track 15……生まれたての風



 ………。



 ……。



 …。



 …あれから、半年以上の月日が流れた。

 いま、短い夏は終わりを告げ、穏やかな秋が訪れようとしている。

 ものみの丘に、さわやかな風が吹き渡る。
 風で揺れる丘の下草が、まるで海のように見えた。

 周りの空気を、胸いっぱいに吸い込む。
 心地よい緑のかおり。

 ここは、いいな…。
 本心から、そう思う。

 この地を、大切にしていきたい。

 ふいに、この丘で消えたふたりの少女の姿を思い出し、ほろ苦い感情が胸を締めつける。

『真琴との出会いが、悲しみを生んだだけではないはずよ?』
 秋子さんの言葉。

 …そう、それは本当だった。

「祐一さ〜んっ! こっちこっち〜っ!」

 遠くから、明るい声が飛んできた。
 佐祐理さんだ。

 いまではすっかり元気に…いや、以前よりも明るく、きれいになった佐祐理さん。
 けれど、まことを「見送った」直後は、大変だった。

 ふさぎ込み、食事もとらず、そのまま消えてしまおうとでもするかのようだった。

 しかし、まことが悲しみだけを残していったわけではなかった。
 佐祐理さんは、決して自棄になることはなかったし、ゆっくりとではあったけれど、日常を取り戻していった。

 そうして、悲しみを乗り越えることができた佐祐理さんは、以前よりもきれいになった。
 以前よりもよく笑い、よく泣き、よく怒る佐祐理さん。

 まこととの出会いが、佐祐理さんの中に確かなものを残していったのだ。

「今回は、秋子さん直伝の中華まんじゅうをメインにすえてみたんだよ。祐一さん、いっぱい食べてね」
 佐祐理さんは鮮やかな微笑みを見せ、草地に敷かれたビニールシートの上で手招きする。

「おう、遠慮なくいただくぞ」
「祐一が遠慮してるとこなんてみたことないけど」
 俺の後ろについてきていた名雪が、くすりと笑う。

 そういえば、元気になった頃から、佐祐理さんは俺に敬語を使わないようになっていた。
 そのことを指摘すると、佐祐理さんも少し驚いていた。

「ついでだから、俺のこと祐一でも、祐一くんとでも呼んでくれていいぞ」
「ううん。祐一さんは、やっぱり祐一さんって呼びたいな。祐一さんは、特別だから」
「へ、特別?」

 最近とみに美しくなった佐祐理さんに特別と言われ、柄にもなく胸が騒いだ。

「うん。たくさんの感謝と、揺るがない尊敬の意味を込めて」
「そ、そうか」
 ちょっと期待したのに。

「そうだ。祐一さんのほうこそ、わたしのこと、佐祐理って呼んでもいいのに」
「う〜ん…。佐祐理さんは、やっぱり佐祐理さんだしなあ」
「あはは」

 佐祐理さんは、自分のことを「佐祐理」とは呼ばないようになっていた。
 敬語の件と合わせて、良い傾向だと思う。

 弟の一弥を失って、自ら縛っていた戒めを、解くことができたのだろう。

 しかし、それは決して、悲しみを忘れたというわけではない。
 悲しみや苦しみを乗り越えて、手に入れることができた強さ。

「お、なんだ。いつもはいちばん遅い、あま…美汐が、今日は珍しく俺たちより早く来てるじゃないか」

 ビニールシートにちょこんと正座し、ポットのお茶をずずっと飲んでいる美汐に、俺は声をかけた。

「昨夜は佐祐理さんの家に、舞さんと一緒に泊まりましたから。
それに、私がいつもいちばん遅いのは、皆さんが早いからですよ。私は時間通りに来ているのに」
「そうだっけか」

 俺は、よいしょと声をあげて、美汐の隣に腰を下ろす。

「よいしょっ、て。祐一さんは、おじさんクサイですね」
「ひどいな。物腰がどっしりと落ち着いていると言ってくれ」

 つい数日前のことになるのだが。
 俺と天野…いや、美汐とは、互いに下の名前で呼ぶようになっていた。

「あま…美汐、元気そうだな」
「はい。ゆう、いちさんもお元気そうでなによりです」

 まるで、付き合いはじめた初々しい中学生カップルのようなぎこちなさで、互いの名前を呼び合う。
 い、いやいや、別に付き合っているわけじゃあないのだが。

 ただ、俺たちは週1回、嫌でも顔を合わせる。
 あ、いや、別に嫌というわけではないけれど。

 そうだ、週1回の会合のこともあげておいたほうがいいだろう。

 俺たち…俺と美汐、佐祐理さんと舞、秋子さんと名雪の6人は。
 ほぼ毎週、日曜日に、このものみの丘で会合を開いていた。

 会合とは言ったものの、そんな堅苦しいものでも、大げさなものでもない。
 ピクニックと言ってもいいかもしれない。

 ただ、いちばんの目的は、この丘周辺の清掃だった。

 投げ捨てられた小さなゴミは自分たちで。
 どこかの業者が不法投棄していたものなどは、役所に届けて、しかるべき処置をしてもらっていた。

 最初は6人ではじめたこの小さな活動も、知り合いの間で静かに広がっていった。
 そうして、この街の人たちにも話が伝わり、この丘の自然を大切にしようとする空気が生まれていた。



