「うわっ……。すごい人数ですねえ」
 コンテスト会場となる体育館の熱気に、上岡由佳里は圧倒された。

「テスト休み中だっつーのに、なんて人数なんだか……」
 同じく、まりやが感嘆の……というか呆れた声をあげた。

「卒業するお姉さま方と最後のお祭り騒ぎが出来るのですから、奏もきっと来たと思いますですよ〜」
 去年の学院祭では今より多くの人数から視線を集めても演技を続けられた奏は、あまり驚いていない様子だった。

 恵泉女学院は、生徒数だけでも七百半ばになる。
 生徒全員が入ることは無理だろうけれど、体育館はかなりの広さを持っていた。
 その体育館に、二百……三百近い女生徒たちが、三々五々に散らばりつつ会話をして、その賑やかさたるや、いままでに類を見ないほどだった。
 体育館に百人以上が集まる際は学院主体のイベントであることが多く、生徒たちは基本的に私語を慎みがちになる。
 しかし今回のイベントはいわば一教師と新生徒会による親善イベントであり、憂鬱な期末テストを終えて間もないテスト休みということもあって、参加する生徒たちの口は滑らかだった。

「私は生徒会の皆さんとお話もあるので、先に舞台入りしておきますね」
 一緒に来ていた瑞穂はそう云った後、由佳里に対して軽くウィンクしてきた。
「それじゃみんな、頑張ってね」

 優雅に立ち去っていく瑞穂。
 その瑞穂に気づいて、いろいろな所から「お姉さま」と歓声があがる。
 なので、いまどこに瑞穂が居るのか、人混みに紛れても丸わかりだった。

(って、どうして私にウィンクなんだろう……?)
 ふと気づいて小首を傾げる由佳里。
 ……すぐ横で、ニヤリと笑うまりやの顔に気づかない。

「さぁて、じゃあ私たちも舞台横の出場者控え室に行きますかねえ」
「「は〜い」」
 男装コンテスト出場を公言していたまりやの衣装兼メイク手伝いとして、由佳里と奏も控え室に出向くことになっていた。

 体育館の壁際を歩いて、三人は出場者控え室へと向かった。
 体育館には多数の女生徒たちがひしめいていたが、壁際は、運営委員や関係者、あるいは急ぎの者が通れるように空けられている。
 恵泉の女生徒たちはいくら私語に花を咲かせていても、幼少の頃から教え込まれている節度は守っていて、三人は壁際を通って速やかに移動することが出来た。
 ちょうど壁に案内図も書かれていて、控え室がどこにあるのか明記されているのも移動を助けてくれていた。

「むむ、あれは……出場者?」
 前を歩いていたまりやが、出場者控え室の入り口が見えた頃、足を止めた。

 まりやの視線の先に、学ランを着た女生徒が忙しそうに小走りで歩いていた。
 恵泉の制服のうえに学ランを羽織っただけなので、男装とは云いがたい。
 頭に被った学帽から流れる長いウェーブヘアーや、羽織っただけの学ランの裾と、その裾から静かにはためく恵泉の黒いスカートがなんだかフワフワとした印象を持たせて見る者の目を和ませる。
 その女生徒は手にトランシーバーを持って会話をしているようだった。

「……先ほど確認したところ、現在のイベント参加者は二百八十名越えです。入場も疎らになって来ているので、おそらく四百で収まるのではないかと思われます。どうぞ」
『よ、よんひゃくって……。来週の卒業式並に集まるってわけ!? ……ど、どうぞ』
「用意していた椅子も足りなくなって来ています。葉子さんから放送で呼びかけて、参加者に自主的にパイプ椅子を出してもらってはどうでしょうか。どうぞ」
『椅子と放送の件、了解。君枝さんは、そのまま出場者控え室を出入りして説明と案内役をよろしくです。こちらからは以上』
「控え室の件、了解。こちらも終了です」

「四百人って……こりゃまた、すごい人数ね」
「先ほど受け付けでもらったプリントに書いてありましたが、男子用学生服の上着だけを着て学生帽をかぶっている方は運営委員らしいのですよ〜」
「ってことは、あのフワフワした子は生徒会メンバーってわけ? あんな綺麗な子いたっけか……」
「あの黒縁眼鏡には見覚えがある気がします。会長さんと一緒に歩いているのをよくお見かけしたことがありますですよ」
「あーっ、あの眼鏡ちゃんか。なんかこう、貴子の引き立て役みたいな地味ぃな子」

 酷い云いようだった。

「貴子の腹心で、どこ行っても貴子についてるような子であんま印象なかったけど。髪の毛をほどいてちょっと男装しただけでも、あんな風に変わるわけね。ふうむ……」
 まりやは考え深げに顎に手をやる。
「……なるほど、男装っていったって、男になりきる必要はないわけよね。貴子や紫苑さまがこの線で来たら、結構やばいかもしんないわ〜……」

「あ、出場者の方ですね?」
 そうしているうちに、その女生徒……菅原君枝はこちらに気づいて歩み寄ってきた。

「ええ、そうですわ。出場者の御門まりやと……上岡由佳里と……そこの周防院奏が付き添い人ですわ」
 まりやは外向けのお嬢さまモードで、君枝に答えた。
 ……由佳里は、いまのまりやの言葉になんとなく違和感を覚えたが、それがなんなのかまではわからない。

「はい、承っております。これで出場者全員が揃いましたので、ご一緒に控え室まで参りましょう」
「あら、ちょっと遅く来すぎたかしら?」
「いいえ、集合時間まであと十分以上余裕があります。ただちょっと、参加者の人数が多くてイベントが延びがちになりそうなので、早めに説明の詳細をさせてください」

 そう云って君枝は軽く一礼した後、先に立って歩いていく。
 下腹部のあたりで軽く掌を組み、背筋を伸ばして軽やかに歩いていく姿は、確かに由佳里にも見覚えがあった。
 しかし、髪型を変えて軽く男装をしただけで、ああも印象が変わるものなのだろうか。

 由佳里のそんな考えを裏付けるように、君枝が去っていった先で「まあ、素敵な方ね」「あの方はどなたかしら?」といった囁き声が生まれていた。



「……皆さん、お待たせしました。出場者のかたが全員揃いましたので、コンテストの詳細を説明させていただきます」

 体育館の最奥に舞台があり、その向かって右側に出場者控え室が設けられていた。
 扉を開けて控え室に入ると、狭い部屋の中で三十名近い女生徒たちが、椅子に座りながら和やかに談笑していた。
 ……とはいえ、出場者と云うのなら全員が敵同士となるわけだが、一見した限りではそのようなギスギスした空気は感じられない。
 今のところ、ただイベントを楽しむ、という雰囲気が強いようだった。

