♪ Page1 Lament




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 ……まりや、あるいは紫苑さんに相談すべきかと数秒迷った。
 まりやは学院長と緋紗子先生に相談しに行ったみたいだし、紫苑さんはおそらく教室に居ると思う。とはいえ、その場所に行ってみて目的の人が居なかったら、無駄に時間を使ってしまうことになる。朝のホームルームまであと20分といったところだ。
 結局僕は、ひとりで屋上目指して走りはじめた。走ると云っても、全力で走るわけにはいかない。ぎりぎり歩いている、と云えないこともないぐらいの速度で。
 下駄箱の中に手紙を入れることが出来るような人物ならば、まず間違いなくこの学院の関係者だろう。外部犯が、わざわざ危険を冒して再度忍び込むとは思えない。
 そして手紙には、例の件のことを訊きたい、と書いてあった。それはすなわち、まだ誰にも云っていない、ということではないだろうか。少なくとも、マスコミなどには。しかし同時に、その返答しだいではどう転ぶかわからない。
 僕は、これから屋上で起こるであろうことに気をとられていた。
 ……だから、そこの角を曲がって階段をひとつ登れば屋上に着く、という場所で、角の向こうからやってきた女生徒と勢いよく衝突してしまった。
「ぅわっ……!」
「きゃっ……!」
 曲がり角の影に居た女生徒は、細身だった。そして僕のほうが勢いがついていて、体重も力もあったから、思いっきりその女の子を跳ね飛ばしてしまう形になった。僕は後ろに数歩よろめくだけで済んだけれど、彼女は派手に転び、そのままの格好で床を滑ってしまう。
「ご、ごめんっ!」
「い、いえ……大丈夫、です……」
 その子は眼をつぶって痛そうにお尻をさすりながらも、大丈夫、と口にする。
「私の不注意でした。痛い思いをさせて、申し訳ありません」
 謝罪しながら、立ち上がろうとする女生徒に手を貸す。本当に細い女の子だった。いまの僕と同じように三つ編みをしているのが眼を引く。いや、三つ編みよりも複雑で、これは多分編み込みというのだろうか。編んだ髪の中に細い布が混じっていて、女の子らしい装いをしていた。
「ほんとうに大丈夫ですから。わたしも前を見ていなかったし、ですからそんなに謝らないで……くだ、さ……い……」
 立ち上がるのを手伝い、その女生徒と近い距離で正面から向き合う。そうして僕の顔をまともに見た途端、その女の子の目が驚きに見開かれる。ついで、その頬を見る間に赤く染めていった。
「え……あ……そんな……お姉、さま……?」
「はい、えと、あの……3年A組、宮小路瑞穂、です」
 そんな風に自己紹介してしまう自分を可笑しく思いながら、女生徒が転んだときに取り落としたらしい白くて大きな紙袋を拾いあげて手渡す。
「もしもいまのことで怪我をしていたり、その手荷物の中身がダメになってしまったりしていたら、私のほうまで必ず連絡をくださいね」
 僕の言葉に、その女の子は可笑しいぐらい真っ赤になって、コクコクと頷く。
「それでは、いまはとても急いでいるので……ごめんなさい」
「は、はい……」
 ポーッとした感じに頬を染めて棒立ちになっている女生徒を残し、僕は屋上への階段を登っていった。



 ガチャン、という重々しい音を立てて、屋上への扉は開いた。
 屋上に出た僕の正面に朝日があり、その穏やかで暖かい光に包まれ、しばらく眼をしばたたく。屋上から爽やかな風が校舎の中へと流れ込んでいった。その風を受けて、前髪や制服がゆるやかにはためく。
「……?」
 屋上はコンクリートが打ちっぱなしになっている飾り気の無いところだ。ある意味、最もこの学校らしくない無機的な光景。
 その屋上の端を囲む、それほど高くない鉄の欄干。その欄干に手を掛け、僕に後ろ姿を見せている女生徒が居た。
「……そ、そんな……どうして……」
 その後ろ姿を、見間違えるはずなど無かった。
 僕と同じぐらいの背丈で。膝まで届こうかというほどに長く、艶やかな黒髪。風に乗ってやってくる彼女の匂いは、控え目な花を思わせる心地よい香り。振り返ればきっと、いつものように優しく微笑んでくれるはずだった。