 この会合のはじまりは、まことを見送ってから、数日後のことだったと思う。
 学校の帰り、美汐とちょっと寄り道をしていたときのことだ。

「狐たちは、そんなにも頻繁に、人里に来ているんだろうか?」

 真琴の1年後に、まことが現れた。
 そんなにも頻繁に、狐たちは人里に降りてくるものなのだろうか?

「いえ。私の見聞きした限り、非常に珍しいことです」
「そうか…」

「でも、もしかしたら…」
 美汐はそう言って、ものみの丘の方向を見やる。
「…もしかしたら、あの子たちの住み難い環境になっているのかもしれません」

 あの丘に、飼いきれなくなったペットを捨てる人間が後を絶たない。
 生態系のバランスが崩れて、飢えた動物たちが、街に降りてくることがよくあった。

 そういえば、俺たちの学校に、丘から野犬が降りてくるようなこともまれではなかった。



 このときの会話がきっかけで、あの会合を開くようになったのだ。

 もちろん、いちばんの目的は丘をありのままの自然に戻すためだから。
 俺たちが介入できることは限られている。

 そして、下手に介入して、逆効果になっては意味がないのだ。

 …以前、丘で食事をとっている際に、一匹の子犬が寄ってきた。

 俺は餌を与えてやろうとしたのだけれど。
 そんな俺を、舞がこっぴどく怒ったものだ。

「動物と友だちになるのはいい。でも、餌付けするのは駄目。
食べ物をあげるというのは対等の立場ではないから」
「う〜ん、そうだな。下手に、人に頼るようになっても逆効果だしな」

 そう納得しかけた俺は、ふいに、以前の記憶を思い出した。

「そう言っておいて、お前、むかし野犬に餌やってたじゃないかっ!」
「あれは非常事態だから」

 舞は平然と答え、寄ってきた子犬を優しく撫でてやった。



 そして今日も、俺たちはこの丘にいた。

 一仕事終え、会話と食事とを楽しんでいた俺は、ふと視線を感じて、辺りを見回す。

「狐だ…」
 木々の間に隠れるようにして、一匹の子狐がこちらをうかがっているのに気づいた。

 俺の言葉に、みんなも視線を送る。
 子狐は逃げることもなく、かといって寄ってくることもなく、その場でこちらを眺めていた。

「だいじょうぶかな…」
 名雪が、心配そうな声をあげた。

「なにがだ?」
「あの子、わたしたちを見て人に憧れて…。真琴たちみたいに、人里に降りてくるようになるんじゃあ」
「……」

 俺たちが善かれとやっていることが、また新しい別れを生んでしまう?

「…大丈夫です」

 天野が、揺るぎのない確信を持って、呟いた。

「もしあの子が望むのなら、私たちは、人と狐のままでも友だちになれます。
命を捨ててまで、人の姿をとる必要は、ないんです」

 子狐から、風で揺らぐ緑の丘に視線を移す。

「だって私たちは、いつもここに来ますから。あの子たちが望むのなら、いつでも…」
「そうだな」

 人と、獣たちと、自然と、共存と…。
 最近、いろいろと考えるようになってきた。

 自分が、なにをすべきか。



 失った者を思いだし、過去をとうとぶことは悪いことではない。
 ただ、それだけに固執し、前に進もうとしなければ、なにも生まれはしないのだ。

 …もちろん俺は、真琴たちが戻ってくることを、願わない日はなかった。

 しかし、それをただ待ち続けた日々は終わった。

 ただ、願いがかなう日を受け身的に待ち続けることを止め、自らで動く。
 そうして、自分になにができるかを真摯に考え、精一杯のことをして、月日を重ねていく。

 言葉にしてしまえば、こんなにも簡単なことだけれど。
 俺はそれを、実感を持って自分のものにすることができた。

「祐一さん」

 秋子さんが、ふいに、風の中から声をかけてきた。

「…この街には、もう慣れましたか?」

 突然の質問だった。

 どうして、いまここで?
 と思ったけれど、その問いに対する答えなど決まっていた。

「はい。…ほんとうにいい所ですよね、ここは……」





後日談 track 23……Little tragments