1997.12/22 Mon 06:50

 朝の穏やかな空気。
 薄いカーテン越しに、柔らかな朝日が部屋の中を満たす。

 その部屋にあるベッドに、いかにも寝起きの少女がひとり。
 ピンク色のパジャマに、やはりピンクのナイトキャップ。

「……」

 ベッドのうえで上半身だけを起こして、ぼーっとしている。
 時折、閉じそうになるまぶた。

「…ん〜…」

 毛布をぎゅうっと両腕で抱きしめ、そのまま上半身を折り、前のほうに倒れ込む。
 柔らかい毛布の感触を楽しむように、それに頬ずりする。

「…眠い…」

 ふいに毛布を手放し、右にコテンと寝転がる。
 うっすらと開いている瞳で、天井を見上げる。

(…山葉堂のワッフル…)

 取り留めもない思考。

(…クリスマスパーティ…)
(…学校…)
(…お弁当…)
(…冬休み…)
(…寒い…)
(…髪の毛…)

 短い思考が、浮かんでは消えていく。

「起きなきゃ…」

 そう、ポツリと呟いたけれど、寝ぼけ眼の彼女は、いっこうに起きあがる気配を見せない。
 それどころか、寝ころんだままの姿勢で、まぶたがうつらうつらと閉じかけている。

『ぷるるるるるるる…』

 ふいに…。
 部屋の中にあった電話が、鳴り響く。

(…電話…)

 気怠そうに、ゆったりと上半身を起こす。
 その顔に、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

(…ゆう…)

 その電話で幼なじみの少年の顔を連想し、自然と笑みがこぼれる。

『…ぷるるるるるるる…』

 鳴り響く電話。
 電話機は、枕元から手を伸ばせば届く所にある。

 ばふっ…と、枕にうつぶせに倒れ込む。
 そしてそのままの体勢で、右手をのばして受話器を取ろうとする。

「…んっ…んっ…」

 枕にしがみついたまま、なんとか探り当て、目的の物をつかみとった。

「…はい」
『うっす』

 受話器から聞こえてきた少年の声に、彼女は幸せそうな顔をする。

「ゆう、おはよう」
『おはよう、茜』

 幼なじみの声が耳をくすぐる。
 彼女にとって、あまりにも穏やかな、いつも通りの朝の風景。

(…こういうとき、幸せを感じる…)

 彼女はしがみついていた枕に頬をすり当てる。

(…気持ちいいな…)

 枕に頬を押し当てたまま、とろん…とまぶたが落ちる。

『起きてるか?』
「…もちろんです」

 ぐぐぐ…と、閉じていたまぶたが開く。

(ゆうの声をまどろみかけた中で聴くと、安心して眠たくなる…)