 ……ただ一角。
 例外があるとするなら、厳島貴子と小鳥遊圭のふたりが「おーっほっほ」と意味ありげに笑いあっていて、なにやら密やかな前哨戦が繰り広げていた様がうかがえた。

 まりやに連れられ、由佳里と奏は、控え室の隅のほうに居た十条紫苑の傍に座る。
 そうして四人は軽く会釈しつつ挨拶を交わした。

「出場者の方は全員で二十二名になりました。その付添人として参加している方は、ここに七名いらっしゃいます。それでですね……」
 説明を続けようとする君枝だったが、控え室のあちこちで、「ところであの方はどなた?」「新生徒会メンバーのようだけれど……」とか疑問の声があがる。
 それには気づかず、用紙を見ながら、君枝は頑張って説明を読みあげていく。
「イベント参加者の皆さんに、出場者二十二名からひとりだけを選んで投票していただくのは難しいと思いますので、これから予選を行い、上位五名に絞って決勝を行うという方法に急遽変更させていただきました」

「……あの」
 出場者らしい、ボーイッシュな感じの背の高い女生徒が挙手して発言を求めた。
「あ、はい。奈美さん、質問ですか? どうぞ」
「えっ……あの、ごめんなさい。新生徒会のかたのようですが、お名前をうかがってもよろしいでしょうか」
 自分の名前は知られているのに相手の名前を知らない、ということにおずおず、といった感じでその女生徒は質問をした。

「ええっ……わ、私ですよ奈美さん、クラスメイトの君枝です」
「「ええーーっ……!!」」
 質問した女生徒のみならず、控え室のあちこちで驚きの声があがった。
 中には、座っていた席から思わず腰を浮かす者もいる。
 そんな皆の様子に、君枝自身も慌てているようだった。

「君枝さん、素敵っ」
「髪型変えて変わった上着を羽織るだけでこうも変わるとは……」
「化けたわね君枝ちゃん」
「君枝お姉さまは、元が良いからですわ〜」
「眼鏡も取っちゃえばいいのにー」
 とかほうぼうで声があがり、それら全てが自分に向けられているのを悟り、君枝はあっという間に真っ赤に茹であがっていった。

 ……ただひとり、生徒会長である厳島貴子が我が事のように誇らしげにしているのが、由佳里の印象に残った。

「……えっと、奈美さん、質問は以上でよろしいですか?」
「う、うん……」
「ええと、それでは説明を続けさせていただきます。み、皆さん、ご静粛に……」

 先ほどの件があるまではキリッと説明していた君枝だが、いまはしどろもどろ、という感じで説明していく。
 生徒会の活動で、舞台にのぼって生徒からの視線を集めることには馴れているようだったけれど、それが自分自身のことで注目を集めるとなると違うようだ。
 そのギャップが、君枝のことを知っている生徒たちには微笑ましく映るのだった。

 ……君枝の説明を要約すると、コンテスト出場者は予想以上に多かったので、投票者が一名を選ぶのは難しいだろうと判断し、これから予選をすることになったのだそうだ。

 男子学生用の黒い学生服に着替えた後、舞台の上を一周して、最後に舞台の中央にあるマイクで自分のエントリーナンバーと名前を云い、それとなにか一言だけ簡単に口にしてから退場する、というものだった。
 それを二十二名分こなした後、会場にいる参加者全員に気に入った五名へ投票してもらい、集計して上位五名を選び出し決勝を行うというものだった。
 投票は、生徒総会で複数からの選択が求められる際、またはエルダー選出が一度で決まらない時に行われる決選投票などでも使われているマークシート方式で、読み取り機によって短時間で結果を見ることが出来る。

 決勝自体は当初の告知で説明があった通り、予選と同じく男装し、舞台上にいるお姉さまこと宮小路瑞穂と一対一で向かい合って「告白の演技」をする、というものだった。
 この決勝の演技には四分の制限時間があるらしい。

「予選の出場順は、私たち新生徒会メンバーが抽選でもってランダムで決定させていただきました。男装用の学ランは人数分ありませんので、予選が終わった方はすぐに脱衣していただき、着回して使っていただくことになります」

「……これは、早く出場したほうが有利になるわね」
 まりやがポツリと呟き、由佳里と、近くにいた奏と紫苑も頷いた。

 予選では、参加者は五名に投票できるという話だったけれど、持ち点が少なくなれば少なくなるほど評価は辛くなりやすい。
 特に最後の一、二票となると、つぎにもっと良い出場者が現れるかも知れないと思って、なかなか投票しにくくなる。
 マークシートの外側や裏にメモ書きしつつ最後に五名を決めればいいものだけれど、ごく普通の女生徒たちにはそのようなことを真面目にやることも少なく、いきなりマークシートに線を入れていく者も多いだろう。
 消しゴムで消すということも出来るけれど、マークシートというものは一度引いた線を消すことに抵抗を覚えがちだ。

「生徒会のほうでも、予選全員を見た後に五名を選んで欲しいと放送しますが、どうしても早い出場の方が有利になりがちです。厳正なる抽選を持って順番を決めさせていただきましたので、その点はご了承ください」

「予選が終わった後に投票、となれば後のほうの出場者が印象に残りやすくもなりますが……難しいところですわね」
 君枝の説明を聞きつつ、紫苑が考え深げに言葉を漏らした。

「四、五人ずつで一組として、着替え始めていただきます。名前を読み上げていきますので、呼ばれたかたは速やかに男装への着替えをお願いいたします。一組目は……」

 君枝が呼び上げた名前を聞き取り、出場者の間にざわめきが生まれた。

「……三年の十条さま。二年の三宮さん。同じく二年の森さん。三年の佐藤さま。この順で出場していただきますので、学ランへの着替えをよろしくお願いします」

「むむむ、よりによって紫苑さまが一番手か……これは荒れるわね」
 まりやが唸る。
 それに対して、由佳里は考えながら頷いた。
「私もきっと、最初に紫苑さまを見てしまったら、迷わず投票用紙に線を入れてしまいますね。そうして紫苑さまが基準となるなら、なかなか後の方に線を入れにくくなるかも……」
「のり子も災難ね。紫苑さまの次だなんて……」

