track 13……朝影



「それじゃ、出掛けてきます」

 秋子さんと名雪は、気になる素振りを見せたものの、引き止めずに見送ってくれた。
 その様子から、やはり天野は、まことのことを話していないのだとわかった。

 かといって、いま俺がふたりに話せるわけでもなかった。
 自分の中で整理できていないのに、どうして人に話すことができるだろう。

 身を切るような冷たい風に、しばらく遠ざかっていた現実感を取り戻す。

 時刻は、昼過ぎといったところか。

 見上げれば、重苦しい雲が空に敷き詰められていた。
 日差しの暖かさは期待できないものの、こういう日は、意外と寒くないものだ。

「天野。まず、なにから考えたほうが良いと思う?」

 佐祐理さんの家へと向かう道を、ゆっくり歩きながら話をする。

「なにを考えるべきかを、整理してあげてみましょう。
ひとつ。いまのまことに、私たちがなにをしてあげられるか。
ふたつ。倉田さんと川澄さんに、まことの真実を話すべきか。
みっつ。秋子さんと名雪さんに、いまのまことのことを話すべきか」

 天野があげたモノを、頭の中で繰り返す。

「…うん、そうだな。まずは、そのみっつだ。
天野はすごいな。俺がうじうじしている間に、ちゃんと整理して考えていただなんて」
「私だって辛いです。でももう、後悔はしたくありませんから。
私にできること全てを、やっておきたいんです」

 そう言った天野は、意志の強さを感じられる瞳で、俺を見つめてきた。
 迷いの感じられない天野の瞳が、俺にはとても眩しい。

「天野は、ほんとうに強い。以前は、俺のほうが強かったと思ってたのに。
いまじゃ、俺が頼るばかりだな」

「それは、私の側に相沢さんが居てくれたからです」
 …と、天野があまりにも自然に言うので、
「そっか…」
 と、俺もさらりと聞き流しそうになって、思いとどまる。

「…ええっ、俺がなんだって?」
「さあ? それよりも、考えましょう、みっつのことを」
 慌てて聞き返した俺を、天野は受け流す。

 俺のほうを見ずに、正面に顔を向ける天野。
 その横顔を眺めて、ちょっと耳が赤いように思えた。

「いまのまことに、私たちがなにをしてあげられるでしょうか」
「そうだな…」

 あの少女の運命を思い出し、きりきりと胸が痛む。

「やはり、助けられないのか。俺たちには、どうしようもないのか…?」
「はい、おそらくは。…もう、何百年も繰り返されてきたことです」
「昔話になるくらいだからな」

 自分の手を見つめる。

「…あいつは。真琴は、俺の腕の中で消えていった。
まるで、最初から居なかったとでもいうかのように」
「私もそうでした」
「人として現れたこと自体が、現実的じゃない。
医学やなにかでは…人の力では、どうしようもないのかもしれない」

 奇跡。
 …口に出してしまえば、なんとも安っぽい言葉だ。

 けれど、俺たちはそれを経験していた。

 認めてしまうのはつらいけれど。
 つかの間の奇跡を前に、人でしかない俺たちになにができるだろう。

「つかの間の奇跡…。
それを認めた上で、私たちにできることを考えなければならないのです」
「そうだな…。俺たちが、いまのまことになにをしてやれるか」
「あの子の望みを叶えてあげるのが、私たちができる精一杯のことなのかもしれません」

 …最初、俺に憎しみを持って現れた真琴。
 それは、真琴がなにも知らなかった幼い頃に、俺が人のぬくもりを与えてしまったからだろう。

 捨てられたと思った真琴は、俺を憎み。
 そしてまた、失った人のぬくもりを求め、憧れ。
 またその中に居たいと切望したのだ。

 真琴が命を捨ててまで求めた願いは、そんなにもささやかなことだった。

「あの子は…まことは、倉田さんとなにかの繋がりがあったのでしょう。
それと、倉田さんへの憎しみだけでなく、恐れと、そして憧れという感情も覚えていたようです」
「憎しみと、恐れと、憧れ…か」
「まことは、倉田さんと一緒に遊びたがっています。
憎しみや恐れの感情があって、素直に求められないようですが」

 …ほんとうに、子供みたいに可愛いんですよ?
 そう言って、天野はくすりと微笑む。

「佐祐理さんが憎い。怖い。…でも、佐祐理さんと遊びたい」

 なんだ…なにかが引っかかった。

 …憎い、怖い、遊びたい。

 なにかに似ていた。
 俺はなにか、忘れていることは無いか?