 クラスが別なので一緒にいられないまりやと違って、同じクラス、隣の席に座っている彼女は、僕を何度となく助けてくれた。僕を男だと見抜いたというのに、それを受け入れ、微笑みながら友達になって欲しい、と云ってくれた彼女。僕が女性らしさを装う際、常に意識し、参考にしてきた彼女が。
 ……十条紫苑が、そこに居た。
「紫苑さん、どうして……ここに……」
 振り返っておはよう、と云って欲しかった。ここに居たのは偶然で、屋上に涼みにやってきただけだと、そう口にして欲しかった。またあの微笑みを僕に向けて、優しい声音を聞かせて欲しかった。
 紫苑さんは僕の言葉を耳にして、気怠そうに振り返った。朝日を背にしているのでその表情がよく見えないけれど、僕のことを見つめたまま黙っている。
「違いますよね、紫苑さん……? 紫苑さんはただ、ここに涼みに来ただけで……」
「お待ちしていましたわ、瑞穂さん」
「そんなっ! それじゃあ、紫苑さんがあんなことを……?」
「もちろんですわ。すべては、この私が計画し、仕組んだこと」
 僕の願望は裏切られ、紫苑さんの口から肯定の言葉が無慈悲に紡がれた。
 紫苑さんは僕の視線から逃れようとでもするかのように、ついっと僕に背を向け、屋上から見える外の景色に目をやった。
「私、ここから見える景色が大好きでした。ここからは、この学園の多くを見ることが出来ます。校舎に入り、または出て行く生徒たち。校舎の影や、木々の合間で遊ぶ生徒たち。校庭で部活動に励む生徒たち。その顔の多くに、私が持ち得なかった希望を抱き、裏表なく腹の底から笑みを浮かべている。私が求め、ついぞ届かなかった健康というものを、当たり前のように享受し貪っている愚かな者たちの姿が。それを眺め、観察できるこの場所が、私はとても気に入っていたのですわ」
「……嘘だ……嘘ですよね、紫苑さん……?」
「そうですわね、嘘と云えば、すべてが嘘だったのですわ。私があなたに求めていたものも、あなたに紡いだ優しい言葉たちも。……そして、あなたに向けていた微笑みも。すべてが、偽りだったのです」
 紫苑さんは、ゆっくりと振り返る。影になってよく見えないけれど、彼女は、まるで仮面をつけているかのように冷たい微笑を浮かべていた。それを見て僕の背筋は震え、よろよろとその場に膝をついた。
「どうして……どうして、こんな、ことを……」
「この偽りに満ちた世界を、明るく華やかさを装っている学園を、甘い夢に浸っている愚か者どもを……それらすべてを壊したかった。無慈悲に踏みにじり、二度と元に戻らないほどに叩き壊してしまいたかった」
 彼女の声はとても冷たく、それでいて熱い感情を抑え、内に秘めたような不思議な旋律を帯びている。それは初めて耳にする声音で、僕の知っている紫苑さんの優しいそれとは、まるきり違う。
「ですけど、機会がありませんでした。この学園を壊すほどに大きな仕掛けが」
 そう云った後、紫苑さんは以前と同じように、暖かい微笑みを浮かべた。それはとても嬉しそうで、見ているこちらまで微笑みたくなるような、そんな微笑。しかしそれは、その次に紡ぐ言葉が僕にどれほどの影響を与えるか計算し尽くしたものであり。とてもとても優しい微笑みを、だから僕に。
「……そこに、あなたが転校してきたのですわ。私、驚喜しました。これこそがすべてを破壊する引き金になるのだと」
「それじゃあ、僕の正体を知ってバラさなかったのは……」
「ただ、時期を待っていただけ」
「体育などの授業で、僕を助けてくれたのは……」
「まだバレてしまうわけにはいきませんでしたから」
「僕がエルダーになることに協力してくれたのは……」
「ただの生徒であるより、全生徒たちの代表に選ばれた者のほうが効果的だから」
「そんなっ……そんなぁっ……!!」
 崩れかける身体を、両手をついて必死に抑える。その両腕はぶるぶると震え、いまにも力尽きて折れてしまいそうだった。
「……もう少し時間を掛け、あなたの声望を高めてからやるべきなのでしょうが……。そろそろ私は、限界のようでしたから」
 彼女の震える声を背中で聞いて、顔をあげる。ちょうど彼女が生み出す長い影の中に僕自身が収まっていて、朝日に邪魔されることなく、彼女の顔を正面から見ることが出来た。
 ……紫苑さんの顔は苦しそうに……泣きそうな感じに歪められていた。
「もう、限界なのですわ。これ以上あなたと一緒に居たら、私……私……」
 うう、とうめき声を漏らして、紫苑さんは自分の顔を両手で覆う。その肩は小刻みに震え……。