 二年の三宮のり子は、まりやと由佳里と同じく陸上部に所属している女生徒だった。
 健康的に日焼けした肌とポニーテールが印象的な女の子で男装が似合いそうなタイプだったけれど、ふと見ればすでにあきらめモードでため息をついていた。

「私がいちばんだなんて……年功序列みたいで、なにか嫌ですわね」
 紫苑は微笑みながらポツリと漏らした後、そう云っておいてさらさら気にしていないような様子で、制服の赤いリボンをシュルリと外し取った。
 そうして、なんの照れもてらいもなく、恵泉の黒い制服を脱いで着替え始める。
 モデルばりに均整のとれたプロポーションと白い肌が現れ、それを隠し、あるいは撫でるように流れる黒い髪が妙にエロチックで、女同士にもかかわらず由佳里は息をのんで見入ってしまった。
 持参してきたらしい厚手のトレーナーを着た後、そこに学生服の上着を羽織り、隠れていた黒い長髪を両手の甲でもってさらりと持ち上げ、再び背中に流す。

「……まあ、ボタンの位置が逆なのですわね。ふふふ、面白い」

 そしてその長髪を根元で束ね、恵泉の赤いリボンでキュッと縛る。
 背が高く、背筋を伸ばした立ち居振る舞い、ただ長い髪を縛って学ランを着ただけで、そこには男装の麗人が現れるのだった。

 微笑みを消して、キリッと凛々しい表情にかえ、紫苑は言葉を紡ぐ。
「エントリーナンバー1、十条紫苑。準備オーケーですわ」
 万人が見ても美しいと認めるであろう美貌と、背も高く髪も長く、プロポーションも良く人柄も良く、男装も似合い演技も上手い。
 多くの生徒たちから敬愛されるこの人に、果たして投票しない者が居るだろうか。

 先日、このコンテストの告知を見たとき自信満々だったまりや、圭、貴子の三人も、この紫苑の姿を見ておのずと姿勢を正す。
 当初は和やかムードだった控え室にも、いまやピリピリとした緊張感が漂いつつあった……。

『……これより、恵泉ミス・ミスターコンテストを行います。男性用の詰め襟学生服を纏う恵泉の女生徒たちが、エルダー・シスターである瑞穂お姉さまに告白の演技をするという……』

 すでに外ではコンテストの説明が始まったようで、放送が流れて来た。
 それを耳にして、紫苑の着替えに見とれ、あるいは自信喪失していた一組目の他三名も、止まっていた着替えの手を動かす。
 このようなコンテストに自ら出るぐらいなのだから、男装することでかなり映える女生徒たちだったけれど、さすがに紫苑と比べられると霞んでしまう。

「二組目も発表させていただきますが、ご自分の番号を覚えておいてください。そして、自分より四番前の方が舞台にのぼりましたら、着替え始めるようお願いします。二組目、五番を三年の御門さま。六番、一年の……」

 よっしゃぁ!と小さく呟いてガッツポーズを見せるまりや。
 紫苑から四つも順番が離れていれば観客たちの辛い評価も一段落するだろう、と見て取ったようだった。

「表会場でも説明が終わったようなので、一番の紫苑さま、出場お願いします」
 案内役の君枝の言葉に、出場するわけでもない由佳里でさえ緊張感を味わった。
 それはまるで、校庭でスタートラインに立つ度に味わう緊張感と同じようだった。

「それでは皆さん、お先に失礼……」
 艶やかに微笑んでそう云った後、舞台に視線を向けた紫苑の顔は、凛々しい表情に変わっていた。

『エントリーナンバー1。三年の十条紫苑さま……』

「……さて。紫苑さまが一番だから、五番のあたしは準備しなきゃあね」
 やはり緊張しているからだろうか。
 まりやは素の口調で呟いた後、緊張をほぐそうとするかのように肘を曲げた状態で両腕をグルグルと回した。

 近くに居る由佳里の緊張した顔に気づいたのだろう、それを安心させるようにまりやは笑った。
「でもあれよね、陸上の大会ん時の緊張感に比べれば、まだまだよね」
「ふふふ、そうですね」
 ふたりして少し笑った後、まりやは笑みを浮かべつつ準備を始めた。

「それじゃあ奏ちゃん、Mサイズの学生服上下をもらってきて」
「はいなのですよ〜」
「由佳里は、鞄を」
「はい」
 奏はパタパタと控え室を小走りに歩いていき、学生服が置かれている一角に向かう。
 由佳里は、お付きとして持ってきていた大きめの鞄をまりやに手渡した。

『きゃーっ』
『紫苑さま〜っ』

 舞台の方から歓声が聞こえてくる。
 それはまるで、押し寄せてくる潮騒のようで……。
 ……しかし、控え室に備え付けられた鏡を前にしてメイクを始めたまりやは、目の前のことに集中していて気にならないようだった。

 まりやは、普段ナチュラルメイクを基本としている。
 由佳里はあまり化粧のことを知らなかったので化粧が薄い=ナチュラルメイクと思っていたが、それは違うのだと教えてもらった。
 ナチュラルメイクとは、メイクしているようには見えないのに綺麗に見えるようにするメイクのことを云う。
 決して手を抜いているのではなくて、自分の素の魅力を最大限に引き出しつつ、しかしあまりメイクしているように見せないようにする技術のことなのだと。

 あまり騒がれることは無いけれど、まりやはかなりの美人だ。
 スタイルが良く、化粧を感じさせないメイクも上手で、人柄は明るく取っつきやすく、傍に居るだけで周りが明るくなる。

 恵泉卒業生で美貌を讃えられるのは、主に紫苑、瑞穂、貴子の三人だけれど、その三人は憧れなどを抱かれることが多い。
 しかしまりやの場合は、親しみや友愛を抱かせ、憧れるとか以前に友達になってしまう。
 この恵泉において、まりやほど友人知人の多い者は他には居ないだろう。

『若いって云って手入れを怠っていたら、年取ってから苦労するんだからね』
 ニヒヒといつもの笑いを浮かべ、由佳里や奏のみならず瑞穂にも、洗顔や乳液、化粧水の使い方の基礎と応用を叩き込んでくれた。
 瑞穂が編入当初よりもいまのほうが綺麗に感じられるのは、このまりやの教育によって鍛えられたから、というのが大であろう。

 そもそも瑞穂がエルダー・シスターに選ばれたのは、まりやの支持があったからだ。
 瑞穂が来る前は、生徒会長である厳島貴子がエルダーを兼務するのだろうと予想されていた。
 その貴子に対抗できるであろう人物が、唯一、まりやだった。

