track 4……彼女たちの見解



 俺が起きたのは、もう10時を回る頃だった。
 やはり疲れていたのだろう、ずいぶんと熟睡していたようだ。

 1階のキッチンに行くと、秋子さんがいつもの笑顔で迎えてくれた。

「ふたりとも、まだ寝ているようですよ」

 まことが起きるまで、名雪は寝かせたままにしておいてやろう。
 昨夜は、遅くまで待っていてくれたからな…。

「そうそう、祐一さん。ぴろがどこに行ったか、知りませんか?」
「あ…そういえば。ふたりが旅行に出かけた日の前から、見てないんですよ」
「そう…」
「でもまあ、ふいにいなくなったかと思うと、ある日当たり前のように戻ってくるようなヤツだから」

 昨夜、猫の声に導かれるようにして、まことを探し当てたことを思い出した。

 あれは、ぴろだったのだろうか…?

 それと、その後に聞こえた、キレイに澄んだ鈴の音色。
 まことが持っていた手袋の錆びついた鈴とは、明らかに違うもののように思えた。

 たまたま、鈴のついた首輪をした猫が通りかかっただけなのかもしれないけど…。

「おはよぅございま…す」
 まことが眠そうな顔をして、とてとてとダイニングキッチンに入ってきた。

 カエルがプリントされた緑のパジャマを着た、まこと。

 寝癖で、長い髪の毛がところどころ跳ねていた。
 眠そうに、手でグシグシ眼をこする仕草が、とても幼い感じだった。

 …まるで、真琴がいた頃に戻ったかのような錯覚に、しばらく言葉が出なかった。
 秋子さんも俺と同じような感慨にとらわれたのか、やはりすぐには反応できないようだった。

「?」
 まことは、俺たちの様子にきょとんとした顔をして戸惑っていた。

「…おはようございます」
 秋子さんの声が、少し震えているような気がした。

「そのパジャマ、似合ってるぞ」
「え〜。このパジャマ…カエル…」
 俺の言葉に喜ぶことなく、カエルのパジャマを引っ張って、ちょっと複雑な顔をしていた。

「パンでいいかしら? それとも、ごはんにする?」
「うんっと…じゃ、パンで」

「そうだ、秋子さん。こないだ作った肉まん、冷凍したヤツ、まだ残ってるよね?
まことに出してやってくれないかな」
「そうね」

「…肉まん…」
 眠そうだったまことの目が、ぱっちりと開かれた。

「昼過ぎに佐祐理さんたちが来るから。みんなで、秋子さんに肉まんの作り方、教わろうな」
「うんっ」

 まことは、パッと明るくなった後、すぐに心配そうな顔つきになった。

「まことでも作れるかなあ、肉まん…」
「だいじょうぶよ、きっと作れるわ」
 秋子さんお得意の、説得力に満ちた微笑み。

「それじゃ、名雪を起こしてきますね」
 そう言って、俺は2階にあがっていった。

 名雪の部屋の扉を、こんこん、と叩く。

「…うにゅ」

 中から反応はあった。
 …しかしそれで安心はできない。

「名雪、起きたか?」
「…うみゅ…」

 …駄目だな、こりゃ。
 暖かい季節の間は、比較的寝起きはいいほうだったんだが…。

「早く起きないと、名雪のパンに、ジャムを塗りたくるぞ」
「ジャム…お母さんのジャム、好きだもん…」
「あいにくとイチゴのジャムは切れててな。だから、あの個性的な味のジャムを塗りたくる」

