栞は、口をつぐんだまま立ち上がった。
ティッシュの箱に歩み寄り、数枚、取り出す。
そうして俺に背を向けながら、俺から溢れ出たソレを、吐き出した。
そんな行為を、俺に見せないように配慮する栞。
栞 「…ん、けほっ…げほっ…」
俺に背中を向けていた栞が、急に咳き込みはじめた。
祐一 「どうした、大丈夫か?」
栞 「…ちょ、ちょっと飲んでしまって…けほっ…咳き込んじゃいました」
けほ、けほ…と、咳き込む栞。
の、飲んでって…。
一旦収まりかけていた俺のものが、また、堅さを取り戻す。
咳き込む栞の背中が、あんまりにか弱げで。
俺はその背中をさすってやろうと手を伸ばした。
背中に触れた途端、栞はびくりと震えて、俺から逃げるように振り返った。
栞 「だ、大丈夫ですからっ」
栞は、慌てたように笑みを作って、取り繕う。
…俺に、触られたくないんだ。
それとわかって、快楽の余韻が一気に吹き飛んだ。
ついで、胸の中にドッシリと重いモノがのしかかってくる。
栞は口に手を当てつつ、まだ咳き込んでいた。
栞 「すみません、ちょっと洗面所、お借りします」
祐一 「あ、ああ…」
栞は、なんだか少し足をふらつかせながら、部屋を出ていった。
祐一 「…ふぅ…」
身体の底から息を絞り出すように、溜め息をついた。
ティッシュを引き寄せ、まだ湿っている自分のものを拭う。
そうしながら、物思いに耽る。
…栞が、まさかあんなことをしてくれるだなんて。
それは嬉しかったものの、同時に、そうまでしてセックスを拒もうとしていると思い知らされた。
栞は、俺を愛していることを証明するために、あんな行為に及んだのだろう。
身体で性行為をしない代わりに、口での行為で、俺を満足させようとしたんだ。
…どうして駄目なんだよ。
そして、俺が栞のことを追いつめているんじゃないかと思い当たり、気が重くなった。
冷静になれ。
…冷静になるんだ。
自分のことばかり考えずに、第一に、栞のことを考えてやらないと。
俺はいままで、そうしてきたじゃないか。
なにをいまさら、馬鹿みたいに焦っているんだ。
がっついて、大切な栞に無理強いをさせているんじゃないか…。
…欲望を吐き出したことで、冷めた思考を取り戻す。
俺は栞の後を追って、1階にある洗面所に向かった。
洗面所から、激しい水音が聞こえてきた。
栞は、流し場に顔を伏せるようにして、背を曲げていた。
その細い肩が、ふるふると揺れている。
…その様子を見て、栞が泣いていることに気づいた。
祐一 「泣いてるのか?」
栞 「あっ…?」
水音で気がつかなかったのだろうか。
それとも、悲しみが強くて、それどころではなかったのだろうか。
涙で濡れた瞳で振り返った後、慌てて、俺に背を向けた。
…俺は、栞に泣かせるようなことをしたのだろうか。
栞は、泣くくらい無理をして、あんな行為に及んだのだろうか。
胸が痛い…。
祐一 「栞、どうして泣いているんだ?」
栞 「……」
祐一 「さっきの…そんなに、嫌だったのか?」
祐一 「泣くほど嫌なのに、無理してくれたのか…?」
俺が苦しげに告げた言葉に、栞は慌てて振り返り、否定した。
栞 「違います」
祐一 「じゃあ、どうしてだ…?」
栞 「……」
祐一 「栞、言ってくれなきゃわからないよ」
俺の問いかけに栞は口を開きかけて…そしてまたつぐんしまい、うつむいた。
祐一 「それは、俺には言えないのか?」
祐一 「たとえば、香里とかには言えるのか?」
栞 「…ごめんなさい」
消え入りそうな、栞の声。
俺はゆっくりと手をのばし、栞の頭に手を置いた。
知り合った頃から、栞は髪を撫でられるのが好きだった。
身体に触れるのは拒絶されても、髪だけは撫でさせてくれた。
髪と、顔と、手だけ…。
…身体には…。
……。
身体に、なにかあるのだろうか?
服の上から見た感じ、これといって変なことはないようだけど。
…じゃあ、服の下は?
栞の裸を見たのは、1月の末のことだった。
それから、栞は大がかりな手術を受けることが出来て、それが成功し、退院できたと言っていた。
…手術。
服の下。
…手術の跡?
それを見られたくない?
…まさか、そんなことで?
いや、女の子なら、もしかしたら…。
…でも、そのていどのことで、こんなにもなるのか…?
