♪ Page1 エメラルドの風




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 恵泉女学院は、明治十九年に創設された由緒ある女学院だ。
 日本の近代化にあわせ、女性にもふさわしい教養を学ぶ場が必要だ、という理念に基づいて創立された。
 英国のパブリックスクールを原型として、基督教的なシステムを取り入れた教育様式は現在まで連綿と受け継がれている。モットーは慈悲と寛容。年間行事には奉仕活動や基督教礼拝など、宗教色も色濃い。それに加えて日本的な礼節、情緒教育も行われているため、普通の義務教育機関とはいささか趣が異なる点が多い。
 学院の中にある大きな礼拝堂は、様々な行事で使われることもあるそうだけど、僕にとっては朝の礼拝以外に縁のない場所だった。なので、重い扉を開けて中に入ったとき、朝とは違う光景にしばらく息を飲むことになった。
 誰一人座っていない、無数の長椅子。朝の礼拝のときは、それこそたくさんの女生徒がそこに座り、祈りを捧げている。人がまったくいないこの空間は、初夏だというのに寒々しいぐらいに澄んだ空気で満ちていた。
 礼拝堂の主な光源となるのは朝日だった。しかしいまは違う角度で日の光が差し込んでいて、その光が朝とはまったく違う光景を演出している。
 そして中央の通路の先、マリア像の前。
 ……そこに、天使が居た。
 天窓からこぼれ落ちる日の光を受けて、その柔らかそうな髪が輝いて見える。身動きもせず、じっとその場に膝をついて祈りを捧げる姿はあまりにも静謐で、声を掛けて空気を乱すことさえ躊躇わせる。
 息をすることさえも意識する必要があるような、濃密な時がゆったりと流れた後。日の光を一身に集めているかのように見える彼女は、音もなく静かに立ち上がる。しかしこちらには気づいていないのだろうか、立ち上がったまま、目の前にあるマリア像を見つめていて、こちらを振り返ることはない。
 僕はふと、礼拝堂の扉を開けたままだったことに気づき、細心の注意を払い、音を立てないように扉を閉めた。しかしその際、外からひときわ強い風が吹いて、礼拝堂の空気をかき乱した。
 空気の流れに気づいたのか、祈りを捧げていた彼女はゆっくりとこちらを振り返る。
「まあ……。ごきげんよう、お姉さま。このようなところでお会いするなんて奇遇ですわね」
 少し驚いた顔を見せてそう云ったのは、生徒会長の厳島貴子さんだった。
 マリア像の前からゆっくりとこちらに歩いてくると差し込む日の光が背中に当たって、後光が差すような感じに輪郭が輝く。貴子さんの髪の色は少し薄いので、光を帯びると綺麗な飴色になった。
 僕は、この恵泉女学院で『お嬢さま』といえば紫苑さんを思い浮かべるけれど、人によってはこの貴子さんのことをまっさきに思い描くのかもしれない。紫苑さんと貴子さんを比べることなんて出来ないけれど、ふたりとも間違いなく、お嬢さまと呼ばれるに相応しい人たちだ。
 僕の父が率いる鏑木グループと非友好関係にある企業集積体、厳島グループ。その厳島グループの長を父に持つのが、この貴子さんだった。僕と貴子さんの父は互いに敵対心を抱いているのだろうけれど、子供である僕たちがそうである必要などないはずだ。貴子さんは僕の正体を知らないのだから当然だろうけど、すべてを知る僕にしても、目の前の彼女を理由もなく嫌うことなど出来ようはずが無い。
 貴子さんは、まっすぐな人だった。真面目で、清廉で、美しい人。常に自分を律し、綺麗で凛々しい空気を纏う女の子だ。
 生徒会長を立派に務めていて、多くの教師や生徒たちから信任を得ている貴子さん。……僕が転入してこなければ……それとまりやの裏工作による人気取りさえなければ、貴子さんが今年度のエルダー・シスターに選ばれていたはずだった。貴子さんは、僕のエルダー選出の際に意義申し立てを行ったという経緯から、あれ以来微妙な関係にある。
 けれど僕は、なにか切なく、胸苦しくさせるほどに生真面目でまっすぐで一生懸命な貴子さんを、嫌うことなど出来そうもなかった。
「ごきげんよう、貴子さん。お祈りの最中に、気を乱してすみませんでした」
「お謝りになる必要なんてありませんわ。ちょうど、祈りも終わった時でしたし」
 まだ片手で足りるほどしか会話していないのだけど、ほぼ毎回、貴子さんは僕に対して怒っていた。けどいまは祈りを捧げた後だからか、とても穏やかな表情をしている。僕が見たことがないだけで、貴子さんは普段、いまのようなたおやかな笑みを浮かべているのだろう。
 礼拝堂の中央にある通路をふたりして歩いていき、ちょうど中央付近で貴子さんが足を止めたので、僕の足も自然に止まった。このまま歩き去ってしまうのかな、と思っていたので、貴子さんが優しい顔のままそこに立ち止まってくれたのが嬉しい。
「お姉さまが髪型を変えたという噂を聞いていたのですが、本当だったんですわね」
「えっ……。そのようなことが、噂に?」
「お姉さまは、わたくしたち全生徒にとっての姉であるわけですから、注目を浴びるのは当然ですわ」
 いつも問いつめるような貴子さんを見てきたので、こうやって穏やかに話しかけられると、正直とまどってしまう。なんとなく気持ちが落ち着かず、胸の前に垂らした三つ編みに手を添える。
「けど、そうですわね……。いまの髪型も素敵ですけれど、以前のストレートのほうが瑞穂さん、らしいかもしれませんわ」
「私らしい……ですか?」
「私、生まれつきの癖毛ですので、お姉さまのなめらかな直毛に憧れていましてよ」
