「AIR」短編 『擦れ違い Birthday』
土曜日の午後。
学校から帰ってきた観鈴は、居間のテーブルに財布が置かれているのに気づいた。
仕事に出ているはずの晴子の財布だ。
観鈴 「あ、お母さん、財布忘れてる」
なんの気無しにそれを拾い上げ、中を覗く観鈴。
観鈴 「わっ、お札やカードとかいっぱい。これないと、お母さん困るよね……」
おろおろと慌てる観鈴。
ふと、財布の中にある免許証が目に入った。
そこには、晴子の生年月日が記載されている。
観鈴 「お母さんの誕生日……え、今日っ?」
もう十年近く一緒に住んでいるのに、ふたりが誕生会を開いたことはない。
観鈴の誕生日には、晴子は夜遅く帰ってきたり、そのままどこかに外泊したり。
晴子の誕生日のほうは、観鈴が訊いてもやんわりとはぐらかされ、教えてもらえなかった。
観鈴 (お母さん、私のこと嫌い、だよね……。でも、わたしは好き。大好きだから)
観鈴 (もう十年近くもお世話してもらってるんだし。ちゃんと、お祝いしてあげたいな)
グオオオン……。
観鈴 「あ、お母さんだ」
バイクの甲高い音が近づいてきたかと思うと、家の前で停まった。
観鈴は免許証を財布に戻しながら、慌てて玄関に向かった。
観鈴 「お母さん、財布、忘れてるよ」
晴子 「お、サンキュな。買い物しようとしたら無くて、えらい恥かいたわ」
観鈴 「にはは。……あ、あの、あのね?」
晴子 「なんやー」
観鈴 「……今晩、遅くなる?」
晴子 「ん? 多分、早よ帰れると思うわ」
観鈴 「そっか。うん、よかった」
晴子 「それがなんや?」
観鈴 「ん、なんでも。にはは」
晴子 「……まあええわ。んじゃ、行ってきまー」
観鈴 「行ってらっしゃーい」
晴子が出掛けていくのを見届けた後、観鈴は腕まくりをする。
観鈴 「よーし、今晩は御馳走を作ろうっと。それと、なにかプレゼントしなきゃっ」
観鈴 「あでも、今月はもう、お小遣い少ない。観鈴ちん、ぴんち……」
夜。
居間にたくさんの御馳走と、晴子へのプレゼントを抱えて待つ、観鈴。
観鈴 (ネクタイ買った。似合うと良いな。ダイジョブ、お母さん格好良いから、なんでも似合う)
観鈴 (料理もたくさん作った。鳥さんのもも肉高かったけど、美味しそう。うん、大丈夫)
観鈴 (……お腹空いたな……。おやつ食べたから、まだまだ、だいじょぶっ)
こちこち……と音を立てる時計を、観鈴は見上げた。
晴子 「んじゃ、お先に。お疲れー」
仕事を終え、帰路に着こうとうする晴子。
そんな晴子を呼び止める、ひとつの声。
同僚 「あ、待った、晴子っ」
晴子 「ん? なんやの」
同僚 「今日、一緒に飲んでかない?」
晴子 「あー、今月、もうピンチ。晴子ちん、ぴんちや」
同僚 「ふふふ、今夜は私のおごり」
晴子 「……なんや、雪でも降りそうやな」
同僚 「昨日、お馬さんで取ったのじゃよ。どぅ? 私が奢るだなんて、そうそうないぞう?」
晴子 「おおきに、お世話になりますー」
同僚 「いきなり下手に出やがってー、よっしゃよっしゃ、お姉さんが世話したるわ」
観鈴 (お母さん、遅い……)
観鈴 (早く帰ってこれるときは、だいたい、もう帰ってきてるのにな)
ひとり待ち続ける観鈴。
くぅ〜……と、その腹が小さな音を立てた。
観鈴 「がお、お腹空いた。お腹と背中がくっついちゃうよ」
目の前にある御馳走。
我慢しきれず、観鈴は指を伸ばす。
観鈴 「ちょっとだけちょっとだけ。毒味毒味」
唐揚げをヒトツ、口に入れる。
観鈴 「うん、おいしいっ! 観鈴ちん、すごいすごいっ」
観鈴 「こんな美味しい料理作れるだなんて、お母さんもきっとびっくり」
ふと、思い出したかのように、時計をちろりと見上げる。
観鈴 (お母さん、遅いな……)
ひなびたバーで、盛り上がる女ふたり。
晴子 「……そしたら、その男、最後にこう言うたんや」
同僚 「ほーほー」
晴子 「結局惚れていたのは、僕のほうなのかもしれない……って」
同僚 「ぷくく」
晴子 「な、どうや? どう思う!? これってうちの勝ちやろ!?」
同僚 「うむ、お前の勝ちじゃの」