祐一 「栞、もしかして、服の下…」
俺が呟くように言うと、栞がはっとなって顔をあげた。
栞 「…い、嫌…」
栞は、またポロポロと涙をこぼしはじめる。
そして突然駆け出し、俺の横を通り過ぎようとした。
そんな栞を、手をつかんで引き止めた。
栞 「は、離して…離してください、祐一さん」
栞 「今日はもう、帰ります…」
祐一 「栞は…そうやって、いつも自分ひとりで抱え込もうとするんだな」
俺はつかみとった栞の手をそっと持ち上げ、その甲に優しく唇を寄せる。
祐一 「そんな、芯の強いところに、俺は惹かれたのかもしれない」
祐一 「…でも、俺を頼ってくれよ。信頼してくれ。…信じてくれ」
卑怯だな…と思いつつも、栞の本心を引き出すために、俺は言葉を選んでいく。
祐一 「…それともやっぱり、俺が嫌いか? 俺のことなんか、信じられないか?」
栞 「ち、違いますっ」
栞 「好き…好き、だから」
栞 「本当に好きだから、駄目なんですよぅ…」
栞は泣きながら、俺につかまれた手を振り払おうとする。
強引だとは思ったけれど、その手を引っ張り、ぐいっと抱き寄せようとする。
栞 「わぁっ! や、やだぁっ!」
栞はしゃがみ込んで、あくまで俺に抱かれるのを拒んだ。
…俺は、ひどいことをしているのだろうか。
でも、いまを逃したら…。
おそらく、いままでよりもずっと、気まずい雰囲気になってしまう。
そうしたら…怖くて、栞に近寄れなくなってしまうかもしれない。
栞が大切で、嫌われたくないから、それを恐れて。
栞に触れるのを、恐れるようになってしまうかもしれない。
だから…。
だから俺は、覚悟を決めて、思い切って踏み込んでいく。
しゃがみこんだ栞の上に、俺は覆い被さるようにして抱きついた。
祐一 「栞、愛しているから…」
栞 「や…やだっ、駄目ですよぅっ!」
俺の下から逃れようと、栞は本気で暴れる。
洗面所の前の廊下で、俺たちはもつれ合うようにして床に転がる。
そうして、仰向けに倒れた栞に、俺が覆い被さるような形で落ち着いた。
冷たい廊下の上で、抱き合う。
…細い。
床に組み敷いた栞の細さに、今更ながら気づく。
それは、あんまりに細くて、か弱くて、無理に力を入れれば壊れてしまいそうな危うさがあった。
祐一 「こうやって、栞の身体に触れるの、何ヶ月ぶりだろうな…」
栞 「…嫌いにならないで…」
祐一 「えっ?」
栞 「…わ、私ぃ…祐一さんに嫌われたくなくって…」
祐一 「なんで俺が、栞を嫌いになるんだよ…?」
栞 「…私の身体…ボロボロで…」
そうか…。
栞の言葉で、俺の考えがあながち間違えでないことがわかった。
祐一 「…手術の?」
栞 「は、い…」
祐一 「そっか」
俺は片手を持ち上げ、栞の髪を優しく撫でてやった。
栞 「手術の跡…大きな傷跡…」
祐一 「俺は、そんなの気にしないぞ」
俺の言葉に、栞が苦しそうに顔を歪めた。
栞 「そんな、簡単に言わないでくださいっ…!」
栞 「一生消えない、傷跡なんですよっ!?」
栞 「…恥ずかしい…見られたくない…」
栞は両手で顔を覆い、悲しそうな泣き声をあげる。
祐一 「そんなに見られたくないって言うなら…」
祐一 「水着になるときは、ワンピースを着ればいい」
祐一 「温泉とかに入るときは、タオルで隠せばいい」
栞 「……」
祐一 「そして、俺以外の男の前で、服を脱がなければいい…」
祐一 「そうとも。栞が俺以外の男に、素肌をさらさなければいいんだ」
栞 「…祐一さん、物凄く恥ずかしいこと、言ってます…?」
栞は、顔を覆った両手の間から、瞳をのぞかせる。
祐一 「栞は、甘く見ている」
祐一 「俺がどれだけ、栞のことを好きなのか」
祐一 「どんなことがあったって、俺は栞のこと、嫌いになんかならないぞ」
出来うる限りの優しさを込めて、言葉を紡いでいく。
祐一 「むしろ、その傷跡に感謝すべきなんじゃないか?」
祐一 「それが、栞の命を救った証なんだからさ」
栞 「……」
栞 「…それだけじゃ、ないんです…」
祐一 「え?」
栞 「気づいていますよね? 私の体付き」
栞 「ずいぶんと、痩せてしまっているでしょう?」
祐一 「ああ、確かに…」
栞 「でも、見えない部分は、もっとひどいんです」
栞 「本当に、枯れるように痩せ細ってしまって」
栞 「お肉なんて、ぜんぜん付いていなくて」
栞 「手術の跡と、無惨に痩せ細った身体…」
栞 「…私の身体、もう、ボロボロです」
栞 「祐一さんに初めて抱いてもらったときに比べて…」
栞 「まだ綺麗だった時の姿を見ている祐一さんだからこそ、見られたくなくって」
祐一 「…それを、ずっと気に病んでいたのか?」
栞 「以前に比べて、食もずっと細くなって…」
栞 「無理に食べれば、当然のように体調が崩れてしまうし…」
栞 「だから全然、体重も元に戻らなくって…」
栞 「私、私…」
栞 「本当にひどくて…絶対に嫌われるって思って…」
祐一 「…よかった…」
俺は本心からそう思い、安堵の溜め息をついた。
栞 「よ、よかったって…祐一さんっ!?」
顔を隠すのも忘れて、栞は本気で怒った表情を浮かべていた。
そんな栞の額に、そっとキスをする。
祐一 「…俺のこと、嫌いになったんじゃなかったんだな?」
祐一 「本当に、心配したんだぞ…」
栞 「嫌いになるわけ…ないですよ…」
祐一 「…なら、簡単じゃないか」
栞 「え?」
祐一 「…俺が、いまの栞を、全て受け入れればいいだけのことじゃないか」
◇