track 11……pure snows



 温めた肉まんを、真琴が夢中になってかぶりついている。

 ここは、真琴の部屋。
 階下から、真琴のために肉まんとお茶を持ってきて、話をしていた。

「うまいか?」
 俺の問いに、真琴はコクコクとうなずく。

 肉まんをひとつ平らげた後、お茶をずずず…と飲む。
 それで一息ついたらしい真琴は、つぎの肉まんに手を伸ばしつつ、訊いてきた。

「これ、なんて食べ物なの?」

 食べ物のことまで、忘れてしまったのか…。

「肉まんって言うんだ。お前の…真琴の大好物だったんだぞ?」
「ふ〜ん…」
 また一口食べて、真琴はニコリと微笑んだ。
「…うん、わかる気がする。だってコレ、美味しいもの」
「ああ、そうだな…」

 真琴は、なにもかもを忘れていた。

 自分の名前も、俺や天野のことも。
 それこそ、俺たちに出会う前の状態にまで、戻ってしまったような。

 まるで、俺たちの元に戻してくれる代わりに、全ての記憶を奪われたかのように。
 あるいは、白紙に戻った真琴を、それでも愛せるかと試すかのように。

 …俺には、そんな風に思えた。

「ほら、この写真のこと、覚えてるだろ? 1年前に、みんなで撮った写真だぞ」
 1年前にプリント機で撮ったシールを持ってきて、真琴に見せる。

 …1999.1.26 水瀬家一同。

 その文字の下、俺と真琴、秋子さんに名雪の、4人の家族の姿があった。

「ほんとだ…。あたしがいる」
 真琴は肉まんにかじりついたまま、俺の示したシールを見つめる。

「覚えてないか、このときのこと」
「う〜ん…」
「ほら。4人でレストランに夕食を食べに行ったろ?
それで、帰り道、ゲームセンターのトコにあるプリント機で、みんなで撮った写真だ」
「……」
「そうだ。それで、家に帰った後花火をやったんだった。あれは綺麗だったなあ…」

 俺が語りかける過去の話に、真琴は興味を示しつつも、しかしなにかを思い出すには至らなかった。

「あうぅ〜、思い出せないよぅ…」
 真琴は、悲しそうに首を振る。

 俺と真琴のやり取りの最中、天野は隣に座っていたが、なにも喋らず俺たちを見つめていた。

 …天野からも、なにか言ってくれればいいのに…。

 八つ当たりだとわかっていても、そんな風に腹立たしく思ってしまう。

「真琴は、ネコ、好きか?」
「ネコ? …う〜ん、どうだろう」

 真琴の部屋の中を見回すが、やはりぴろの姿はない。

「お前は、この家でネコを飼っていたんだぞ。ぴろって名前の、白っぽいネコだ」
「ぴろ…」
「息の合ったお前の相棒でさ。アイツがいなくなって、お前、大騒ぎして。それで1日中探し回って、結局見つからなくて…」