 演劇の才媛、小鳥遊圭にも熱烈なファンが居ることには居るけれど、圭をエルダーに推挙するか?と問われれば、さすがのファンでも首を横に振るだろう。
 エルダー・シスターは、ただの人気投票ではない。
 エルダーと呼ばれるに相応しい人柄と声望と、周りから憧れ、そうして恵泉の女生徒たちを正しく導く力量が必要とされる。

 まりやをエルダーに、と推挙する流れも少数ながらあった。
 そのまりやが瑞穂を推すということが早々に伝わり、まりや分の投票がそのまま瑞穂に流れた。
 そういうこともあって、瑞穂が82%という圧倒的な票を得られたのだと由佳里は思っている。

「それでは、二番の三宮さん。その……観客が落ち着いてから、どうぞ」
「は、はい……」

 紫苑が控え室に戻ってきたが、熱気さめやらぬ舞台にすぐ出向くのは酷だろう。

「まりやお姉さま。今回は、濃いめにメイクなさるんですね」
 普段のナチュラルメイクに馴れていた由佳里は、まりやが行っている濃いめのメイクのことが気になっていた。
 それを耳にして、まりやがちょいちょい、と手を招いた。
 由佳里が顔を寄せると、周りに聞かせないとでもするかのように、小さな声で説明してくれた。

「ほら、上からライトが当たるでしょう? そうすると、顔が飛んじゃうのよね」
「とんじゃうって……?」
「光を受けて、顔がのっぺりしやすいのよ。だから、鼻筋を入れてアイラインもしっかりさせて、眉もちょい濃いめにするってわけ」
「な、なるほど……」

「……流石ね、まりやさん」
 お互いに小さな声で云っているつもりだったのに、いつの間にか傍に来て居た圭がニヤリと笑っていた。

「化粧の巧さで一目置いてはいたけれど、よもや舞台上のことも知っていようとは……」
「んふふ、こっちには優秀なブレーンもいるしねえ」
 学生服を持ってきた奏の肩に手を置いて、まりやは笑った。

「……裏切り者め」
 素の表情に戻って、奏を見つつポツリと呟く圭。
「はやや」
 たちまち、奏がガクガクブルブルと震えはじめた。

「いまからでも遅くはないわ。奏、あたしの所に来なさい。付き人として扱き使ってあげるわ……」
「ダメよ、奏ちゃんはあたしの大切な付き人なんだから」
「まりやさんには、そこの……カフェ・オレではなく、翡翠の君……でもなかった……。ううむ、とにかくもうひとり一年生が居るじゃないの」

 やはり、あの妙な呼び名は忘れたようだった。

「由佳里は由佳里で、別の役目があるんだから」
「別の役目って……この奥の手のことですか?」
 そう云いながら、由佳里は学生寮から持ってこさせられた鞄を指さした。
 つい先ほど化粧品を取り出していたけれど、それだけにしては少し重いように思えた。

「「奥の手?」」
 目の前に居た圭の目がきゅぴーんと光る。
 それと、元の恵泉の制服に着替えて傍まで戻ってきた紫苑と、少し離れた位置で聞き耳を立てていたらしい貴子もぴくりと興味深げに反応する。

「この奥の手なしで予選に勝ち残れないようだったら、私もそれまでですわ」
 周囲からの注目を浴びてお嬢さまモードを思い出したらしく、そう格好つけるまりや。

 まりやはメイクを終え、詰め襟学生服を着た後、スッと席から立ち上がった。
 紫苑とはまったくタイプが違うものの、涼やかで凛々しい男装の麗人が、そこに居た。
 黒い詰め襟の上のほうを外していて、そこからのぞく白い肌とうなじが、なにやら妙になまめかしい。

「四番の佐藤さまが出場なさいました。それでは、三組目の方も発表させていただきます。十番を二年の芹沢さん。十一番を……」

「さて。五番である私も出場間近ね」
 まりやは、舞台の袖に移動しようとして歩き始めたが、すぐに足を止めて振り返り、由佳里に笑いかけた。
 その笑い方は、まりやが悪知恵を働かせる時によく見せる、どこか邪な感じのある笑い方で……。

「……十三番を、三年の小鳥遊さま」
「とても素敵な番号だわ……」
「以上が三組目のメンバーです。先ほども説明しましたが、自分よりも四番前の方が舞台にのぼりましたら──」

「……ねえ由佳里、知ってた?」
「なにをです?」
「告知プリントにあったんだけど、出場者は付添人を連れてこれるのよね」
「はい……? 確か、控え室で出場者の準備を手伝わせることが出来る、んですよね」

 由佳里と奏は、まりやの付添人として控え室に手伝いに来ているのだ。
 それをなぜ、この時になって口にするのだろう?

「付添人の登録もあらかじめ必要だったんだけど、その際に生徒会に云われたのよね。一名限りだ、って」
「なにが一名なんです?」
「だからぁ、付添人は一名限りだ、ってね」
「そうなんですか。……って、私と奏ちゃんを連れてきて大丈夫だったんですか?」
「ダイジョブダイジョブ。なぜかって云うとねぇ……」

「それでは五番の御門さま、出場お願いします」

「……まあ、そのうちわかるわよ」
 ニヒヒと笑って、まりやは控え室から颯爽と出て行った。

『エントリーナンバー5。三年の御門まりやさま……』

「……さて」
 いつの間にか、まりやが座っていた椅子に圭が陣取っていた。
 そういえば先ほど圭も名前を呼ばれていたようだから、準備を始めるのだろうか?と思った由佳里だったが……。
「鬼の居ぬ間に、奥の手とやらを拝ませていただきますか」

「「!?」」

 あんまりにも堂々とした態度なので、由佳里と奏はしばらく身動きが出来なかった。

「ぶ、ぶちょ〜、ダメなのですよぅ〜っ!」
 まりやの鞄を床から持ち上げてメイク台のうえに置いた圭の腕に、奏が慌てて抱きついた。

「……あたしは部長さんではないのです。新部長の緑なら、間違いなく観客席に居るはず。用があるなら控え室を出てどうぞ」
「はやや。あっ、紫苑お姉さま。部長さんを止めてくだ……って、きゃあ」

 見れば、奏は紫苑に背後から抱き締められ、ずるずると鞄から引き剥がされていた。
「ふふふ、奏ちゃん、ごめんなさいね」
 紫苑もまりやの鞄に興味があるのか、圭を止めるどころか加勢していた。

