track 12……霧海



「…あの子は、真琴ではないのかもしれません」

 …寒い。
 なぜこんなにも、寒いのだろう…。

 ベランダに出た途端、凍てつく風が吹きつけてくる。

「なにを言っているんだ、天野、お前は…」
 身体がおこりにかかったように震える。
「どこをどう見たって、真琴じゃないか。顔も、身長も、声も…どこからどう見ても真琴じゃないか」
 俺は足掻く。

 …足掻く?
 そうだ、俺はどこかで、これを足掻きだと悟っていた。

「1年前…」
 天野は言いながら、視線を景色に向ける。
 このベランダは見晴らしがよく、ものみの丘をうかがうことができた。
「真琴を一目見て、私はすぐに気づきました。あの子と同じ、狐なのだと」

『あなたの…お知り合い…でしょうか』

「私に会いに来た子は、男の子でした。あの子が女の子だったら…あるいは姉妹がいたら、こんな姿になるんじゃないか。
真琴を見たとき、そう思ったんです」
「…人の姿をとるとき、真琴たちは似た姿になるって…そう言うのか」

「はい。あるいは、ほんとうに血縁なのではないでしょうか」
 天野は、部屋の中の「真琴」を窓ガラス越しに見つめる。

 少女は、佐祐理さんと舞を相手に、なにやら悪戯を仕掛けて怒られている様子だった。

「あの子は、真琴の姉妹かなにかかもしれません」
「……」

「それに…」
 天野は俺に視線を向けてきたが、いまの俺には受け止める気力がなくて。
 そのまま、ものみの丘に視線を逃がした。

「あの子たちが私と相沢さんの前に現れたときと、あまりにも状況が酷似しています。
あの子たちは記憶喪失で。たったひとつ残されていた思いが道しるべとなって、あの子たちが会いたい人間とを結びつける」
「あいつは…真琴にそっくりなあいつは、佐祐理さんに会いに来た…?」
「おそらく、間違いないでしょう」

「そうか…」
 吐き出した息が、風に乗って流れていく。
「…なんにせよ、俺に会いに戻ってきたわけでは、ないんだな」

「あの子を、倉田さんに預けませんか?」
 天野は、俺を諭すように言う。
「それが、あの子の望み…あるいは、それに近いものであると思えます」
「……」
「相沢さんが言いにくいようなら、私が倉田さんに頼みます。…よろしいですか?」

「…頼むよ、天野…」
 そう言葉にしながらも、俺の視線は、相変わらずものみの丘に向けられていた。

 しばらくの間、天野は俺の隣に立っていた。
 けど、俺は意地になって、天野のほうを見ないままでいた。

 やがて、天野はベランダから静かに出ていった。
 そうして、佐祐理さんたちになにか話を持ちかけている気配を、俺は背中で感じた。

 俺は全身で溜め息をつき、ベランダの手すりに両手を組んで乗せて、体重を預ける。
 服越しでも、手すりが身を刺すように冷たい。

「…ふ…ぅっ…」
 もう一度溜め息をつこうとして…失敗した。
「…ふっ…く…うぅ…」
 噛みしめた口の間から、嗚咽がもれる。

 …あんまりじゃないか…。

 視界が歪む。

 …真琴が、帰ってきてくれたと思ったのに。

 唇の震えが止まらない。

 …あんまりに酷すぎるじゃないか。

 組んだ腕に顔をうずめる。

 …お前は、なんで俺の前に現れたんだ。
 お前なんか、現れなければよかったのに。

 真琴だと信じていたあの少女を、俺は恨んだ。
 そして、彼女を待つ儚い運命を思って、哀れんだ。

 命を代償にして、かりそめの人の生を求めた少女の儚さを哀れんで。

 佐祐理さんに訪れようとしている、身を裂かれるような悲しい別れを哀れんで。

 そして…勘違いで舞い上がっていた、愚かな自分を哀れんで。

 俺はひとり、ベランダで泣き続けた。

 …また起こるのか。
 また生まれるのか、悲しい別れが…。

 また、同じことが繰り返されるのかもしれない。
 また、悲しい思いをつきつけられるのかもしれない。

 誰かが泣くかもしれない。
 悲しみに打ちひしがれ、心を閉ざすのかもしれない。

 …人を、拒むのかもしれない。

 また、あんな悲しい思いをすることになったら、俺は平常ではいられない。

 …イヤだ。

 あんな思いをするのは、もう、イヤだ…!