「……紫苑さん……」
「眼を閉じても、あなたの一挙一動がまぶたに浮かぶ。一緒に居れば居るほど、あなたに情が移り、愛おしくなってしまう。時が経つほどに決意が鈍る。いまここでやらなければ……いまこそが頃合い、なのですわ……」
 苦しそうに喘ぐ紫苑さんを見て、僕の心は静かに落ち着いていった。そうして僕は決意し、立ち上がった。
「紫苑さん、そんなに無理をしないでください」
「瑞穂さん……?」
「そんなに苦しむ必要なんてないんですよ。すべては……紫苑さんのなさりたいように。元々、僕がやってきたことなんて誰かに責められてしかるべきことなのですから。だから……だから、そんなに苦しまないでください……」
「………」
「僕も紫苑さんのことが好きです。男女のそれなのかどうかは、まだわからないけど。ただはっきりと云えます。あなたのことがとても好きで、大切な人だと。だから……だからあなたが苦しむのを見ているのは、辛い」
「瑞穂さん……」
「紫苑さんほどの人がこれほど辛い決意をするのでしょうから、なにかとても、にわかに口にはできない原因があるのでしょうね。いちばんいいのは、そう紫苑さんを決意させた原因を取り除き、救い、癒してあげることが出来ればいいのだけれど。出来れば最後に……口にして良いものなら、紫苑さんがどうしてこのようなことをしたのかを……」
「……ダメです。ダメ、なんですわ……」
 紫苑さんはかぶりを振って、よろよろと後退し、屋上の欄干にぶつかる。
「誰も、私を救うことなんて出来ようはずがありません!」
「紫苑さんっ……」
 けれど僕は一歩もひかず、その場に立ったまま、手を握り歯を噛みしめ、紫苑さんを見据える。そんな僕を見て、紫苑さんの瞳が大きく見開かれた。
 そうしてしばらく見つめ合っていると、ついっと紫苑さんの視線が逃げるように逸れた。
「……そう、もうひとつ……あったんですわ」
「もうひとつ?」
「すべてを終わらせる方法が。なによりも簡単で、ひとりしか苦しまずに済ませる方法が」
 紫苑さんの言葉で、鳥肌が走る。
 手すりに当てられた紫苑さんの手に力が篭もるのを見て取り、僕は……。
「ダメだっ……!!」
 紫苑さんが欄干を乗り越え、屋上から飛び降りる姿を脳裏に描き……。僕は全力で紫苑さんに駆け寄り、抱きつき、力づくで彼女を欄干から引き剥がした。
 小さく悲鳴をあげる彼女を床に組み伏せ、口づけ出来るほどに顔を寄せ合い、その瞳を睨みつける。
「紫苑さんは莫迦だ……! ひとりしか苦しまないなんてそんなことあるもんか! 僕だって死にそうなほど悲しいし、学校のみんなだってきっと泣くに決まってる……!!」
「………」
「あなたがそんなに苦しいのなら、それを僕が全部飲み込んでやる! だからっ……!」
 続いて言葉を紡ごうとする僕の唇に。
 紫苑さんの細い人差し指が、当てられた。
「え……?」
「いま、予鈴が鳴りましたわ」
「え……えっ……?」
 云われて気づく。耳に馴染んだ鐘の音が。
 なんのことかと混乱する僕を押しのけもせず、するりと避けて紫苑さんは立ち上がった。そうして、いつもどおりの優雅な仕草で、制服に付いた埃を払う。
「ふふふ、楽しかったですわ、瑞穂さん」
「楽しいって……?」
「あら……? 昨夜やっていた映画の、ごっこ遊びではなかったのですか?」
「映画……? ごっこ、遊び……?」
 ぽかーんと口を開き、頭上にある紫苑さんの顔を見つめる。そんな僕に、紫苑さんは怪訝そうに眉をひそめ、手を頬に当てる。
「私、まりやさんに見て欲しいって云われていたので、昨夜のテレビを見たのですけれど」
「まりや……? テレビ……?」
「あら、瑞穂さんは見ませんでした? 昨夜やっていた、女子校潜入ラブロマンス」
「女子校……? 潜入っ〜!?」
「なんだか瑞穂さんの境遇にそっくりで、見ていてハラハラしてしまいましたわ。特に屋上でのヒロインとのシーンに、私、涙がこぼれそうになってしまいました」
「じゃ、じゃあ、さっきのことは……?」
「とても素晴らしいハイライトシーンでしたわね。ちょっとアドリブがきいていましたが、瑞穂さん、とても素敵でしたわ」
 語尾にハートマークでもつきそうな勢いで、紫苑さんは嬉しそうに微笑んだ。



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