「ちょっ、ちょちょちょ、ちょっ、待っ、くださいっ」
 勇気を出して、由佳里はまりやの鞄に抱きつき、いままさに圭の手によって開けられようとしていた所を止めに入った。

「……ほう。あのように素敵な、名誉ある称号を与えてあげたこのあたしに、逆らおうと云うのね?」
「称号って……すっかりお忘れになっているじゃないですかそんなものっ」
「むむむ、今年の一年は反抗的ね……。かくなるうえは」
「あふっ」

 由佳里は、圭の右手で首根っこを捕まれて、鞄から引き剥がされた。
 どういうわけか、それだけで抵抗らしい抵抗が出来ない。

「免疫の無い一年生にはこれで十分ね。もっとも、あたしも中等部の頃に同じ事をやられて、自由が効かないところをヤツに玩ばれてしまったのだけれど……」
「ひーっ」
 圭の自由な左手が、なにやらわきわきとイヤらしい動きを見せる。

「……悪ふざけも、それぐらいでお止めになったらいかがです?」

 誰かが、机のうえにあったまりやの鞄を取り上げた。
 まりやが来たにしては早いな、と思ったら、それは案の定まりやではなく……。

 生徒会長の厳島貴子が、まりやの鞄を高々と持ち上げ、そこに立っていた。

「紫苑さまも紫苑さまですわ。奏さんが泣きそうになっているではありませんか」
「まあ……私、叱られてしまいましたわ」
 貴子に云われ、紫苑は奏を拘束していた腕を渋々と放した。
 そうすると、奏は紫苑から離れ、貴子にくっつくように身を寄せる。
「……ああ、しかも奏ちゃんも取られてしまいました……」

 貴子は、やはり真面目なのだろう。
 いがみ合っているまりやにでさえ、不正が働こうとするのを見逃せない。

「会長も、まりやさんの秘密兵器……見たくはありませんか?」
 無駄だとは感じているのだろうが、圭が説得を試みる。

「それはもちろん興味はありますが、持ち主の居ぬ間に中を覗こうとするだなんて卑怯な真似を……」

 スっパァアアーーンっっ!!

「……ぃったぁっ!」
 貴子の頭に白いちょんまげっぽいのが生えた……というかよく見ればハリセンが炸裂していた。

「なにやってんのよ、貴子ぉおおーーっっ!!」
 ガーっと吠えそうな勢いで、男装したままのまりやが右手にハリセンを握って戻ってきていた。
 がばっと、勢いよく貴子から鞄を取り戻す。

「なっ、まりやさっ、わわ、わたくしはっ、ただ……!」
「人の居ぬ間に覗こうだなんて、ずいぶんとこすい真似するようになったじゃないっ。この卑怯者に泥棒猫の女狐で恥知らずっ!」
「な、なあぁんんですってぇ! わた、わたくしが女狐なら、ああああなたなんて女豹ですわよ女豹っ」
「女豹? いいわねぇ、格好いいじゃない!」
「きぃーっ」
「むっきーっ」

 取っ組み合いの喧嘩になってもおかしくない勢いだったが、そこは生粋の恵泉育ち。
 ふたりとも、睨み合いつつも暴力沙汰にまでは及ばない。

「……まあまあ、ふたりとも、落ち着いて」
 この火種を振りまいた張本人である圭が、まったく悪びれない様子で仲裁に入る。

「「外野は黙っててっ!」」
「……そう云っていただけると助かるわ」

 ぎりぎりぎり、となにか場の空気が引き絞られるような緊張感の後。
 睨み合っていたふたりは、どちらからともなく「ふんっ!」と顔を逸らして、互いに控え室の対角線上に座ったのだった。



 予選を終えて元の制服姿に戻ろうと着替え始めたまりやに、由佳里と奏が慌てて駆け寄り、経緯を話した。

「……ってことは何? 貴子は、あたしの鞄を守ろうとしてくれたってわけ?」
「そうなんですよっ。紫苑さまと圭さまから鞄を取り戻して、諫めてくれたんです」
「あちゃー……」

 黒い詰め襟学生服を脱ぎ終えたまりやは、眉を顰めて天を仰いだ。

「……まぁた、やっちゃったかー」
「またって……?」

 白いワイシャツに黒い学生ズボンの姿で、まりやは腕を組んで苦々しい表情を作る。
 その横顔には、どこか切なさとか寂しさが感じられた。

「いっつも、いぃっつも、い〜〜っつも、そうなのよねえ。あたしとあいつってば、互いに歩み寄ろうとすることもあるってのに、いっつも擦れ違っちゃうのよね」
「まりやお姉さま……」
「互いに、おずおずと両手を広げて歩み寄ろうとしたら、いままでの勢いで駆け寄って擦れ違い、エルボードロップかまし合っちゃうような感じ」

 言い得て妙な例えだった。

「いまのは勘違いだったわけですし、謝ってしまえばいいじゃないですか」
「いまさらあいつに頭を下げるってのもねえ。こんな関係、それこそ幼等部の頃からずーっと、ずう〜〜っと続いてきたわけだし、それをいまさら……」

 とても器用なまりやだけれど、たまにこういった不器用な面を見せられてしまい、由佳里は親近感を抱く。
 まりやと、そして瑞穂も、由佳里から見れば遠い人にさえ思えるぐらいすごい人たちだったけれど、たまにこういった不器用なところが伺えて、それがとても愛らしい。

 控え室の机に肘をついて組んだ手の甲のうえに顎を乗せ、まりやはため息を漏らす。

「憎みあって本当に嫌いあってるなら、お互いに無視すればいいんだけど、それが出来ないのよねえ……。恵泉を卒業して、十年二十年経っても、街中で出会えば後ろ姿だけでもあいつだってわかりそうだわ、あたし」
 まりやが、くくっと小さく笑った。
「そうして、無視すればいいのに声を掛けちゃったりして、また街中で派手に口喧嘩はじめちゃうのよねえ、きっと。なんだか、あいつとは一生そんな感じになりそうなのよね。この恵泉から離れてもきっと、ずっとね……」

 その横顔にはやりきれない寂しさに彩られていたようだけれど、口からこぼれ落ちた言葉たちには優しさが満ちていた。
 由佳里だったら是が非でも仲直りしたいと思うのだけれど……。
 こういった関係も絆のひとつなのかもしれない、となにか納得させるものがあった。



