track 18……夢の跡



 …深夜の2時を過ぎた頃だろうか。

 まことの荒かった呼吸が、安定した。
 まだ苦しそうだったけれど、寝言をもらすこともなくなり、静かな眠りについたようだ。

「よかった…。熱、少し下がりました」

 佐祐理さんの言葉に、何時間も張りつめていた空気がゆるんだ。
 誰ともなく、深い溜め息をもらす。

 …もう、大丈夫だよな?

 その意味を込めて天野を見やると、ほんの少し笑みを見せて、うなずいてくれた。

「よかった…。ほんとうによかった…」
 佐祐理さんは、まことの手袋を握る右手を、両手でおしいただくように包んだ。

「佐祐理。まことは、もう、だいじょうぶだから」
 舞は、佐祐理さんが抱え込んでいたまことの手に、自分の手を当て戻すようにうながす。

「…うん」
「ゆっくり眠らせてあげよう」

 佐祐理さんは、まことの手を布団の中に戻し、掛け布団を整える。

「ぐっすり寝て、明日になれば、きっと元気になっているから」
「そうだね、きっと。うん…」
「だから、佐祐理」
「なに、舞?」

「…おなか空いた」



 佐祐理さんは、みんなの食事を作りに、部屋を出ていった。

 佐祐理さんが立った後も、舞は寝入るまことの顔を見つめていた。
 なにかを喋るわけでもなしに、まことの傍らから立とうとはしない。

 そんな舞がいるので、天野と込み入った話をすることができない。
 天野を連れて、いったん外に出ようか…と思った頃、舞が口を開いた。

「…この子、いったい何者なの?」

 舞は、視線をまことから離すことなく。
 まるで天気の話でもするかのように、自然な雰囲気で問いかけてきた。

「佐祐理さんの弟の、友だちだ」
 俺は、とっさのことにつかえながら、そう声を押し出した。

「でも、それだけじゃない」
「…俺と、天野の友人でもある」
「それだけでも、ない」

 そう静かに。
 しかし、揺るぎのない舞らしい口調で。

 そして舞は、まことから視線を外し、俺と天野をまっすぐに見つめてきた。

「祐一も美汐も、なにか隠してる」
「……」

「私、覚えてる。祐一と再会して間もない頃。祐一を追って、夜の学校に来た女の子のこと。
その女の子は、白いカーテンをかぶって、祐一を驚かそうとした。
…祐一は、その子をマコトと呼んでいた」

