track 18……夢の跡



 天野と舞が首を傾げているのと違って、佐祐理さんひとり、目を見開いて驚いていた。

「佐祐理さん?」
 俺の問いかけに、みんなも佐祐理さんに注意を向ける。

 そんな中、佐祐理さんは呼吸さえ忘れたかのように、硬直していた。

 …やがて、見てわかるほどに震えた手を、その毛糸のかたまりに差し出していく。

 佐祐理さんの指が、まことの持つ毛糸のかたまりに触れて。
 その拍子に、それについていた小さな鈴が、錆びついた音色を立てた。

 つぎの瞬間――。

 佐祐理さんは地面に膝から崩れ落ち、押し頂くように、まことの手ごと毛糸のかたまりをつかんだ。

「…うう…うううううっ…」
 そうして、佐祐理さんは、嗚咽をあげて泣きはじめた。

「うう、うううう〜…」
 まるで子供のように、ぽろぽろと涙を流して、佐祐理さんが泣いていた。

 …以前、舞が言っていた。

 もう何年も付き合っているのに、佐祐理さんの涙を見たことがない、と。
 弟の一弥を失ってから、涙が止まってしまったのでは、と。

 泣き方をしらないのか、ほんとうに子供のように、佐祐理さんは泣いていた。

「佐祐理…?」
 舞が駆け寄り、泣きじゃくる佐祐理さんの肩に手を置いて問いかける。

「…ひっ…う…わたし、が…一弥にあげた、プレゼント…」
 嗚咽まじりに、佐祐理さんが呟いた。

「…毛糸の…手袋…」
 頬を伝って、幾本の涙の筋ができていた。
 こぼれ落ちた涙が、地面に積もる雪に沈む。

「…姉らしいことができるって思って…がんばって編んで…でも…」

 そこで口ごもり、ぶわっと涙があふれ出す。

「…でも、一弥はわたしのことが嫌いで…捨てられちゃって…」

 その後も、佐祐理さんはなにか呟いているようだったけれど、もう聞き取れなかった。

「捨てたんじゃないよっ!」
 まことが、佐祐理さんの泣き声を振り払うような大きな声をあげた。
「捨てたんじゃない! だってまこと、とっても大事にしてたって思うもの!」