 そうしてまた、うとうとと閉じたり開いたり。

『それじゃあ、つぎの質問に答えてみろ』
「…はい」

『25+7は?』
「…さんじゅう…に…」

『ええと、今日は何月何日だっけ?』
「…12がつの…22にち…」

『それと、茜のスリーサイズは?』
「…上から、はちじゅ…」

 ぐわっ…と、閉じかけていたまぶたが開く。
 そして上半身を起こし、受話器に噛みつく。

「ゆうっ! なんてことを訊くんですかっ」
『うはははははははは』

 受話器越しに、本当に楽しそうに笑う幼なじみ。

『ちゃんと目が覚めただろ?』
「完全に目が覚めました…」

 彼女は、眉間に指を当ててもみほぐしながら、ゆらりと身体を起こす。

『しかし、驚いたな』
「…私のほうが驚きました」
『いやいや。いつの間にかに、成長したんだなあ、と』

「…は?」

『去年訊いたら、確か70いくつだって言っていたから』
「……っ!!」
『そうか、80を越えたのか…』
「ゆうっ…!!」

『んじゃ、そろそろ支度しろよな』

 そう言った後、電話が切れた。

「ばかばかばかばか」

 彼女は真っ赤に顔を火照らせ、手近にあった枕を、ポンポンと何度も叩く。

「…もうっ!」

 彼女はベッドから降りながら、かぶっていたナイトキャップを取る。
 収められていた長い髪が、ふわりと流れた。



   同日 07:06

 幼なじみへのモーニングコールを終えた少年は、受話器を元に戻す。

 そうして、おもむろに両手を自分の胸に当てた。

「ううむ、はちじゅう…」

 そうポツリと呟いた後、コキッと首をひねる。

「ううう〜ん…」

 腕を組んで、その場で考え込む。
 その顔は、よからぬ妄想で少し赤くなっていた。

「…飯にするか」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、彼はパジャマ姿で歩き出す。


 台所に来た彼を待っていたのは、紙切れに書かれた伝言と、インスタントのカップ焼きそば、そして千円札が1枚。

『今夜も遅くなります。母より』
「……」

 それは毎度のこと。

 慣れた仕草で、カップ焼きそばの封を開き、具をまいた後、熱湯を流し込んで蓋を閉める。

 これといった感慨を抱くこともなく、紙切れを丸めてゴミ箱に突っ込む。
 そして、千円札をパジャマの胸ポケットに押し込んだ。

 この千円札1枚で、昼飯と夕飯をなんとかしろ、とのことである。
 これが五百円玉だった場合、夕飯は母親が帰ってこれるという証だ。

 だけれども、千円札のほうが9割以上を占める。

 朝は、こうやってインスタント食品やパンなど。
 それが、育ち盛りの少年の現状。

「ん〜…」

 テレビをつけて、ポチポチとチャンネルを変える。
 天気予報を確かめた後、ニュースをぼんやりと眺めていた。

「…っと」

 カップ焼きそばのことを思い出し、慌てて台所に戻る。
 無造作にカップ焼きそばの蓋を捨て、取り出していたソースの封を切った。

「ううん、しかし、はちじゅうか…」

 とろろ…と、ソースを流し込んでから、ふと我に返る。

 …麺をほぐした熱湯を、捨てるのを忘れていた。

「……」

 容器の中に、ソースで黒く色づけされた湯と、ぷかりと覗くちぢれた麺。

「ええと」

 辺りを見回し、投げ捨てていたカップ焼きそばの蓋を見つける。
 それを拾い上げ、ギュギュッと容器に蓋をする。

 そして、何事もなかったように、蓋を利用して湯を捨てはじめた。
 どばどば…と、ソース味の黒い湯が流し場に捨てられる。

 パカッと蓋を開けると、うっすらと色づいたちぢれ麺。

 箸でぐりぐりかき混ぜた後、ひょいっと一口食べる。

「…うすい」

 案の定だった。

 ふと、台所に置かれている容器が目に付く。
 犬の絵が描かれたソースの入れ物。

『野菜たっぷり豚かつソース』

「……」

 彼は、うす味のカップ焼きそばを手に、ふらふらとそのソースをつかみ取る。

「…ソースはソースだよな」

 何が彼をそうさせるのか。
 キュポっとソースの蓋を開け、とぽとぽと焼きそばに注ぎ込む。

 そうして、箸でぐりぐり掻き回し、麺と豚かつソースをなじませる。
 もわっと漂ってくるにおいに、思わず鼻をしかめる。

「いただきます」

 インスタント焼きそばを箸ですくい上げ、パクリと一口。
 …口中に広がる違和感。

 しかし、思い切ってそのまま、ずずず…と箸で持ち上げていた麺を吸い込む。

 …もしゅもしゅ。

 2回、3回、4回。
 そこまで咀嚼したものの、突然、鼻にツーンとなにかがこみ上げる感覚。

「ぶふーっ!」

 ソースが咳を誘発し、口中にあった焼きそばもどきが、台所のテーブルに撒き散らされた。

「おーのー」

 そう棒読みで嘆いた後、慌ててティッシュで掃除をはじめた。



   同日 08:05

 住宅が立ち並ぶ中、ふいに、ポッカリと開けた空間がある。
 小さな一戸建てならいくつか入りそうな、大きな空き地。

 そこに、彼が立っていた。
 学校の制服を着込み、通学鞄と折り畳んだ傘を手に提げていた。

(俺が物心ついた頃から、もう空き地だったよな)

 その空き地に佇みながら、少年は見回す。
 背の高い雑草が茂っていたが、それはほとんど、冬の寒さを前に枯れていた。

(子供の頃は、日が暮れるまで、ここでよく遊んだもんだ)

 ここで遊ばなくなったのは、いつ頃だっただろうか…。
 そんなことを思い、彼は記憶をたぐってみたものの、見つからなかった。

「…けど、ちょっと遅いな」

 彼は、ここで毎朝待ち合わせている幼なじみのことを思う。
 腕時計をしていないので、正確な時間はわからない。

 ただ、昨日はもう少し早く、幼なじみはやってきたはずだ。

「さっきのこと、怒ってるのかな」

 そんなことを思い、ちょっと心配になる。

「ううーん、でも、はちじゅうはすごい…」

 また思い出し、両腕を組んで考え込む仕草をする。

「なにが、はちじゅうなの?」

 ふいに、背後から話しかけてきた少女の声。
 ゆったりと自然な問いかけに、彼は意識することなく、反射的に答えを返す。

「茜のバスト…」
「えええええっ!?」
「おわっ!」

 少女の突然の叫びに、彼は驚かされた。

「しいこ、いつの間にっ!」
「ん、いま来たとこ。…じゃなくて! 茜のバストが80って、ホント!?」
「あ、ああ。今朝聞き出した」
「うー、ショック」

 しいこと呼ばれた少女は、へなへなとその場にしゃがみ込む。

「なにがそんなにショックなんだ?」
「…去年の頃は、それほど変わりなかったのに」
「ふ、ふ〜ん」

 思わず想像してしまい、彼の顔は赤く火照る。

「ところで、しいこ。いま何時だ?」

「えーと。うん、8時10分」
「そか。…んで、お前はなんでここにいるんだ?」
「通学途中にね、ゆうくんを見掛けたから」
「ほうほう、それで?」
「それだけ」
「……」