 独特の緊張感を漂わせつつ、控え室の中でも時は流れていく。
 その中で、まりやと紫苑は予選も終えていたこともあり、椅子に座ってくつろいでいた。
 奏がポットで持ってきていた紅茶をふるまい、ふたりとも和んだ顔で休んでいる。

「……そろそろ、かな〜」
 背もたれにギィっと身を預けながら、まりやが呟いた。

「まりやお姉さま、なにがですか?」
「あと二組だから、二分の一の確率よね」
「ああ、残った方が呼ばれる確率、ですか?」
 そういえば、会長である貴子がまだ予選の出場順が決まっていないなあ、と由佳里はのんびりと考えていた。

「九番の海老名さんが出場なさいました。それでは、四組目の皆さんも発表させていただきます。十四番を一年の上岡さん。十五番を三年の……」

「………」
 由佳里は、言葉を紡いでいる君枝の小さな口をぼんやりと見つめていた。
 少し間をおいてから、『十四番を一年の上岡さん』という言葉が脳にやっと伝わったものの、その次に考えたのは(私以外にも一年に上岡さんって居たんだぁ)といった呑気なことだった。
 一年の上岡さんって誰かなあ、とのんびりと控え室を見回す由佳里は、いくつかの視線が自分に集まっていることにようやく気づいた。
 まりやがニヤリと笑って、奏がニッコリと笑って、紫苑がフフフと笑って。

「……ほう、カフェ・オーレの君も出場するのね。しかしあたしの真後ろとは、不憫な」
 圭がニッと笑って由佳里に話し掛けた。

 ……それでようやく、由佳里は気づいたのだった。
 朝から、まりやがよからぬ感じの笑みを浮かべたり、瑞穂のウィンクとか、その他諸々がガチンガチンガチーンと嵌っていって、ひとつの結論にいたる。

「いいぃいやぁああぁーーっっ……!!」

 由佳里が生まれてこのかた、十数年間の中で一番大きく悲壮な声で絶叫した。
 事情を知らない、控え室に居た他の出場者たちが、この絶叫にビクリと震える。
 それはもう、控え室の外、会場にもうっすらと聞こえるぐらいの勢いで……。

「まりやお姉さままりやお姉さままりやお姉さまっ! まりやお姉さまですねっ!?」
「おう、いえー」
 まったく悪びれない顔で笑い、親指をビッと突き立てるまりや。
「まさしくこのあたしが、由佳里の代理として出場届けを出させていただきました〜」

「ひどいひどいひどいっ、どぉおしてっ、ここここんなことなさるんですかぁっっ!!」
「おっ、おおおぉおおっ」
 椅子に座っているまりやの肩をつかみ、由佳里は全力で揺さぶった。

「私、出ませんからっ! っていうか無理です、出れるわけないじゃないですかっ」
 由佳里は慌てて、生徒会メンバーである君枝の姿を捜し、駆け寄ろうとする。
「すみません十四番の上岡ですけど出場を辞退……もがが」

 まりやが慌てて由佳里の口を押さえ、言葉を封じる。
 しかし全力で抗う由佳里には、さしものまりやも、ひとりでは抑えきれない。
 やがて奏と紫苑が協力し、由佳里を無理矢理椅子に座らせた。

 半泣きになって、まりやを睨みつける由佳里。
「無理です。無理無理。絶対無理です」
 なおも呪文のように唱え続ける。

「……由佳里」
 まりやは「しょうがないなあ」と云った顔つきで、椅子を引っ張って由佳里の目の前に座った。

「無理だ、駄目だ、出来るわけ無い、やりたくないーって云ってたんじゃあ、いつまで経っても前に進めないわよ。あんたは、自分の出来る範囲のことは一生懸命頑張るんだけどさ。ぜんぜん、自分の限界を超えようとはしないのよねえ」
「………」
「陸上だってそうでしょ。最近やっと自分の納得できる記録が出せるようになってきたみたいだけど、それでもそれは今やれることをやり続けた結果でしかないわけだし。あたしたちも卒業だし、あんたの傍には居られなくなっちゃう。だから最後に、あんたに可能性ってのを見せてやりたかったのよ」
「……まりやお姉さま」
「もちろん、やれる範囲のことをやり続けることでも幸せになれるのかもしんないけどさ。色々なことを試したり、自分の限界を超えるような勢いでなにかに取り組むのも、それはそれで有意義なんだから。ちょっとあたしたちへの恩返し?みたいなのも兼ねて、出場しなさいよ」

 卒業と恩返しと云う言葉が、由佳里の胸に響いた。

 抵抗する気力が薄れ、大人しく椅子に座る由佳里に、まりやと奏がメイクを施していく。
 由佳里のヘアバンドを取り、整髪剤で髪を撫でつけていく。
 由佳里の眉は元々しっかりとしているのでことさら強調する必要もなく、まりやがメイクの腕をふるう必要はあまりなかった。
 心持ちアイラインと鼻筋を強調するぐらいで、舞台映えするであろう印象になる。

「……別に予選を通過しろ、とまで云わないからさ。ちょっと舞台に出て、周りの人から注目されるってことを感じてみな」
 由佳里の両肩に、まりやが優しく両手を当てながら諭すように云う。
「一子ちゃんから聞いたんだけどさ。あんた、瑞穂ちゃんやあたし、奏ちゃんと比べて、自分のことを全然平凡だとか云って落ち込んでたそうじゃない」
「一子さんが……?」
 そう云えば以前、一子にそんなことを云って嘆いたことがあったような気がした。
 ポツリと思わず出た言葉だったけれど、それは心の中に押し込めていた本心だったのだろう。
 まりやにそのことを指摘されて、恥ずかしくなって顔が熱くなる。

「人の視線とか注目とか、そんなことは本人の頑張りしだいなんだから。試しに、ちょっと舞台に立ってみな。たったそんなことで、人に注目されるってことがわかると思う。簡単なんだから。結局は、由佳里、あんた次第でどうにもなるってことなのよ」

 鼻歌でも口ずさんでしまいそうなくらい上機嫌のまりやが、由佳里を男装させていく。

 小柄ながらもスラリとした体型。
 黒い詰め襟学生服を着てキッチリと襟を閉じる。
 短い頭髪をさらに撫でつけ、健康的に日焼けした小麦色の肌をした小さな顔。
 鏡の前に、なかなかの美少年が現れた。