 ……。

 足を止めた俺を、天野が追い越した。
「相沢さん?」

 ……。

 …そうだ。

 思い出した。
 ひとりの名前を。

 …その少年が、幼い狐に、自分の悩みを打ち明けたのだろうか。

「佐祐理さんには…弟がいたんだ」
「え…?」

 1年前に、佐祐理さんから聞いた話を、思い出しながら言葉にしていく。

「一弥という名前で。
佐祐理さんが小学生の頃に、亡くなってしまったんだ」

 仕事で忙しかった両親に代わって、佐祐理さんが面倒を見て。
 佐祐理さんは、弟を立派に育てようとして、厳しく接した。

 甘やかさないことが威厳を持つということで、そうすることで、弟が立派に育つのだと父親に教えられていた。
 自分もそうやって育てられたから『正しい子』になれたのだと思って。

 厳しく接することが、『立派な姉』をつとめることで。
 そうして、弟と一緒に『正しい子』になれるのだと信じて。

 けれど、弟の一弥は、もとより身体の弱い子供で。
 人が話す言葉を、同じ歳ぐらいの子供ていどには理解しているようだったけれど、自分から言葉を発することができないようになっていた。

 病院通いの日々が続くが、一向によくならない。

 佐祐理さんは、弟に優しくしてあげたかった。
 一緒に遊んであげたかった。

 だけれど、厳しく接することが弟のためになるのだと信じて。
 遊んであげることもできず、笑いかけてあげることもできなかった。

 佐祐理さんの記憶にある一弥の表情は、いつも辛そうな、泣き出しそうな顔。
 また叱られるのだろうかと、心配しているような険しい表情。

 …そして、一弥は病院で寝泊まりするようになり。
 そのまま、帰らぬ人となった。

 佐祐理さんは、そんな弟に厳しく接していた自分が正しかったのかと悩んで。
 もっと優しく接して、もっと一緒に遊んであげなければならなかったのだと悔いた。

 ある夜、一度だけ、佐祐理さんは誓いをやぶって『悪い子』になった。

 一弥が食べたがっていた駄菓子をたくさん買い込んで。
 水鉄砲を持って、寝入る一弥の病室に忍び込んだ。

 そのとき、佐祐理さんと一弥は、初めてふたりで遊んだ。
 そうしてそれが、最初で最後になった。

「…憎い、怖い。でも、一緒に遊びたい。
それが、幼くして死んだ、佐祐理さんの弟の思いに似ている」

「では…。まことは、倉田さんの弟さんと接していた…と?」
「おそらく。その少年が、狐だった頃のまことに、自分の悩みを打ち明けたのかもしれない」
「なるほど…。それは確かに、ありそうですね」

 この考えが正しかったとしたら。
 ではそれで、まことになにをしてやれるだろうか。

 まことが求めているのは、おそらく佐祐理さんの弟、一弥との再会。

 一弥が語ったと思われる、姉への思い。
 憎しみと恐れ、そして思慕。

 それを、いまのまことが引きずっている。
 …まことに道標として残された数少ない想い。

 そんなまことに、俺たちがなにをしてやれるだろうか…。

 解答は出なかった。
 真偽を後で確かめるとして、この課題は一時棚上げにする。

「ふたつめ。倉田さんと川澄さんに、まことの真実を話すか否か」

 まことのことを、佐祐理さんと舞に話すべきなのか?

