track 16……残光
目覚めは、突然だった。
「祐一さん、起きてください。大変です」
秋子さんが、俺の身体を揺すって、起こしたようだ。
ここに1年暮らしていて、こうやって秋子さんに起こされるだなんて、はじめてなような気がする。
それゆえに、ただごとではないとわかり、緊張に眠気が吹き飛んだ。
「…まことですか?」
「ええ。さっき舞さんから電話があって、佐祐理さんがまことを病院に連れていこうとしているって言っていました」
舞では説得しきれなかったか…。
頑なになった佐祐理さんは、俺だけじゃなく、舞の言葉さえも受け入れようとはしなかったのだ。
「わかりました。俺、病院に行ってきます」
「わたしも心配ですから、名雪を起こして行きますね」
着替えるのももどかしくて、そこそこ見れる格好になってからコートを羽織り、外に駆け出した。
そんな俺を、大粒の牡丹雪が待っていた。
すごい量の雪が、絶え間なく降ってくる。
雪が降りしきる中、俺はコートの襟をつかみ、黙々と駆け走っていく。
病院へと向かう道が、永遠とも思えた。
降り積もった雪に足が沈み、一歩一歩踏みしだいて進むうちに、思考が麻痺してくる。
佐祐理さんを、どうすれば説得できるか。
それを考えていたはずなのに、深い積雪の中を歩き進むうちに、意識がもうろうとしていた。
ようやく病院にたどり着いたときには、俺の頭の中は、外の景色と同じように真っ白になっていた。
まとわりついた雪を、コートを脱いで勢いよく振り払った。
そうやって雪を落とすのもそこそこに、病院の中に入っていく。
ロビーに人は少なかった。
朝早い時間帯であり、かつ、こんな豪雪なのだから当然だろう。
その少ない人影の中に、佐祐理さんたちの姿はない。
「すみません。さきほど、こちらに診察を受けに来た、倉田佐祐理の親戚の者なんですが…」
友人では弱いだろうから、親戚だと嘘をついた。
それと俺のただならぬ様子からか、受付の女性はあっさりと、佐祐理さんたちがどこにいるかを教えてくれた。
診察室らしい部屋の中から、話し声が微かに聞こえる。
ひとつは佐祐理さんで、もうひとつは男の声…医者なのだろう。
部屋の中に踏み入るか、しばし迷う。
しかし、扉越しにうかがえた言葉の中に「入院」というものが聞き取れたので、慌てて扉を開けた。
「なんだね、きみは?」
「祐一さん…」
部屋の中には、佐祐理さんと舞、白衣を着た中年男性、そしてまことの姿があった。
「あ、わたしの友人です」
佐祐理さんは力無い微笑みを浮かべ、隣の椅子に座るまことの手を、ギュッと握りしめた。
「そうか、佐祐理くんの…」
出て行け…と言われるかと思ったが、その医者はひとつ咳払いをした後、俺から佐祐理さんに視線を戻す。
『佐祐理くん』と、この医者は言った。
佐祐理さんの知り合いなのだろうか。
「それで、入院の話だが」
「はい…。どれほど、日数がかかるのでしょうか?」
佐祐理さんは心配そうな表情で医者にたずねる。
「検査とその結果が出るのを待って…だいたい、1週間ほどかもしれない」
「1週間もかかるんですか…?」
隠しきれない不安が、佐祐理さんの顔に浮かぶ。
俺は、どこか歯切れの悪い医者の言葉に引っかかっていた。
その医者は40過ぎで、ずいぶんと長く医学に携わっているのかも知れない。
けれど、まことの病症をにわかに判断できていないのではないだろうか。
それは当然だろう、まことは人ではないのだから。
逆に、似た症例に照らし合わせて、まことをなにがしかの病気だと決めつけてしまうほうがおかしいのだ。
「すみません、いいですか?」
俺の言葉に、皆の視線が集まる。
「医師であるあなたから見て、まことはなんの病気だと思えますか?」
「…う、む…」
そうだな、検査を重ねないとはっきりとは言えないが…。
…そう言って、なにか喋ろうとする医者の言葉を、俺は制した。
「佐祐理さんにも、わかっているんだろう?
こんなベテランのお医者さんでも、まことをどんな病気か、判断できないんだよ」
俺の言葉に、医者は少し不愉快そうに眉を寄せる。
申し訳ないとは思ったけれど、いまはこの医者をダシにして、まことの入院を阻止しなければならない。
「祐一さん…。病院に預けて、しっかりと検査してもらって。
そうして療養すれば、まことは元気になります…」
佐祐理さんは、迷いを消せないながらも、俺の目をまっすぐ見つめて喋った。
「佐祐理の全てをなげうってでも、まことを助けてみせます。今度こそ、大切な家族を失いません」
そう言って、佐祐理さんは隣に座るまことの髪の毛を撫でる。
まことはまだ熱っぽいのか、眠そうな顔をしていた。
俺たちのやり取りに反応しきれず、ぼんやりとただそこに座っている。
「佐祐理さんがまことを想ってくれるのなら、病院なんかに預けないで、少しでも長い間、まことの側に居てくれ。
1分でも1秒でも、まことの求めることを、与えてやってくれないか…」
俺の言葉に顔を逸らし、佐祐理さんはまことを見つめる。
「佐祐理、眠い…。おうち帰ろう…?」
まことがポツリとこぼした言葉に、佐祐理さんの顔が泣きそうに歪む。
「…ごめんね、まこと。でもね、ここで診察を受けないとね。佐祐理も一緒にいてあげるから…」
佐祐理さん…。
まだ、俺の言葉を拒もうとする。
しかしあきらめず、俺はなおも言いつのる。
「そんなことをしても無駄なんだ。まことが俺たちと一緒にいられる時間が、減るだけだよ。
見知らぬ人たちに囲まれ、つらい思いをさせるだけなんだ。
病院に任せたって、まことは元気にはならないんだよ…」
「ずいぶんな言いようだが。私たちを、信用してはもらえないのかね」
さすがに我慢できなかったのか、医者が口を挟む。
「医者を信じていないわけじゃない。でも、医学で全てを治せるわけないじゃないかっ…!」
言いながら、こらえきれずに声が高くなっていく。
俺の中に、医学への不信というものはあるかもしれない。
…なぜなら、俺の大切な人たちを、医学は救ってくれなかったのだから。
「もしも治せるっていうのなら、どうして、あの子は助からなかった…!