 自分の胸や腹に手を当てると、鏡の前の少年も同じように動く。
 これが自分なのか……と、由佳里はちょっとした感動を味わう。
 たったこれだけの変装でこうも自分は変わってしまうのか、と。

 少しのことで、人の注目や視線なんてどうにでもなる、とまりやは云った。
 こんな風に外見を変えて注目されるというのは別にしても、たとえば他のことでも、他者からの印象をガラリと変えることは容易なのかもしれない。
 ……そんな風に思うことは出来たものの、由佳里の心はいまだスッキリと晴れることはなかった。

 楽しそうに微笑むまりやと奏に肩を押され、出場待ちをしている出場者の最後尾に由佳里は連れてこられた。
 すでに準備を終えて出場を待っていた圭が振り返り、由佳里の姿を見て考え深げに頷く。

「……なるほど、これはこれは。もしかしたら、もしかするかもしれないわね」
 学院祭の時の男装と同じく、圭は胸元まで伸びている髪をつむじの所まで持ち上げ、結っていた。
 結いきれずにこぼれ落ちている髪の毛数本が白い頬に掛かり、なにやら妙になまめかしい。
 堂々とした立ち居振る舞いで、男子用の学生服を違和感なく着こなしている。

 由佳里の視線を感じて、圭は着ている学生服の胸元を引っ張る。
「別段、学ランなんて必要ないのだけれど。……あたしがその気になれば、恵泉の制服を着て女装している男って役だって演じきってみせるわ」
 ふふん、と自信ありげに笑う圭。
 それに、ギクリとするまりや。
 ……しかしそのどちらの顔も、由佳里の目には映らない。

 出場待ちをしているこの場所から、会場の様子が少しばかりうかがえた。
 こんな舞台袖からだけでも、会場である体育館に多くの生徒たちが詰めかけているのを見ることが出来た。
 舞台に立てば、体育館すべてを見渡せて、そうすれば会場全体にいる女生徒たち全てが目にはいることだろう。
 全員を見ることが出来るということは、全員に見られるということであり……。

「……だいぶテンパってるわね。あと一押しで倒れそう」
「由佳里のこと弄らないでよね圭さんっ。今だけはちょっと、自由にやらせてあげて」
「オウケイ、それぐらいの場はわきまえているわ」

 ブルっと、由佳里の身体に改めて震えが走った。
 これから本当に、自分はあの舞台に立つのだろうか?
 会場に居る恵泉の生徒たちからの視線を、浴びせられるのだろうか?

 まりやに半ば云いくるめられて出場することを受け入れたものの、その決意が揺るぎ始めていた。

「由佳里ちゃん、由佳里ちゃん。奏が秘密兵器を持ってきましたですよっ」
「えっ……?」
 ぼんやりと振り返ると、奏が「じゃーん」と云って、なにかを突き出してきた。
 それは、よく見れば少し大きめの絆創膏だった。

「絆創膏……?」
「奏も、演劇で初めて舞台にあがったときものすごい緊張したのですよ。そんな奏に部長さんが云ってくれたんです。『舞台にのぼる際、素の自分である必要はない。誰か、あるいは何かを演じていると意識して、演技という仮面を被って、素の自分と距離を置けば楽になる』って」

「……それは初心者用の緊急対応策ではあるけれど。いまの彼女には有効か」
 圭がポツリと呟いた。

『エントリーナンバー13。三年の小鳥遊圭さま……』

「んじゃ」
 すちゃっと軽く片手をあげた後、そのままの姿勢で圭はふらりと舞台に出ていった。
 堂々とした歩き方で、まったく緊張が感じられない。

『圭さまだわっ』
『圭さまぁ〜っ』
 圭には熱烈なファンが居るという話しだったけれど、実際にそういった悲鳴じみた歓声があがった。

「……由佳里ちゃん、ちょっと考えてみてください。この舞台でも、なにか仮面で顔を隠しながら出場すれば、そんなに緊張しませんよね?」
「う、うん、そうかも知れないね……。顔を隠せるなら、少しはマシなのかも」
「そこでこの絆創膏の登場なのですよー。これが、由佳里ちゃんにとっての仮面になるのです」
「仮面に……?」

 奏は、ぴりりっと音を立てて絆創膏の裏面を剥がす。
 そうして、由佳里の鼻の頭の少し上に、横にして貼り付けるのだった。

「ふふふ、こうすればやんちゃな美少年さんの誕生なのですよ〜」
「あはは、奏ちゃんったら……。こんな風に鼻に絆創膏をしてる男の子だなんて、漫画でしか見たことないよお」
 由佳里はそう云ってちょっとだけ笑えたのだけれど、その言葉を聞いて、奏は満足そうに頷く。

『エントリーナンバー13。三年の小鳥遊圭。……このあたしを選んでくれれば、恵泉での最後に相応しい、最高の舞台を見せてあげるわ』
 舞台の中央でマイクを手に取り、圭が不敵に笑いつつ宣言していた。
 会場のあちこちで悲鳴じみた歓声があがっている。

「……そうなのですよ。だからそれが、仮面になるのです。実際には居ないであろう、やんちゃな男の子というキャラクターを作るのがこの絆創膏なのですよ!」
「ああ、それで……」
「由佳里ちゃん自身ではなく、やんちゃな男の子という架空のキャラになったつもりで舞台に立てば、少しは緊張も紛れると思うのですよ〜」

 ニッコリと笑う奏の優しさを感じて、由佳里もようやく、笑みを浮かべることが出来た。
 奏の言葉で完全に安心することは出来なかったけれど、それでも、その優しさが身にしみる。

 舞台の中央から圭が戻ってくる。
 その顔には不敵な、どこか男性っぽい笑みが浮かべられていた。
 しかし舞台袖に戻ってくると、洗い落としたかのように、スッと元の無表情に近い顔に戻る。
 ああ、これもまた仮面のひとつなんだなあ、と由佳里は気づいた。

「……有名な話があるわね」
「えっ?」
 そのまま立ち去るのかな、と思っていた圭が、真横で立ち止まっていた。

「自分を見つめる観客たちの顔を、食べ物だと思って気楽に考えろっていう話」
「ああ……」
「奏から聞いたことがあるのだけれど、あなたは確か、ハンバーグが好物だそうね」
「か、奏ちゃん、そんなことを……」
「舞い上がった部員に、身の回りの話をさせて緊張をほぐしてやることがあるの。……で、あなたの場合、観客全員を好物のハンバーグだと思えば気楽にならない?」