「…私は、話すべきだと思います」
 迷う俺と違って、天野は即答した。

「こんな話を、信じてくれるだろうか。自信がない」
「無理かもしれません。
相沢さんの話ですと、まことは倉田さんの弟さんに会いに来たように思えますし。
それと、昨日今日とさりげなく聞いてみましたが、倉田さんは過去にまことと接したことは無かったようです」
「無かった…? じゃあ、どうしてまことは、佐祐理さんの顔を知っていたんだ」
「そうですね…」
「俺の考え違いなのか。…あるいは、佐祐理さんが忘れているのか」

 なんにせよ、まことと一弥が接していたかを確かめてからだろう。

「ふたりには、まことの真実を伝えないほうがいいんじゃないか?」
 俺は、迷いながらも言ってみる。

 そうすれば…まことが突然消えて。
 佐祐理さんは、まことが記憶を取り戻して、家に帰ったと思うかもしれない。

 別れの挨拶もしない、いい加減なヤツだったと笑い話にして。

 それに、漫画やテレビなんかでよくあるじゃないか。
 記憶を取り戻した途端、記憶喪失だった頃の記憶をすっぽり失ってしまうって話が。

「…そうやって、佐祐理さんと舞をごまかせるかもしれない。
それがいちばん、周りを傷つけないで済む方法なんじゃないだろうか」

 俺の言葉に、天野は顔をうつむける。

 俺たちの足は止まっていた。
 もう少し歩いて角を曲がれば、そこは佐祐理さんのマンションだ。

「けれど、その場合、まことの想いはどうなります?」
 顔をうつむけたまま、天野はポツリと呟いた。

 …そうだ。

 記憶と命さえも引き替えに、人としての短い生を手に入れたまこと。
 そのまことの想い。

 もしも。

 もしも俺が、失った真琴の真実に気づいてやれなくて。
 なにもしらないまま、なにもできないまま、真琴が消えてしまっていたら?

 …それは、あんまりにもひどすぎるじゃないか。

「わかった。…でもこれは、俺に話させてくれるか?
天野よりも、俺のほうが、佐祐理さんたちと付き合いが長いから」
「はい」

「まずは、まことの目的が、ほんとうに佐祐理さんの弟と会うことだったかを確かめて。
その後に、佐祐理さんと舞に全てを話そう」
「はい。たとえ信じてもらえなくても。
それでも。できうる限りのことを、倉田さんたちがまことに与えてあげることができるように…」

 ふたつめの考えるべきことに、結論が出た。

「後は、秋子さんと名雪か…」
「もう、気持ちは決まっているのでしょう?」

 穏やかに微笑みを浮かべる天野に、俺も笑って返す。

「ああ。秋子さんと名雪にとっても、真琴は大切な家族だった。
きっと、いまのまことを前にしても、なにかを与えてくれると思う。
…また、辛い目に合わせてしまうだろうけど。ふたりなら、きっと大丈夫だ」
「そうですね」

「と、なると…。
まずは、まことが佐祐理さんの弟に会いに来たのかを確かめて。
その真偽がわかった後、佐祐理さんと舞にまことのことを話す。
その後で、秋子さんと名雪に話をしてみるよ」
「はい」

 ふと気づくことがあって、天野を見つめる。
 天野は、ただ穏やかに、そこにたたずんでいた。

「…しかしこれは、天野が示した通りの順番だな。
天野は、俺がこう答えるだろうって、最初からお見通しだったんだろう?」
「そんなことはないです」
 そうやって否定する天野は、けれど優しい微笑みを浮かべていた。

 こんなときの天野は、生徒が満足のいく解答を出したときの国語教師の顔に似ていた。
 …と見えてしまうのは、俺のうがち過ぎだろうか。

 たまに、天野に俺の心を見透かされているようで、恥ずかしく思えるようなことがある。

 そして同時に。
 自分自身が嫌われても、誤解を受けようとも、俺の行動をキチンと諭す。

 決して器用ではないようだけれど。
 悩み、傷つきながらも、人のために動こうとする天野を、俺は愛おしく感じていた。


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