晴子 「せやろせやろっ! だからうち、トドメ刺してやったんや。『逃がした魚は……人魚やで』ってな」
同僚 「うははははははっ、お前人魚かっ」
晴子 「せやっ、うちが人魚さんやっ。どないや、これは効くやろっっ!」
観鈴 「……いただきます……」
すでにもう、日付は変わっていた。
観鈴 (お母さん、急に仕事入っちゃったのかな。それに、多分……って言ってたし)
観鈴 (しょうがないよね……。お母さん、わたしの分も働かなくちゃいけないんだから)
用意した料理は、温めれば美味しさを取り戻すものがほとんどだった。
けれど、観鈴はそれをするのが億劫で、黙々と無気力に箸を運ぶ。
観鈴 「うん、冷めててもおいしい。ごちそうごちそう」
何度となく見上げる、掛け時計。
観鈴 「……でもやっぱり、寂しいな」
肩を組んで帰途につくふたり。
晴子 「いやあ、飲んだ飲んだ」
同僚 「うむ、余は満足じゃ」
晴子 「……たんじょーびがこんなにぎやかなの、ほんま久しぶりや」
同僚 「へ? 誕生日だったのか、今日?」
晴子 「今年で、もう二十八や」
同僚 「あー……。そりゃ、悪いことしたか? ほれ、娘がおるだろ。義理の。お祝いとかするんじゃないのか」
晴子 「ん、観鈴は、ほら……。うちの誕生日、教えてへんし」
同僚 「けどのぅー」
晴子 「いつもこんな感じやし。あの子の誕生日は、忘れてるふりして、帰らへんようにしとる」
同僚 「晴子ぉ、お前……」
晴子 「……そうやって、もう十年も暮らして来たんや。今更、変えられへんよ」
観鈴 (残った御馳走、どうしよう。目立つとこに置いておいたら、お母さんに気をつかわせちゃう)
観鈴 (ラップにくるんで、冷蔵庫の目立たない所に押し込んでおこうっと)
観鈴 (誕生日プレゼントはどうしよう……。あ、そうだ)
観鈴 (ちょっと日にちを置いて、商店街のクジ引きで当たったって言ってプレゼントしよう)
観鈴 (観鈴ちん、賢いっ。うんうん)
今夜最後の、時計の確認。
すでに、二時が過ぎていた。
観鈴 「おやすみなさい」
ベッドに入りながら、観鈴は深く溜め息をついた。
観鈴 (……ひとりはやっぱり、寂しいな)
深夜、三時過ぎ。
晴子、帰宅。
晴子 「帰ったでぇ……」
ポソリと呟いて、玄関をくぐる。
シン……と寝静まった空気。
晴子 (ひとりは、やっぱ寂しぃなぁ……)
後日。
晴子が深夜遅く帰ってくると、ベッドの上に、綺麗に包装された箱が置かれていた。
『商店街のクジ引きで当たったよ。観鈴ちん、すごいっ! ネクタイだよ、よかったら使ってね』
そう文章が書かれていて、その横にピースサインをしている観鈴の下手な絵が描かれていた。
観鈴の自画像だ。
晴子 「………」
文章とプレゼントの箱を何度となく見比べた後、晴子は重い溜め息をつく。
晴子 「……あほ。商店街のクジ引きで、こんな綺麗な包装されるかいな……」
どう見ても、プレゼント用に包装された物にしか見えない。
観鈴 『……今晩、遅くなる?』
晴子 『ん? 多分、早よ帰れると思うわ』
観鈴 『そっか。うん、よかった』
晴子は、きゅうっと眼をつぶりながら、天井を見上げる。
晴子 「……もう十年。いまさら……」
晴子 (今まで、ずっと別々の生活。すれ違いの中で生きてきたんや)
敬介 『そう遠くない内に、長期休暇が取れそうなんだ。観鈴のことで、君と話したいことがある』
観鈴の父、敬介が、先日寄こした電話。
晴子 (どうせいつかは別れてしまうんやから)
……晴子は、漠然と、観鈴との別れが近づいていることを感じていた。
観鈴がいまの制服を脱いで大学生になるような。
あるいは、社会人になるような姿が、まったく想像できない。
それを晴子は、観鈴の父親が連れ去っていくのだと考えていた。
晴子 (……でもせめて、今度の誕生日くらいは)
晴子 (せやな。素知らぬふりして、観鈴が大好きな恐竜のぬいぐるみでも)
晴子 (それこそ、クジ引きで当てたとか嘘を言うてでも)
晴子 (今度の、誕生日くらいは……)
---> 『AIR』
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