 圭に云われるままにそれを想像して、由佳里は思わずプッと吹き出してしまった。

「食べきれません、そんなにっ」
「ふふふ、その意気……」
 軽く笑みを見せた後、圭は学生服を脱ぎながら控え室に戻っていった。

「準備はよろしいですか?」
 案内役の君枝がウェーブヘアーをなびかせつつ現れ、由佳里に聞いてきた。
「は、はいっ」
 それに慌てて、頷いた。

「がんばってください」
 微笑んで小さくそう云った後、君枝は手に持ったマイクのスイッチを入れた。
『エントリーナンバー14。一年の上岡由佳里さん……』

(よ〜し、行くぞーっ)
 行くぞー、行くぞ〜、行くぞお〜っ。
 ……そう、自分に声を掛けるのだが。

 一向に、足が前に出ない。

「ゆ、由佳里ちゃんっ?」
「あああああしが……足がっ……!」
 気持ちは整えたはずなのに、身体の方がいうことを効かない。

 一向に出てこない出場者のことを気に掛けてか、舞台のほうから会場のざわめきが聞こえてきた。
 せっかく気持ちが前向きになってきていたのに、焦りが全身を支配していく。

「世話の焼ける子ねえ」
 ため息まじりに、まりやがなにやら靴を脱ぎ始める。

「まりやお姉さま……?」
 それに気づいて振り返る奏。

「奏ちゃん、由佳里のこと舞台に向けさせといてね」
「は、はいっ」
「せーっんのっ……!」

「──げふあっ……!?」
 由佳里の背中に、衝撃が走った。
 その衝撃に押し出されて、舞台袖から飛び出る。
 そうして、そのままの勢いで舞台中央まで転がり出てしまった。

 何事!?っと振り返る由佳里の目に、片足を突き出したままのまりやの姿が映った。

「蹴りましたね、まりやお姉さま蹴りましたねっ!? 兄さんにしか蹴られたことがないのにぃっ」
「兄貴には蹴られたことがあるのか……」

 足をおろし、乱れたスカートをぱんぱんと叩いて整えつつ、まりやがブイサインをして見せる。
 そうして、由佳里はようやく、自分が舞台上に座り込んでいる状況に気づいた。

(ひいいーーっっ……!!)

 いきなり舞台上に転がり出てきた由佳里に、会場にひしめくように座っている女生徒たちの目が集中する。
 その数は四百近い。
 掛ける二すれば八百の瞳が、由佳里ひとりに集中していた。

 無理、無理無理、絶対無理!
 ぎぎぎっと、かろうじて首を動かして、舞台袖に視線を戻す由佳里。

 すると、まりやがニヒヒと笑いつつ左手を腰に、右手でビッと親指を突き立てる。
 そのまま右手を内側にひねり、床に指を突き下ろす格好になった。
(それは逝って来いってことですかーーっ!?)

 ……もう、覚悟を決めるしかない。
 そう思って会場のほうに顔を戻すのだけれども、一向に立ち上がれそうになかった。

 瑞穂も、まりやも、奏も……。
 圭や紫苑、貴子も、こんな風に舞台の上に立って、全生徒たちからの視線を受けても平気だったのだろうか。

 舞台の中央にひとり座り込み、身動きしようとしない由佳里の姿に、会場のざわめきが大きくなる。
 由佳里の焦りはつのるばかりで、頭の中は真っ白になっていた。
 うぐっと呼吸につまり、目から涙がこぼれ落ちそうになる。

「……由佳里ちゃんっ!!」

 と、そんな由佳里の耳に、自分の名を呼ぶ、通りの良い声が聞こえてきた。

「由佳里ちゃんっ!!」
 のろのろと顔をあげてあたりを見回すと、ちょうど控え室とは反対の位置にある舞台袖に瑞穂が立って、こっちに向けて手を振り上げていた。
「由佳里ちゃん、がんばってっ!!」

「由佳里ぃ!」
「由佳里ちゃんっ!」
 自分が追い出されてきた舞台袖からも、まりやと奏が声援を送ってくる。

「由佳里ちゃん、がんばって!」
「由佳里さん、ファイトぉー!」
 会場のほうから、部活の仲間やクラスメイトたちからの応援の声が聞こえてきた。
 それにつられてか、まったく見知らぬ女生徒たちも一緒になって応援してくれていた。

(……私ってば、いっつも誰かに応援されてる)

 それは亡くなってしまった義姉だったり、居なくなってしまった姉のような一子だったり。
 そして今もまた、回りの多くの人たちから声援が送られていた。

(がんばらなくっちゃ。足を、前に踏み出さないと……)
 そうして由佳里は、よろよろと立ち上がることが出来た。

「がんばれっ、琥珀の君ぃっ……!!」
 せっかく立ち上がれたのに、舞台袖から一際よく通る声が響いてきてズルっと転けそうになった。
 見れば、学生服の上着を脱いだ圭が、ニヤリと笑いつつ手を振り上げていた。
 ……あの妙な呼称を思い出したようだった。

「がんばれぇ、ゆかりん〜っっ!!」
 それに追随するように、まりやがハートマークでも付きそうなぐらい甘い声で応援してくる。

(ひーーっ、やめてくださいぃ〜っ!)
 妙なもので、変な呼び方をされた恥ずかしさのおかげか、会場からの視線による呪縛は解けかけていた。

 ふんっ、と両手に拳を小さく作って気合いを入れ、由佳里は舞台の中央に向けて足を踏み出していた。
 視界がにじんでいることに気づき、右手の袖で目元を拭う。
 少し泣いていたようだ。
 目元を拭う際、鼻の頭に触れて、そこに絆創膏が貼られていることを思い出した。
 ……いまの動きはまるで男の子みたいだなあ、とそんな風にぼんやりと考える。

 本来なら舞台のうえを一周しなければならないのだけれども、そんな余裕はない。
 由佳里はまっすぐに、のろのろと、けれどしっかりとした足取りで舞台中央にあるマイクにまで歩み寄っていった。
 そうして、ひとつ大きく息を吸ってから、胸を張って声をあげた。

『エントリーナンバー14の上岡由佳里です。よろしくおねがいしますっ……!』

 最後まで云い終わらないうちに頭を深々と下げてしまったので、言葉尻が消えかかっていた。
 けれどその気持ちは伝わったようで、会場のほうからいくつもの拍手が飛んできた。
 それは波紋のように広がり、いつしか会場にいる多くの女生徒たちが優しい気持ちになって手を叩いていた……。



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