教室にふたりでいるほうが恥ずかしいです…」
「そうか?」
もう、こんなのは慣れっこだろ?
そんな意味を込めて、彼は苦笑いを返す。
(人に見られる恥ずかしさよりも…。お前と身体をぶつけるのが、気恥ずかしかったんだよ)
人目につかないところで、手を繋ぐようなことはあった。
手の平を通じて、相手のことをより強くわかりあえるようで、好きだった。
(…キスもしたことがある。まだ、2回きりだけど…)
彼が求めたとき、茜は物憂げに避けようとした。
逃げる茜に、彼も意地になって求めると、しぶしぶといった感じで彼女は応じたものだ。
キスは、手をつなぐのとは明らかに違って。
刺激が強すぎて、ふたりを不安にさせた。
なにかが壊れてしまいそうで…それを嫌って、茜は、あまり応じようとはしなかった。
(…そうしていつかは、セックスもするのかもしれない)
いまはまだ、互いの身体を求めるほど、強い感情に突き動かされることはない。
手を繋ぐこと以外で、互いの身体に触れることには抵抗があった。
(でもいつかは、それが当たり前のようにキスをして、茜を抱くようになるのかもしれない)
不思議な関係だと、彼はつくづく思う。
彼らは、互いを本当に愛していた。
それは間違いない。
だけれど、そこに恋はあっただろうか。
(…ない、ような気がする)
恋を経験しないまま、まるで成り行きのように、愛を紡ごうとするふたり。
(…このままで、良いのだろうか…)
ふとそんな風に思い、彼は眉をしかめた。
「…ゆう?」
そんな彼の仕草に、心配する幼なじみ。
「雨、止んだな」
「…はい」
「そろそろ帰ろうか…」
「はい」
ふたりは、椅子をしまいながら立ち上がる。
(こんな関係、いつまで続くんだろう。…続くのだろうか。壊れてしまわないだろうか…)
ぎぎぎ…。
椅子を引きずる音が、がらんとした教室に響き渡る。
「雨止んだし、どっかでなんか食ってくか。付き合ってくれた礼に、おごるよ」
「…山葉堂のワッフル」
「割に合わないぞ。…そうだな、たい焼きで我慢してくれ」
「残念です。でも、たい焼きも好き」
「うん」
彼は、鞄をだらしなく背負い、歩き出す。
(なんで、こんなことを思ったんだろう)
彼は、隣を歩く茜の穏やかな横顔を、ちらりと眺めやる。
(時間はたっぷりあるんだ。急がないで、ゆっくりと答えを出していけばいい…)
『えいえんはあるよ』
(お前は言った)
『ここに、あるよ』
(確かに、お前はそう言った)
彼は茜を見つめながら、物思いにかられる。
(…あのとき。
すべてを拒絶しようとした俺を、お前がそう言って、救い出してくれたんだ。
幸せな時間がずっと続くと思っていたのに。
…裏切られて。
永遠なんてなかったのだと泣いていた俺に、お前が…)
「…ゆう?」
彼女の瞳が怪訝そうに、見つめて来ていた。
「どうしたの?」
「…いや。なんでもない」
彼は、まとわりついてくるような重い思考を振り払おうと、首を振った。
同日 17:52
一時は止み、晴れ間さえ見えていたのに。
日が暮れる頃、再び、雨が降りはじめていた。
冷たい雨。
「雪だったらよかったのにね…」
そうポツリと、詩子は呟いた。
(ここって冬でも、雪より雨が降るからね…)
詩子は傘を差して、日の暮れた町をひとり歩いていた。
傘を差していない手には、コンビニのビニール袋と、幼なじみから借りた傘。
「…あれー?」
詩子は、幼なじみの家の前まで来て、首を傾げた。
家の灯りがついていない。
(寝てる…わけないか、こんな時間に。茜だったらまだしも)
…茜だったら…。
そう思った途端、詩子の脳裏に、茜と彼の姿がよぎる。
「……」
呼び鈴を鳴らそうと伸ばしていた指が、ぴたりと止まる。
脳裏をかすめたその妄想に、顔が真っ赤に火照っていた。
「ううう〜、もうっ」
詩子は、くしゃくしゃと自分の髪の毛をかき乱す。
「…らしくないね」
そっと呟き、雨の降る空を見上げる。
止めどなく降り続ける雨。
雨雲が抱く心を雨にして撒き散らしているように…詩子は思えた。
泣いて泣いて、泣き続けて。
そうして涙を出し切った後、雨雲は消えるのだ。
(ううん、もしかして雨雲って、青空に映えるあの真っ白な雲に戻れるのかもしれない)
そんな風に思える自分に、詩子は苦笑いする。
(こんなこと考えるなんて、らしくないね…)
…らしくないね。
まるで呪文のように、その言葉を唱え続ける。
(ゆうくんが好き。でも、茜も好き。…本当に、大好きだから)
…だから、身を退いた。
だって、ふたりの絆に、自分は立ち入れないことを感じていたから。
そうして、別の高校を選んで。
…でも。
(離れたことで、一段と、想いが強くなっちゃったよ)
詩子は、自分の中から突き上げてくる切ない感情に、眉根を寄せた。
(…あたしは、ゆうくんが好きなんだ)
あきらめたつもりなのに。
きっちりと距離を置いて、気持ちを整理するつもりだったのに。
持て余すほどに、想いは強くなってしまった。
(壊れてしまうよ、この関係)
まるで歌をうたうように。
詩子は、頭の中でリズムに乗せる。
(ひとり暴走、勝手に玉砕、そうして終わるよ、この関係。
それならいっそ、忘れよう。苦しい想いを、消せばいい)
…ああ、らしくないね、らしくないね。
「帰ろーっと」
くるりと、ターンした詩子の眼に。
こちらに近づいてくる人影が写った。
(どうして、こういうときに現れるかなあ?)
「よお、しいこ。どうした?」
「んー…」
自分と同じく、コンビニ袋を手提げた幼なじみの姿に、詩子は曖昧な微笑みを返す。
「傘返しに来たよ。それと、お礼に、コンビニのお弁当」
「おお、傘貸したくらいで飯おごってもらえるとはなー。さんきゅ」
「あでも、もしかしてご飯買っちゃった? その袋…」
「全然大丈夫だ。これはあれだ、インスタント。いつでも食える」
「またインスタントー? 体に悪いよ?」
「コンビニの弁当だって、大して体によくはないだろ」
「インスタントよか全然いいよ」
「今度機会あったら、体に良い弁当でもこさえてくれ」
「そゆのは、茜に頼みなよ」
「なんだよ、しいこって、料理クラブだったろ? けっこう、上手そうじゃないか」
「小学生の頃の話でしょ、もう何年前の話よー」
会話しながら、自然と、ふたりの間に笑みがこぼれる。
(…ああ…。こうやって、ただ話してるだけでも、幸せなんだよね…)
ほろ苦い感情に、詩子は少し涙ぐんだ。
◇