 それで、真琴は発熱したんだった。
 …1回目の発熱。

 あの日を境に、真琴は物静かになったんだったな…。

 悲しい過去を思い出し、少し胸がうずいた。

「そのぴろも、帰ってきているぞ。アイツも、お前が帰ってくるのを、ずっと待っていたんだ」

 なんでこういう大事なときに、ぴろがいないんだ。

 真琴とぴろが顔を合わせれば、すぐにまた、仲のいいコンビが復活して。
 そうして、真琴が記憶を取り戻すかもしれないのに。

 もう一度、部屋の中を見回すが、やはりぴろの姿はない。
 その代わりに、部屋の隅にキチンと整頓されて置かれている本の群に気づく。

「そうだ、漫画だ。お前、漫画が大好きだったじゃないか」

 俺は、部屋の隅にある本に歩み寄る。
 漫画雑誌やら単行本やら、その大きさに合わせて、綺麗に整理されていた。

 それを乱雑に散らかしながら、求めるものを探す。

 …あった。
 真琴がいちばん気に入っていた、『恋はいつだって唐突だ』で始まる、あの少女漫画。

「ほら、これ。お前がいちばん好きだった漫画だぞ」
「ふ〜ん…。この本、漫画って言うんだ」
 俺から漫画を受け取り、ぺらぺらとページをめくる真琴。

 しかし、やがて食い入るように読み始める。

 …この漫画を、いったい幾度、真琴に読んで聴かせてやったことだろう。

 俺も、真琴が見入る横から眺めて、物語を追う。
 久しぶりに目を通すが、いまでもしっかりと覚えていた。

『わかった。絶対に迎えに来るから』

『そのときはふたりで一緒になろう。結婚しよう』

『それまで…さようなら』

 1年前、ものみの丘で別れた俺たちは、またこうして、再会することができた。

 …結婚しようか、真琴。
 ずっとふたりで、一緒にいられるように。

 今度は、知り合いをみんな呼んでさ。
 教会かどこかで、きちんと式をあげよう。

 1年前はブーケしか用意してやれなかったけど。
 今度は、ちゃんとしたウエディングドレスを用意してみせるぞ。

 これから始まる、真琴との新しい生活を思い、胸が暖かくなる。
 漫画に夢中になっている真琴の頭を、そっと優しく撫でてやる。

「はぁ〜…。とっても、感動的なお話…」

 読み終えた真琴は、漫画を閉じて胸に抱き、うっとりと溜め息をつく。

「…そうだな」
「これが漫画っていうんだぁ…。すっごい面白いねっ」
「その漫画、その物語、覚えてないか? お前がいちばん気に入ってた1冊なんだけどな」
「うう〜ん、わからないや…」

 だめか…。

 …しかし、急ぐ必要はないんだ。
 今度は、時間はたっぷりあるのだから。

 もし記憶が取り戻せなくても、またひとつひとつ、新しい思い出を作っていけばいいのだ。

 俺はそうやって、自分を慰めた。

「ねね、そこにある漫画、読んでもいい?」
 目をキラキラ輝かせながら、漫画に興味を示す真琴。

 いまの自分の境遇を忘れて、呑気に漫画を読みたいと言うあたり、真琴らしかった。

「ああ、構わないぞ」
「やったー」
 真琴は、嬉しそうに両手で万歳した後、漫画の置かれた一角に歩いていく。

 部屋にある時計を見ると、もう朝の6時だった。

「ちょっと、よろしいですか?」

 思わぬ所からの声に、俺は少し驚いた。

 …天野だった。

 さっきから、ひとり黙り続けていた天野が、思慮深げに言葉を出した。
 これといった理由もないのに、言いしれぬ不安が、俺の身を貫く。

 …不安?
 なにを、俺は感じているんだ…?

 漫画を物色しはじめていた真琴に、天野が近寄って話しかけた。

「ちょっとだけ、お話、いい?」
「え? あ、うん」
 長い間喋らなかった天野が、自分に話しかけてくることに、真琴は戸惑っていた。

「あなたが、自分の記憶がないって気づいたのは、どれくらい前なの?」
「ええっとぉ…」

 真琴は、きょろきょろと部屋を見回して、時計を見つける。

「いまは、朝の6時?」
「はい」
「じゃあ、えっと、一昨日かな」
「どこで目が覚めました?」
「…森の中」

 森…ものみの丘周辺の、あの森のことだろう。

 天野にうながされ、真琴はポツポツと喋る。
 真琴の話では、森で目覚めた後、街に降りていろいろと歩き回っていたらしい。

 自分の記憶がないことに戸惑いつつも、あてどなく街をさまよい。
 気づいてみればもう夜で、寝る場所に困って…。

 結局、また目覚めた森に戻って、木の下で眠ったらしい。

「朝起きたら、なぜか毛布にくるまっていて。
それで…そうだ。あたしが起きたら、毛布の中に入っていたネコが逃げていったの」
「ネコ?」
「うん、ネコ。で、そのネコが生み落としていったみたいに、財布も落ちてた」
「……」