 そういえば、そんなこともあった。
 舞は、先の真琴のことを知っているんだ。

「あの時の子と、まこととはすごく似ているけれど。私には、違うってわかるから」

 舞の真摯な瞳を前にして、ごまかしきれないと悟った。

 俺は、天野に視線を送る。
 それに対して、天野が黙ってうなずくのを見て、俺は決心した。



 …舞に、俺と天野が知り得る全てを、話した。

 さすがの舞も、荒唐無稽ともとれるこの話に、驚きの表情を隠せない。
 しかしそれでも、頭から否定するようなことはなかった。

 舞自身が、不可思議な現象を体験しているから、そういう意味では柔軟なのかもしれない。

「この子が、狐…」

 舞はじっと、まことを見つめながら呟く。
 無意識のように、まことの髪を撫でていた。

「信じてくれるか、こんな話」
「…祐一と美汐が、嘘をついていないことぐらい、わかる」

 舞は、悲しそうに眉を寄せる。

「それに、それなら納得できる。私では、この子になにもしてあげられない理由が。
それと、この子からは、動物のにおいがしていたから。日だまりの、暖かいにおい」

 舞は、まことの長い髪の毛を一房すくいあげて、愛おしむように頬ずりした。

「…どうしようもないの?」
 舞の問いかけに、俺と天野は返答できなかった。

 まことの額に、舞は手を当て、祈るようにまぶたを閉じる。
 眉間にしわを寄せて、じっと、祈るように。

 しかしやがて、悲しそうに顔を横に振る。

「…まこと、どうして…」



 舞は…受け入れてくれた。

 あとは、佐祐理さん。
 …佐祐理さんだけだ。

「佐祐理さんには、もう少し落ち着いてから、話してみるから。
だから、舞。しばらく、黙っていてくれないか」

 いまの状態で、佐祐理さんにこの話をするのは危険に思えた。
 俺の些細な言葉に、あの穏やかな佐祐理さんが取り乱したのを思い出す。

 それほどまでに、佐祐理さんはまことのことを好きになっていてくれて。
 そしてそれゆえに、いま切羽詰まっている状態にあるのだろう。

「…ごめん、祐一」
 舞がポツリと呟いて、俺の後ろを見やる。

 舞の視線を追うと、俺の背後のドアに行き当たった。

『親なら、子供のことを知りたいです。…たとえ、それが悲しいことでも』
 …秋子さんの言葉が、ふいに思い出された。

 ドアを開けると、そこに、佐祐理さんがいた。
 真っ青な顔をして、がたがたと身を震わせて。

「佐祐理さん、聴いていたのか」
「…いまの話は…ほんとう、ですか?」

 焦点の合わないような眼差しで、訊いてくる。

「ほんとうだ。天野も、俺と同じ経験をしている」
「まことは…人間じゃないって…そう、言うんですか…?」

「つらいでしょうが、受け入れてください」
 天野がつと立ち上がって、俺の横に並んだ。
「そうして、この子になにをしてあげられるかを…」

「…そ」
 佐祐理さんがうつむいたまま、なにやら呟いていた。
「…うそ、うそです…。…そんなの、うそに決まってます…」

 うつむけた佐祐理さんの顔は、見る者に寒気を抱かせるほど、虚ろだった。

「いや…もういや。もう失いたくない。大切な人を、もうだれも失いたくない…」
「…佐祐理さん」
「いやっ! ききたくないっ!」

 佐祐理さんは目と耳を塞いで、顔を横に振る。

 そのまま、ずるずると崩れ落ちるように膝をついたかと思うと。
 まるで這うような態勢で、まことの元に駆け寄った。

 そうして、寝入るまことの上に、覆い被さるように倒れ込む。

「倉田さん…」
 天野が、そんな佐祐理さんの肩に手を乗せると、それは勢いよく振り払われた。

 まるで、獣の親が、小さな子供を必死に守り通すような感じで。
 佐祐理さんは、全てを拒絶する姿勢を示した。

「…さ、ゆり…?」
 佐祐理さんの重みで目覚めたのか、寝入っていたはずのまことが、うっすらとまぶたを開ける。

「あぁ…ごめんね、まこと。寝てていいから。ゆっくり眠っていてね。
はやく、元気にならなくちゃね」

 佐祐理さんが優しく囁きかけながら、まことの髪を撫でてやる。
 それで安心したのか、まことは、すーっと目を閉じる。

 そんなまことを、佐祐理さんはじっと見つめる。

「…祐一さんは、嘘をついています」

 俺たちから目を逸らしたまま。
 佐祐理さんは、熱があるような表情で、言葉を紡いでいく。

「祐一さんの言葉でも、それだけは信じることができません。まことは人間です。
…まことは、記憶を失っているだけの、ただの女の子です。祐一さんは勘違いをしています。
まことは、祐一さんが知っているような子ではないんです」

 そして、まるで夢を見るような口調で、佐祐理さんは喋り続ける。

「もしも、まことに記憶が戻らないようなら、それこそ戻るまで、私たちは一緒に暮らすんです。
それでも記憶が戻らなくて、まことの家族が見つからないようなら、お父さまに頼んで、まことを養子にしてもらうんです」

 佐祐理さんは続ける。

「…そうして、佐祐理の本当の妹になるんです。血はつながっていなくても、ずっと一緒にいられる、妹なんです。
セーターも編んであげます。まことは、きっと喜んでくれます」

「佐祐理さん…」
 俺が佐祐理さんに近寄る。

 すると、
「朝はっ…!」
 それを拒むように、佐祐理さんは一際高い声をあげる。

「…朝は、寝ぼすけなまことを起こすのが大変で。いっつも、学校に遅刻しそうになるんです…」

 …昼は、別々の学校。
 佐祐理は講義を受けながら、夕食はなににするか、献立を考えているんです。

 夕方は、まことと落ちあって、夕食の買い出しです。
 そうして、ふたりして夕食を作ります。まことは不器用だから、いつもキッチンを汚して。

 夜は、一緒に寝るんです。
 舞が遊びに来ていたら、まことを真ん中に、川の字で仲良く眠るんです。

 春には、満開の桜を見に行って。

 夏には、浴衣を着てお祭りに。

 秋には、紅葉を見に山へ訪れ。

 そうしてまた冬が来たら、雪だるまを作って。
 そのまわりで、くたくたになるまで雪合戦をするんです…。

「…いつまでもいつまでも、そうやって、ずっと一緒にいられるんです」

 誰もなにも言えず。
 重い空気が、部屋を満たす。

「帰ってください」
 佐祐理さんは、やはりまことの顔を見つめたまま、俺たちに言った。
「…帰ってください」

「佐祐理さん…」
「早く、帰ってっ…!!」

 全てを拒もうとする佐祐理さんに、俺はなにも言えなかった。
 無理して言いつのれば、佐祐理さんが壊れてしまいそうで…。

「舞、ふたりを玄関に案内して」
「佐祐理…」
「舞っ!」

「…わかった」
 舞は大きく溜め息をついて、立ち上がった。

「祐一、美汐。今日は帰って」
「…ああ」
「…わかりました」

「佐祐理のことは任せて。…説得してみる」
 玄関まで見送ってくれた舞は、俺たちに言った。

「舞、頼む」
「大丈夫。佐祐理は、弱くはないから」

 舞の言葉を信じて、俺と天野は、帰途についた。



 天野を家まで送った後。
 深夜、俺はひとり、水瀬家へと帰る道を歩いていた。

 …佐祐理さんが、あんなにも頑なである理由は、わかりきっていた。

 佐祐理さんは、まことに、失った弟の姿を重ねているのだろう…。

『訪れる別れは、相沢さんがあの子に情を移しているほどに、悲しいものです』
 天野の言葉が思い出された。

 俺は、全身でためいきをつく。
 吐き出された呼気は、すぐに白濁し、やがて夜闇の中に散っていった。

 そうして、もう一度、思う。

 …佐祐理さんは耐えられるだろうか?
 弟の一弥を失ったとき、手首を切った彼女が。

 耐えきれると信じたい。
 大人になった佐祐理さんなら。

 いまは、舞も…それに、俺も側にいてやれるから。


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