「こせーてき…?」
「そうだ、あの謎のジャムだ」
「なぞの…」
「個性的な味のする、オレンジ色をした、秋子さん特製の謎のジャムだよ」

「……」

「あれを、名雪のパンに塗りたくる。パンの端まで、びっちりと塗りたくる」
「…いやあああああああっ!」

 どたがたどた…と、名雪の部屋から激しい物音が聞こえてきた。

 よしよし、完全に目が覚めたようだぞ。
 …ただ、あのジャムを思い出して、俺も気分が悪くなるのが難ではあったが。

「はやく降りてこないと、ほんとうに塗りたくるからな〜」
「やめてーーっ!」

 …ところが。

 俺の言葉が、ソレを招き寄せてしまったのか…。

 普段は見掛けない、あの個性的な謎ジャムが、食卓の上に鎮座ましましていた。

「……」
 …目をそらし、つとめてそれに気づかないふりをする。
 冬だというのに、だらだらとあぶら汗が流れた。

「祐一〜っ。すごいね、秋子さんって! 秋子さんの肉まんって、コンビニのより、ぜんぜん美味しいものっ!」
 俺の恐怖をよそに、まことが肉まんを頬張って幸せそうにしていた。

「そそそそうだな、秋子さんの肉まんは、最高だよなっ!」
「うんっ」

 まことは、あの手作りの肉まんが秋子さんの作ったものだとわかり、秋子さんをすっかり尊敬してしまったようだ。

 …だから、疑うようなこともなく。

「ね、このジャム、試してみませんか?」
 との秋子さんの薦めに、まことは従順に、あの謎ジャムの瓶を受け取った。

 …いっかーーんっ!!

 この穏やかな食卓を、崩壊させてはいけない!

「だめだーっ!」
 俺は強引に、まことの手から謎ジャムを奪い取った。

「あぅっ、なにするの〜?」
「祐一さん…?」

 ふたりの困惑の眼差し。
 俺は、謎ジャムを奪い取ってはみたものの、その後どうするかを考えていなかった。

「…こ、これ、は…俺が、食べる…んだ…」
 そう言ってごまかし、場をつくろいながら、自分の言葉に泣き出したくなった。

「なによう、たくさんあるんだから、まことにもくれたっていいじゃない」
「そうですよ、祐一さん。独り占めだなんて、大人げないじゃないですか」

「だめなんですっ! おおお俺は、ジャムをいっぱい塗りたくらないとっ! パンを食べられないっ! タチ…なんですっ!」

 そうやって叫びながら、俺は自分のパンに謎ジャムを塗りたくった。

「こうやってこうやって…端から端まで、びっちりと山盛りになるほどジャムを塗りたくって…うぷ」
 自分でやっておきながら、築きあげた絶望的な光景に眩暈を覚えた。

 降りてきた名雪が、この光景を目のあたりにして凝固していた。

(…チャレンジャーだね、祐一…)
(…数ドット落ちただけで死んでしまう、あのチャレンジャーだな…)
(…それはスペランカーだよ…)
(…そうだった…)

 というか、テレパシーなんて使えないから、その会話も逃避妄想でしかなかった。

「…いた、だき、ます…」

 謎ジャムてんこ盛りのトーストを口元に運んでいきながら、これから襲い来る衝撃に身構える。
 俺にとって、それはまさにセカンドインパクト。

 あの謎ジャムが、いま、この、俺の、口の中にぃっ…!

 ……。

 あの、なんとも形容しがたい味。
 一口食べただけで、人間の本能が警鐘を鳴らすような味わい。

 まったりとして、ねとつくようで、口の中にじゅわりと広がるまろやかな。
 それでいて、上手いのかまずいのかも理解できないような独創的な味。

 十数年生きてきた俺の人生の中で、他に類を見ないような味わい。

「…ぐふ」
 思わず吐き気がこみあげる。
「お、おおおおおいしかったです、ごごごごちそうさまでしたっ!」

「…まだ一口も食べていませんよ?」
「えええええっ!?」

 トーストを見れば、確かにその通りだった。

 しまった…。
 過去の記憶から、謎ジャムの味をきれいにトレースして、食べたつもりでいただけだった。

 なんだか、ものすごい損をしているような気がした。

(…ふぁいと、だよっ…)
(…いえ、勘弁してください、できれば助けてください、手伝ってください…)
(…わたしは謎ジャムアレルギーなんだよっ…)