 真琴は財布をとりだした。
 以前持っていた物とは違うものの、やはり男物の財布。

「それで、また街に戻って。
歩き回ってたら…アイツを見つけたの!」
 真琴が、なにやら憎々しげに叫んだ。

「アイツ?」
「髪の長い女…。いつもニコニコしてる、変な女」
「見覚えがあったの?」
「う、ん…多分。なんかね、あの女を見つけた瞬間、コイツだ…って気がしたの」
「その女性に会いたかったの?」
「会いたい…と思う。でもね、憎たらしいのよ、その女」

『やっと見つけた…』
 真琴の台詞を思い出した。
『…あなただけは許さないから』

 あれは…佐祐理さんに言っていたのか?

 …どくん、と、心臓が不安に暴れる。

「憎くて、怖くて…でも、不思議と興味を惹かれて。
けど、その女の側には、もうひとり背の高い女がいて。そいつがおっかない感じなの」

 それは舞のことだろう。

「憎ったらしい女がひとりになるのを待とうって、後をつけていたんだけど。
もうひとりのおっかない女ね、あたしのことに気づいてるみたいに、時折、後ろ振り返って…」
「そう」
「それでね、結局、ひとりきりになる様子がなくって。
あげくに、祐一がその女と合流してね、さんにんになっちゃった」

『ひとりになるのを待っていたのに…減るどころか増えちゃうし』

「で、家の中に帰っていっちゃうみたいだから、慌てて、あたしが出ていったら。
祐一が抱きすくめて来て、あたし気絶しちゃった…」
 すこし恨めしい顔で、俺のことを見る真琴。