 彼は溜め息をついて、しいこという少女に手を差しのべる。

「とりあえず、立て」
「うん」

 しいこは、彼の手を両手でつかんで、持ち上げてもらう。
 その際、しいこの顔が嬉しそうにほころんでいたことに、彼は気づかなかった。

「この時間にこんな所に居るってことは、完全に遅刻だろ?」
「そそ。寝過ごしちゃった。遅刻確定」
「あきらめたのか?」
「急いだって、一時間目は欠席扱いになりそうだからね。それならいっそ、二時間目に間に合えばいいかなぁ、と」
「お前さ、あいかわらず、あきらめるの早いのな」
「…う」
「まあ、しいこらしいっちゃあ、しいこらしいけど」
「……」

 彼の慣れたあざけりに、しいこは少し苦い感じの笑みを見せた。

「……? なんか俺、変なこと言ったか?」
「んーん。別にぃ」
「……?」

 しいこは、いつも通りの穏やかな表情を取り戻す。

「そいえばさ」

「ん?」
「昨日、うちの学校、創立記念日だったのよ」
「ほほう」
「明日は祝日でお休みでしょ? なんでうちの学校、今日を創立記念日にしなかったかなあ」
「……」
「そうすれば、連休だったのに。ゆうくんも、そう思わない?」
「まあ、思うけど」
「だよねぇ」
「…それで?」
「いや、それだけなんだけど」
「……」
「……」

 彼は、決して話し下手ではないけれど。
 しいこという少女は、ときとして返事をしにくい話題を振ってくるので、こんな感じで会話が滞ることがよくあった。

「そういえばさ」

「今度はなんだ?」
「クリスマスパーティ、今年も24日にやるの?」
「そうだな。しいこなら、特に予定ないだろ?」
「…しいこなら、ってのが気になるけど。まあ、ないけど」
「そんじゃ、24日、いつも通り俺のウチでってことで」
「オッケー」

 住宅街に、ポッカリとできた空き地。
 そこに、明らかに違う学校の制服を着た男女が、ぽつねんと立ち尽くす。

「子供の頃は、ゆうくんが親戚の家に預けられたりしたから、パーティー開くの、ずらしたりしたんだよねぇ」
「…そうだったな」

 彼の顔に暗い影がさしたのを、しいこは気づかない。

「あ、茜だ。おーいっ!」

 しいこが、空き地に向かってくる人影に気づき、大きく手を振る。

「詩子?」

 少女…茜は、自分を呼ぶ人物の顔を見て、小首を傾げる。

「おはよ、茜。久しぶりー」
「おはようございます。…久しぶりと言っても、昨夜、電話で話したばかりです」

 彼としいこ…詩子の元に歩いてきながら、茜は控え目な苦笑いを見せる。

「あ、そだっけ。えっと、実際に会うのが久しぶりって意味で」
「先週、一緒に遊びに出掛けました…」
「あや。えっと、それじゃあ、気分的に久しぶり、ということで」
「…はい。それで、詩子、こんな時間で大丈夫なの?」
「あたしの学校ね、昨日、創立記念日で休みだったのよ」
「はい」
「それで、寝過ごしちゃって」
「…なにがどうしたら、昨日が創立記念日で今日寝過ごすの?」
「そうよねえ。あたしも不思議なんだけどね」
「…私も不思議です」

 詩子は、彼の持つ傘と、茜の持つ傘とを交互に見る。

「ふたりとも傘持ってるけど。もしかして、雨降るの?」

「はい。午後から、30%の降水確率だそうです」
「ああ、俺もテレビで見たぞ」

「うー。今朝はテレビを見る暇も無かったよ」
「遅刻確定で上役出勤なんだから、ゆっくりしてけばよかったのにな」
「あー、そうだねぇ」

 詩子は、ちょっと照れた笑顔を見せる。

「傘取りに、家帰ろかな。でも、お母さんになんて言われるやら…」

 そんな詩子に、彼が持っていた傘を差し出す。

「仕方ないな。俺の貸してやるよ」
「え? でも、いいの?」
「ああ。いざとなったら、茜の傘にでも入れてもらうさ」

 そう言って彼が視線を向けると、茜はコクリと頷いた。

「うわ、相合い傘っ? それってやらしぃ…」
「なんでだよ! んなこと言うなら貸さねーぞっ」
「ああ、うそうそ、冗談っ」

 詩子は慌てて、借りた傘を両手で抱え込む。

「それよりも、そろそろ行きましょう」

 茜が、腕時計を見ながら言った。

「そうだなぁ。詩子のせいで、俺らまで遅刻したら堪らない」
「なによぅ、付き合い悪いなぁ」
「なんで寝坊したお前に付き合わにゃならんのだ」
「うー…」

「詩子、途中まで一緒に行きましょう」

 幼なじみ3人が、並んで歩き始める。

「そういえばさ、茜ぇ」
「はい?」
「その傘、ずいぶんと使ってるんだね」
「…はい」

 茜の持つ、ピンク色の傘。
 長い年月愛用していて、少し色あせていた。

「詩子とゆうが私の誕生日にくれた、プレゼントですから」

 茜はそっと、微笑んだ。



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