 …なんとか気持ちを静めてから、ベランダを後にする。

 踏み出した足が、鉛のように重い。
 踏みつけた地面から、そのままずぶずぶと沈み込んでしまいそうなくらいに。

 居間には、天野しかいなかった。

「みんなは?」
「まことが、お風呂場でなにか悪戯をしたみたいです」
 天野が静かに微笑み、奥のほうを見やる。

 そっちのほうで、なにやらギャーギャー騒ぐ声が聞こえた。

「…まこと?」
 天野が、あの少女を「まこと」と呼んだことに気づいた。

「はい」
 天野はいったん目を伏せて、それから目を上げ、俺のことをじっと見つめてくる。
「あの子は、まこと。私と相沢さんの友人です。
記憶を失ったキッカケであると思われる倉田さんに。この家で、しばらくお世話してもらうことになりました」
「そう…か」

「やーっ、もうっ! 痛いってばぁっ」
 やがて、舞に尻をはたかれながら、あの少女が居間に戻ってきた。

「どうしたんです?」
「…まことが、湯船にシャンプーをいれて泡だらけにした」
 そう答えて、舞は溜め息をつく。

 濡れた手を拭きながら、佐祐理さんも居間に戻ってきた。
「あれじゃあ、今夜はお風呂がつかえませんね」

「…泡のお風呂って気持ちよさそうなのに…って、あイタ。いちいちチョップしないでよっ」
「まことが悪いの」
「あう〜っ…」

 そんな少女に、天野がくすりと微笑んだ。
「まったく、子供なんだから…」
「なによぅ、子供扱いしないでよねっ」

 …天野は。
 天野はどうして、そんなにも平静に接することができるんだ?

 俺には無理だ。

 真琴とは違う、もうひとりの「まこと」。
 真琴と同じ顔、同じ表情、同じ仕草。

 その幼さ。
 いつも真剣で、だけど空回りしてしまう滑稽なところ。

 それを、堪らなく愛おしいと感じた、あの頃を思い出す。

 …真琴を失った悲しみを、もう癒せたと思っていた。
 でも、癒し切れてなどいなかったんだ。

 薄いカサブタが張って、傷跡を隠していただけだった。
 悲しみが溢れるのを、抑えていただけだったんだ。

 そのカサブタを、真琴と同じ姿、同じ宿命を背負った「まこと」が、強引に引き剥がしてしまった…。

 …もう限界だった。
 目の前で繰り広げられる明るい会話に耐えきれず、それに背を向ける。

「帰る」
 それだけを告げ、俺はそこから逃げ出した。

「祐一さん?」
「相沢さんっ…!」

 腕を誰かにつかまれた。

 おそらく天野だろう。
 俺は、力づくでそれを振り払った。

 全力で走り出す。
 一刻も早く、この場から逃げ出したかった。

 …ひとりになりたい。
 そうして、なにも考えずに、ぼうっとしていたい。

 外の冷たい風を全身で切り開きながら、俺はがむしゃらに歩を進める。

 どこに行こうか…。

 ものみの丘に行きたいと思ったけれど、あそこに居ると、天野が来てしまうような気がした。

 天野が追ってくる。
 そんな思いが、俺を不安にさせる。

 天野…。

 お前はどうして、平気なんだ。
 なぜ、あの「まこと」と、普通に接することができるんだ?