 膝をついて泣きじゃくる佐祐理さんを、まことは、上からそっと覆い被さるように抱きしめる。

「だから…だから泣かないで。もう泣かないでようっ…!」

 あまりに無防備に泣きじゃくる佐祐理さんに心を揺さぶられたのか、まことも涙声になっていた。

「佐祐理の気持ちはわかったから。もうわかったからっ。
…ひどいこと言ってごめんなさい…。だから泣かないで、佐祐理…」



「…もう、大丈夫そうですね」
 天野が俺の側に歩いてきて、そっと囁きかけてきた。

「ああ」
「…よかった」
 天野は、抱き合うようにしているふたりに、優しい眼差しを向ける。

 天野の穏やかな横顔を見て、つと衝動がこみあげる。

「…天野」
「はい?」
「いろいろと、ありがとうな」

 俺と真琴を、導いてくれたことを。
 そして、佐祐理さんとまこと、俺と舞を導いてくれたことを感謝して。

「なんですか、突然?」
「いや、なんとなくだ」

 俺の言いぐさに、天野がくすりと小さく笑った。

「じゃあ、私も。…相沢さん、いろいろとありがとうございます」
「なんだよ、突然」
「いえ、なんとなくです」

 優しい空気を感じで、俺と天野は笑みを交わした。



 佐祐理さんがなんとか泣き止んだ頃。
 まことが、毛糸の手袋だったもののひとつを、佐祐理さんに差し出した。

「佐祐理に、これ、片方あげる」
「え、どうして? まことの宝物なんでしょう?」

「そうだけど…でも、でもべつに、2個あるし。
…そうだ。両方持ってて、いっぺんになくしちゃったら大変でしょ?
だから1個、佐祐理に渡しておけば安心だし」

 まことがしどろもどろになりつつも、佐祐理さんにプレゼントしようとするのが可愛らしかった。
 人に好意を示すのが苦手らしい。

 戸惑っている佐祐理さんに、隣にいた舞がそっと囁いた。

「…今日からの友情の印」

 それを聞いて、佐祐理さんは舞を見て、ついでまことに視線を移して。
 そして、どこか泣きそうな感じで、だけど嬉しそうに微笑んだ。

「わかった。じゃあ、片方を、佐祐理が預かるからね」
「うん、そうして。…そうよ、あずけるだけなんだから…」

 まことは、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向く。

「大切にするからね…」
 佐祐理さんは、ほんとうに大切そうに、その手袋だった毛糸を受け取った。



 今夜は、まことをうちで泊まらせることにして、佐祐理さんたちと別れた。

 まことを連れて、家の中に入っていく。
 玄関の中で、秋子さんと名雪が待っていた。

「おかえりなさい」
 親子の声が、綺麗にハモった。

「あう…」
 見知らぬ人間がふたりも現れ、まことは臆したようだ。

「水瀬秋子といいます」
「わたしは、水瀬名雪。祐一のいとこだよ。よろしくね」

 ふたりは逃げるようなことはせず、真正面から向き合ってくれるようだ。
 …嬉しかった。

「あ、う、まこと…沢渡まこと、です」
 ぎくしゃくと、まことが自己紹介をする。

「なにかしこまってるんだよ。いつもどおりに、ぎゃーぎゃー吠えればいいのに」
 俺はそう言って、まことの後ろ頭をぺちっと叩いた。

「いたっ、なにするのようっ!」
「そうそう、その調子。かたくなってたから、緊張をほぐしてやったんだ」
「だからって、叩くことないでしょうっ」

「ほら、今日は遅いから。ふたりとも、お風呂はいって、早く寝なさい」
 秋子さんが微笑みながら言うと、まことも怒るのを止め、靴を脱いで家の中にあがる。

「じゃあ、祐一さん。この子をさきに、お風呂いれてあげましょうね」
「そうですね」
「さ、お風呂はこっちよ」

 秋子さんは自然な態度で、まことの手を引いて風呂場のほうに歩いていった。
 まことも、見知らぬ年上の女性に噛みつくようなことはせず、大人しくついていった。

 その後ろ姿を見送って、名雪がぽつりと呟いた。
「…ほんとに、そっくりだね…」
「ああ…」

「あの真琴が、記憶を失って帰ってきた…っていうことはないの?」
「俺も最初はそう思ってたんだけどな。倉田佐祐理さん、覚えてるだろ?」
「うん。髪の長い、柔らかい感じの人だったよね」
「その佐祐理さんと弟に会いに来たんだよ、あいつは」

「そっか…」
 名雪は、まことが消えた廊下のほうを、寂しげに見やっていた。

「無理しなくてもいいんだぞ?」
 俺がそう言うと、名雪はそっと、溶けいるような優しい微笑みを返してきた。

「耐えるのには、もう、慣れているから」
「…名雪…」

「今日はもう寝るね。明日は休みだけど、早く起こしてね。…ひとりで起きれる自信ないから」
「わかった」
「カエルのパジャマ、出しといたから。前のとまったく同じの。…あの子に、着せてあげて」
「ああ。…名雪、ありがとな」

 いとこの少女はにこやかに笑って、階段をのぼっていった。

 まことを風呂場に案内し終えた秋子さんが、戻ってきた。
「あら、名雪は?」

「さすがにもう眠いらしくて、戻っていきました」
「そう」

「秋子さん」
「はい?」
「明日、お時間ありますか?」
「ええ、たっぷりあるわよ。暇で困っているくらい」

 秋子さんもまた、名雪に負けないくらい、にこやかに微笑んだ。

「明日、ここに友だちを呼んで…それで、秋子さんに料理を教えてもらいたいんですよ」
「ええ、いいわよ。それで、料理って、どんな料理かしら?」
「肉まんです」

「…わかりました」
 秋子さんは静かに目を伏せた後、朗らかに言った。
「肉まんの作り方、勉強しておいてよかったわ」

「ありがとうございます」
「明日は、とってもにぎやかな1日になりそうですね」


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