幼なじみのあいつは、どうして目を覚まさなかった…!?」
ふたりの少女の微笑みが思い出され、唇が震えた。
「医学で治せるって言うんなら、俺も天野も、こんなに苦しむことなんてなかったんだ…」
佐祐理さんに視線を戻し、訴えかけるように言葉を紡いでいく。
「俺が、さきの真琴を病院に連れていかず、少しでも長く一緒にいられたことを、いまでもよかったと思っている…」
…真琴は人間じゃない。
俺の目の前で。
俺の腕の中で、消えていったんだ。
ひょっとしたら、病院にまかせれば、もう少し長く生きられたかも知れない。
…でも、後悔はしていない。
あいつは、俺と居て、楽しんでくれていたと思う。
喜んでいてくれた。
幸せでいてくれたと信じてる。
「…ひとつ後悔していることがあるとすれば。もっと早く学校を休んで、もっと少しでも多く、あいつと一緒にいてやりたかったってことだよ…」
俺の懇願に、佐祐理さんの瞳が揺れる。
…佐祐理さんだって、わかっているはずなんだ。
ただ、それから目を逸らそうとしているだけなんだ。
「まことは人間ではないんだ。人の病気とは違うんだよ、佐祐理さんっ」
「…狐、だとでも言うのかね」
俺の言葉に、意外にも医者が反応した。
「そう、です…」
俺は突然のことに戸惑いながらも、そう答えた。
そして、医者の目を見て、背筋がざわりと騒いだ。
…医者の穏やかな目に、風そよぐ緑の丘を見た思いがした。
「そう、か…」
そう呟いたきり、医者は椅子にもたれ、腕を組む。
そうして、優しい眼差しをまことに注いでいた。
…この人は…。
「…佐祐理さん」
俺は、顔を逸らそうとする佐祐理さんの両頬をつかんで、強引にこちらを向かせる。
「逃げるな、目を逸らすな。受け止めるんだ。
現実から目を逸らして、ただ逃げているだけじゃ、なにもはじまらないんだ」
全てを込めるように。
俺は、佐祐理さんの瞳をにらみつけるように見つめる。
「後悔しないように。自分の命を捨ててまで、ここに来たまことの大切な時間を、削りたくはないだろう?」
「…わかってます。祐一さんが嘘をついてないってことくらい、佐祐理にもわかってます…」
佐祐理さんは、堪えきれなくなったのか、ポロポロと涙をこぼしはじめた。
「でも…でも、あんまりじゃないですか。
こんなにも大好きなまことが、こんなにも大切なまことが。
弱々しくなっていくのに、自分がなにもできないだなんて…」
「そんなことはないぞ」
俺は力強く否定した。
「佐祐理さんは、以前、言っていたじゃないか。
ひとはひとを幸せにして、自分も幸せになれるって。相手に幸せを与えて、みんなで一緒に幸せになるって。
佐祐理さん、まことはいま、幸せか? まことは、佐祐理さんと一緒にいることが幸せなんだぞ?」
目をつむり、唇を閉じ、震えながら、静かに泣き続ける佐祐理さん。
そんな彼女の頭を、俺はそっと、撫でてやった。
「まことの限りある時間を、大切に使ってやろうよ。ずっと、側にいてやろう。
一生懸命に、まことを幸せにしてやろうぜ」
佐祐理さんが、耐えきれずに、声を立てて泣きはじめた。
ぼんやりしていたまことも、それに気づいて、佐祐理さんの服の袖を引いた。
「佐祐理、どうして泣くの…? 祐一がいじめるの…?」
佐祐理さんは涙を拭い、まことに微笑みかけた。
「…違うの、違うのよ、まこと。祐一さんがあんまりに優しいから。
佐祐理の胸がいっぱいになって、それで涙がこぼれてしまったの」
「ふ〜ん」
「まこと、帰ろうか。…佐祐理の…」
佐祐理さんは、椅子からすっくと立ち上がった。
「おねえちゃんのおうちに、帰ろう?」
「うんっ」
もちろん、といった感じに、まことは元気よく返事をして立ち上がった。
まだ熱があるらしく、ちょっとふらつく。
部屋を出る際、俺たちは、優しい眼差しをした医者に深く頭をさげた。
外に出た俺たちを、秋子さんと名雪、天野が迎えてくれた。
まことは、秋子さんが持ってきてくれたお手製の肉まんを頬張る。
そして、みんなに囲まれたまことは、本当に幸せそうな、満ち足りた笑顔を見せた。
それを見て、佐祐理さんもわかってくれたはずだ。
「あははーっ。まこと、今日はなにをして遊ぼっか?」
「今日は雪がすごいから、あまり遠くには出かけられないね」
「それでは、また雪合戦というのはどうでしょう?」
「あら、雪合戦なんて何年ぶりかしら」
「…雪うさぎさんも作ろう」
「雪だるまも作ろうぜ。全長10メートルぐらいのがいいな」
「えっと…えっとね。まことはっ…」
…俺たちは、それがまるで当然であるかのように。
日常の風景に、溶け込んでいった。
EPILOGUE track 15……生まれたての風
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