 お前にとって、真琴と同じ姿の「まこと」と接することは、苦痛ではないのか。

 それほど、真琴のことを好きでいてはくれなかったのか。
 俺はこんなにも苦しいのに、どうしてお前は平気なんだ…。

 信じられなかった。
 天野に、裏切られたと思った。

 天野とは、どこか深い所で繋がっていると感じていたのに。
 …そんなもの、俺の思い込みでしかなかったんだな。

 結局俺は、家に逃げ込んだ。

 秋子さんや名雪が旅行に出掛けていて、ほんとによかった。
 もしもふたりが居たら、真琴が真琴でないことを知って、どんな苦痛を味わうことになっただろうか。

 感情の起伏が少ない天野と違って、あのふたりなら、俺と同じ悲しみを抱いてしまうはずだ。

 俺は自分の部屋に閉じこもり、布団を頭からかぶった。
 そうして、まるで胎児のように身体を丸め、じっとする。

 出口のない迷路をさまようように、じくじくと物思いに耽る。

 階下から、チャイムが聞こえてきた。
 時間をおいて、何度も、何度も。

 …天野だ。
 そう思った。

 目をふさぎ耳をふさぎ、俺はひとり、暗闇の中をさまよう。

 女々しいヤツ。

 …そう、自分を責めてみる。
 しかし、なんの感情も浮かばなかった。

 いまの俺が、誰かに似ていると思った。

 昔の天野と…。
 そして、一月しか一緒にいられなかった、クラスメートの大人びた少女に。

 苦しみに満ちた思考の中を漂ううちに、こんな自分が愛おしく思えるようになった。

 失った真琴を愛し続け、打ちひしがれている自分が。
 それだけ、真琴を愛していたという証明になるのだと…。



 気づいたときには、日付が変わっていた。

 明るい光が、部屋に差し込んでいる。
 ベッドから上半身を起こしてみたものの、なにもやる気が起きず、結局、そのまま横になる。

 階下からチャイムが聞こえてきた。
 何度目だろうか。

 まどろみの中にいる間にも、幾度か聞こえたような気がする。

 それを無視することに、もうなんの感情も抱かなかった。



 物音で目が覚める。
 階下で、ひとの話し声が聞こえる。

 そうか…。
 秋子さんと名雪が、旅行から帰ってきたんだ。

 階段をのぼってくる足音が近づいてきたので、俺は寝入っているフリをする。

「祐一…?」
 ノックの後、いとこの明るい声が入り込んできた。

「…寝てるの?」
「……」

 やがて、つまらなさそうな溜め息が聞こえた後、いとこの気配が去っていった。

 …いつまでも、寝たフリをし続けることはできない。

 いっそ、どこかに行こうか。

 そうだ…あの少女が消えるまで、この街を離れているのもいいかもしれない。

 真琴に似た少女と佐祐理さんの笑顔が脳裏をかすめ、胸がチクリと痛んだ。



 …天野の声を聞いたような気がした。
 意識を掻き集め、階下の様子を探る。

 やはり、天野だった。

 この家に何度も遊びに来ていたので、秋子さんや名雪が招き入れたのだろう。

 天野は、あの少女のことをふたりに話すだろうか。

 …天野なら、俺の許可なくそんなことはしない…と。
 俺はどこかで、わかっていた。

 ほどなくして、誰かが2階に上がってくる足音が聞こえてきた。
 聞き慣れた、秋子さんや名雪とは違う足音だ。

 その足音は、俺の部屋の前に来て止まる。
 ついで、ドアを静かにノックする音。

「…相沢さん」
「ほうっておいてくれ」

 天野に応えた声が、自分のものだと自覚するのに、数瞬の間が必要だった。

 乾いてしわがれた声。
 そういえば、喉が張りつくくらいに乾ききっていた。

「……」

 俺の部屋のドアには、鍵は無い。

 しかし、天野はドアを開けて部屋に踏み入ってくるようなことはせず。
 ドアの向こうから、静かに話し掛けてきた。

「それはできません」

 俺のほうから、ドアを開けるのを待っているような。
 そんな、天野の優しさ。

「…どうして?」

 なんとか声を絞り出した俺に、天野は突然、こんな言葉を返してきた。

「私は後悔しています」
「……」
「1年前…。真琴に、どうしてもっと早く接してあげなかったのかと」

『これ以上、私を巻き込まないでください』

「いまの相沢さんと同じです。
また同じ苦しみ、切なさ。悲しい別れをしなければならないことに、心が壊れそうになって。
そしてそれを避けるために、逃げていたんです」
「……」
「でも。…いま現れたまことと接しなければ、相沢さんは、後々まで悔いを残すことになります。
あるいはそれは、先の真琴の時よりも酷く傷つくことになるかもしれません」

 天野の言葉ひとつひとつが、逃げようとする俺の心に突き刺さってくる。
 それは、天野自身が、いまの俺と同じような経験をしていたから。

「なにも出来なかったことを後になって悔やむのは、とても辛いことです。
…相沢さんが、また、私と同じ気持ちを抱いてしまうかもしれないから。
それだけは避けなければならないから」

 天野の言葉が、染み入るように俺の心に広がっていく。

 …わかっている。
 わかっているんだ。

「私は会います。あの子に…まことに。毎日でも、会いに行きます。
あの子の奇跡が終わる、その時まで。
まことの望みをかなえてあげるために、少しでも力になってあげたい」

 …天野は、こんなにも強かっただろうか。

「相沢さん。私と、同じ後悔はしないでください」
 そう言い残して、天野の足音が遠ざかっていった。

 てっきり、天野よりも俺のほうが強くて。
 支えになっているつもりでいたのに。

 いつの間にかに、俺のほうが支えられていることに気づいた。

 …天野。
 お前はどうやって、そんなに強くなれたんだ。

 俺もいつかは、お前のようになれるのだろうか。

「…くっ」
 力を振り絞って、身体を起こす。

 辛い。痛い。切ない。悲しい。
 …でも、それから逃げ続けていては、なにもはじまらない。

 呼吸を忘れそうなほどの迷い、逡巡、思考。
 それを無理矢理押しやって、俺はベッドから立ち上がった。

『…相沢さんは、どうか強くあってくださいね』

 俺は、天野と約束したんだ。

 1年前、夕焼けに彩られた駅前で。
 涙を流さずに泣いていた天野を、身近に感じられた、あの時に。

 急いで玄関に向かう。
 そこには、家を出ようとする天野と、それを見送りに来た秋子さんと名雪の姿があった。

「天野、俺も行く。一緒に行こう」
「…はいっ」
 天野の微笑み。

 いままでで俺が見た中で、いちばん朗らかな微笑みだった。


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