「その女のひとに、会いたい?」

「…うん。あの女と会えば、なにかわかるような気がする」
 迷いつつも、真琴は言葉を紡ぐ。
「記憶を失ったあたしに、唯一残された道しるべ…そんな気がするの」



 朝の9時。

 佐祐理さんに電話をかけた後、俺たちは家を出た。

 青く澄んだ空がまぶしい。
 相変わらず、かなりの冷え込みだったけれど、この天気なら雪は大丈夫そうだ。

 真琴を真ん中に、その右に俺、左に天野が並んで、歩いていく。

 1年前…真琴との別れの日、さんにんでこの道を歩いたっけな…。

 そんな思い出話を口に出そうとして、声が出ないことに気づく。
 喉が張りついたように、思い出を言葉にすることをなにかが拒んだ。

 …さっきから、胃がキリキリと痛む。

 不安にさいなまれ、心臓の動きが激しい。
 その音を自分で意識するくらいに、胸の内が騒いでいた。

「相沢さん…」
 真琴との話を終えた後、天野が俺に話しかけてきたけれど。

 俺は、その天野を拒んだ。
 天野を拒んで、漫画に見入る真琴を、ただ見つめ続けていた。

 9時になるまで、そんな状態がずっと続いた。

 さんにんで道を歩きながら、俺は思わずにいられなかった。

 …天野を呼ぶんじゃなかった。

 それが、ただの逃げでしかないとわかっているのに。
 俺は、うなされるように悶々と、天野を恨んだ。

『よかった。ほんとうによかった…』
 昨夜、真琴を見た天野の微笑みを思い出し、ちくりと胸が痛む。

 …わかっている。
 わかっているんだ。

 天野は、全然悪くない…。

 俺はただ、胸のうちに浮かんだ不吉な答えを拒み。
 それが提示されることから逃げ続け、思考をそらしているだけだった。



 佐祐理さんのマンションに着いてチャイムを鳴らすと、即座に佐祐理さんが迎え出てくれた。

「おはようございます」
 にっこり微笑む佐祐理さんを前に、真琴は慌てた様子で、俺たちの背後に隠れた。

「…やっぱり間違いない。あたし、この女、知ってる」

 真琴の怖々とした様子に、佐祐理さんはちょっと困ったような表情を見せる。

「さ、とにかく上がってください。外は寒いですからね」

 佐祐理さんが居間に案内してくれる。

 そこには、当たり前のように舞がいた。
 コタツの中に深々と入って、背を丸めてくつろいでいる。

「よぉ」
 俺が挨拶すると、舞はみかんをモクモク咀嚼しながらうなずいた。

 佐祐理さんが人数分のお茶をいれてくれた後、全員がコタツの中に入る。

「それでは、まずは自己紹介といきましょうか」
 佐祐理さんは、真琴の睨みつけるような視線を受けながらも、にこやかに提案してきた。
「倉田佐祐理です。隣にいる舞と、祐一さんの友だちです」
 そう言って、佐祐理さんは隣の舞にふる。

「…川澄舞。佐祐理と同じ」
 舞はポツリと言った後、新しいみかんに手をのばす。

「天野美汐といいます。相沢さんとこの子とは、友人です」
 天野は控え目な微笑みを見せた後、隣に座る真琴をうながした。

「えっと…。さわたり…まことって名前みたい、です」
 おずおずと喋る真琴を前に、佐祐理さんと舞が顔を見合わせる。

「俺は相沢祐一。…って、皆知ってるか。
こいつ…真琴な、記憶喪失なんだ」
「記憶がないんですか?」
「2日前に目覚めたとき、自分のこともなにもかも、忘れていたって言うんだ」

「ふぇ〜…」
 佐祐理さんと舞の同情するような瞳を向けられ、真琴はぷうっと頬をふくらませる。

「でもね、ひとつだけ、覚えていることがあったのっ」
 真琴は声を大にして言う。
「あなたが憎いって…ね!」
 言いながら、佐祐理さんを指さす。

「は〜…。でも、佐祐理には全然心当たりがありませんが…」
「間違いないもんっ。きっとまことが…あたしが記憶を失ったのって、あんたのせいなんだわっ!」
「そうなんですか?」
「そうなのよっ、きっと、たぶん、ぜったいにっ」
 真琴は、のんびりした佐祐理さんに苛立ってか、コタツから立ち上がり地団駄を踏む。

「倉田さん…」
 天野が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…この子に、見覚えがありませんか? 数日前でも…数年前にでも」

 天野の言葉に、俺の頭の中が真っ赤に灼熱した。

「天野っ!」
 あらん限りの声で叫ぶ。

 皆の視線が集まる。

「…倉田さんは、動物を飼っていたようなことはありませんか?」
 俺の声を無視して、天野は言葉を続けた。

 …もう、限界だった。

「おまえっ…!」
 衝動にまかせて、天野の襟首をつかみあげる。
「天野、おまえっ!」

 歯を噛み締める。
 身体が震えるくらいに、強く噛み締める。
 頭の中で、なにかが切れそうになるほど、強く。

「…あいざわ…さん…」
 天野が訴えかけるように、襟首をつかむ俺の手に自分の両手を当てて来た。

 …天野の瞳を間近にのぞいて、突き上げるような衝動が一気に萎える。

 天野の瞳は、悲しみに濡れていた。

 脱力する俺の手を引き、天野が立ち上がる。

「すみません。ちょっとベランダをお借りします」
 天野はそう言って、俺の手を引き、居間からベランダのほうに俺を連れていった。

 ガラスの戸を開けて、俺と天野はベランダに出る。
 身を切るような寒い風が襲いかかってきた。

 戸を閉め、俺を正面から見据える。
 悲しみをたたえた目を向け、天野はおごそかに告げる。

「…あの子は、真琴ではないのかもしれません」

 俺が目を背けていた答えを。
 天野が、残酷に突きつけるのだった。


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