 そんなアレルギー、聞いたことがなかった。
 というか、テレパシーは使えないんだった。

「祐一さん…?」
 秋子さんの物問いたげな眼差しに、俺は観念した。

 がぶり…と、破壊的なトーストを3分の1ほどかじりつく。
 ごくり…と、かじりついた直後、即座に喉に流し込んだ。

 しかし、流し込む過程で、口の中いっぱいに、残留物(謎ジャム)がまとわりついていた。
 味わうまい味わうまい…と必死に抗うのに反して、残留物を排除すべく唾液が生まれ、その味を口いっぱいに広げていった。

 だ、だめだ…と思った直後、視界が暗転した。



 …ガチャリ。

 という甲高い物音に、ハッと目を覚ます。

 一瞬、気絶してしまったようだ。
 テーブルの上にヒジをついていた。

「だいじょうぶですか、祐一さん? どうしました?」
「だだだだだいじょうぶですよ、いたって平気ですよ、美味しすぎて、ちょっと言葉を失ってましたよっ!」

「白目を剥いていましたが…」
「気のせいです、目の錯覚です、他人のそら似ですって!」

「おいしく、ありませんか…?」
 秋子さんは頬に手をやって、悲しげにちょこんと首を傾げる。

「そそそそそんなことは、ないかもしれませんが、あるかもしれないけれど、そうでもないようなきがしないでもありませんし」
「…あっ」
「え?」

 名雪の驚いた声に、振り返る。
 名雪が硬直して、一点を見つめていた。

 その視線を追うと…。

 俺が取り落としていた破壊的なトーストを、まことが拾いあげ、端っこにかじりついていた。

「あ」

 んぐんぐ…ごっくん。
 丁寧に咀嚼して、まことは謎ジャムてんこ盛り破壊的トーストを一口飲み下した。

「……」
「……」
「……」

「どうですか?」
 そう問いかける秋子さんを、まことは上目使いに見上げる。

「…おいしいかも」

 えええええ〜〜っ!?

 俺と名雪は、目を剥くような勢いで視線を交わした。

「このジャム、なにでできてるの?」
 んくんく…と、またあのパンを食べながら、まことが秋子さんにたずねる。

 …ほんとにおいしいらしい…。

「企業秘密です」

 そう言ってから、「でも」、と秋子さんは続けた。

「一説では、ぴょ、という頭文字がつく素材をつかっているんです」

 なんですか、その「一説では」って?
 どういう意味なんでしょうか?

 というか、「ぴょ」って頭文字がつく食材ってなんだ…。

「ぴょ、ぴょ、ぴょ…」
 まことが呟く。
「…ぴょんキチ?」

「ぴょんきちって、なに?」
「えとね、漫画のキャラクター。舞が持ってきた漫画の中にあったの」

 意外とマニアックだな、舞…。

「カエルなんだよ」
「あら」

 カエルという単語に、秋子さんが反応する。
 あ、ああああ秋子さんっ?

「Tシャツにカエルがくっついて。でもそのカエルは生きてて、喋ったりゴハンを食べたりするの」
「へえ〜」

 名雪はまことの説明に関心し、自分が着ている服に視線を落とす。
 なにを考えているか、想像できた。

「…名雪、服にカエルの絵をプリントしたって、そのカエルが喋るわけじゃないぞ」
「そんなの、やってみなければわからないじゃない」
「いや、わかるだろ、ふつう…」

「…祐一、世の中には、絶対なんてことはないんだよ」
 名雪の目は真剣だった。

 猫だけじゃなく、カエルが絡むと、キャラクターが変わるようだった。

 っていうか、プリントされたカエルが喋るっていうなら、まことのパジャマなんて、今頃カエルの大合唱だ。

 …とまあ、こんな調子で(こんな調子で!?)、佐祐理さんたちが来る昼過ぎまで、4人で食卓を囲んで過ごした。


NEXT track 2……2 steps toward