 貴子さんは、豪奢に結われた自分の髪を一房すくいとり、静かに撫で下ろした。確かになだらかなウェーブを描いているものの、それはとても貴子さんに似合っていた。
「それで……貴子さんは、どうしてこちらに?」
 あまり髪を見つめられて、そのまま胸に目がいってしまうのも避けたかったので、僕は話題を逸らした。
 この礼拝堂に来るようにと書かれた手紙は、まさか貴子さんではないだろうけど、確認しておきたかった。あるいはもしかして、あの束髪の女生徒が貴子さんを呼んだ可能性もあるんじゃないかと思い当たる。貴子さんの前で、あの件を糾弾するつもりでは、と……。
 貴子さんは、すっと僕からの視線を避けるように目を下に向ける。そうして、なにか口にしようとして、しかし閉じてしまう。穏やかそうだった顔が、なんだか少し沈んで見える。
「貴子さん……いまのは、訊いてはいけない質問でしたか?」
「……昼休みというものは、あまり好きではないのです」
「え?」
「教室に図書室、食堂に校庭、どこに行っても、私を見ると皆さん萎縮してしまいます。皆さんが仲良くお食事しているのを邪魔しているのではないかと思って」
「それは……そんなこと、は。多分きっと、みんな生徒会長である貴子さんのことを尊敬しているから、意識してしまうのでは?」
「お姉さまにもありますでしょう? 自分が現れることで、他の生徒たちが談笑を止めたりなさることを」
「それは……確かに、ありますけども」
「けどお姉さまには、たくさんのご学友がいらっしゃいますね。まりやさんや、クラスメイトの方、それに……紫苑さまと楽しげに会食なさっているのを何度かお見かけしたことがありますわ」
 そういう貴子さんは、すなわち自分には居ないのだ、とでも云うかのようだ。ひとりで食事を摂っていれば周りの者が意識してしまい、かといって、自分と談笑しながら昼休みを過ごす友達もいない。
 ……だとしても、貴子さんならそんなことは気にしないのではないかと思っていた。ひとりで食事をしていても、貴子さんなら寂しげには写らず、ただそこに居るだけで絵になるような……そんなイメージ。誰も、ひとりの貴子さんを哀れんだりする者は居ないはずだ。ただひとり例外があるとすれば、それは貴子さん自身なのだろう。
 偶然出会った貴子さんに、そんな深い胸の内を告げられて、僕は戸惑う。
「私、やはりお姉さまに憧れているんですわ。私が持っていない、けれどとても欲しかったものをお姉さまはたくさん持っていらっしゃいますから。あなたは本当に……私にとっても、エルダーであるべきだったんですね」
「そんなことありません。私だって、貴子さんに憧れることはたくさんあります」
 けど僕の言葉は届かないのか、あるいは神への祈り、述懐をひとりごとのように続けていく貴子さん。
「……私、エルダーになりたかった」
 その貴子さんの言葉は、あまりにも純粋に紡がれていた。純粋な欲求。その貴子さんの望みを、突然現れた僕が奪い去ったことに思い至り、胸が切なくうずく。
「恵泉の代表であり、恵泉の伝統を受け継ぐ者。それがエルダー・シスター。あの人が求め、けれどなしえなかったエルダーというものを自分が受け継ぎ、全うしてみたかった」
 あの人、という言葉に、僕は紫苑さんのことを思い出していた。紫苑さんは云っていた。去年、エルダーに選ばれてすぐに入院してしまい、その座を空位にしてしまったことを。
「私、あの人にずっと憧れていました。それこそ幼少の頃から、姉のように慕っていました。けれど親の都合で……私は避けられるようになり……。あの人の胸中を察すれば責めることは出来ませんし、私の家族のせいであの人が苦しむのを見ていられなかった。けれどそれでも、寂しかった。だからあの人の後を継ぐことが出来ればと……あの人にせめて認めてもらいたかった……叶えられなかった夢を継ぐぐらいのことは……」
 けどそれを、憧れる紫苑さん本人に退けられた。エルダー・シスター選出のあの日、壇上に紫苑さんが現れた時、貴子さんが見せた悲しげな表情が忘れられない。
「なんのしがらみもなくあの方と友誼を結び、一緒にいられる瑞穂さんのことが……お姉さまのことが、私はとても羨ましいのです。あなたは本当に、私が欲しかったものをたくさんお持ちになっているのですわ……」
 貴子さんは、自分の気持ちを抑えようとするかのように、スカートを両手で固くつかんでいる。そんな姿が、親の前で欲しい物を我慢する子供のように思えて、僕は……。
 反射的に、貴子さんのことを抱きしめていた。
「えっ……?」
 身じろぎもせず、僕に抱かれたままの貴子さんの背中を、何度か優しくさする。
「あっ……!?」
 いまの状況にやっと気づいたのか、貴子さんが僕のことをあわてて押しのけて逃げた。
「な、なにを……なにをなさるんですか、お姉さまっ!」
「ごめんなさい、つい……」
「あ、謝るのならばそのようなこと、な、なさらないでくださいっ」
 貴子さんはいつも僕に向ける険しい表情をして、自分の周りにまといつく気怠い空気を払うかのように手を振った。
「そもそも、なぜあのようなことを私はっ……! ああもうっ、きっとこの礼拝堂の静かすぎる雰囲気のせいですわ」
「貴子さん……」
「お姉さま、先ほどのことは……他言無用です。いえ、出来れば忘れてください」
 貴子さんは苦しそうに、さきほどの自分のことを恥じるように、眉根に皺を寄せて喘ぐように云った。
「それでは……ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう、貴子さん……」
 逃げるように、足早になって去っていく貴子さん。
 その背中はすべてを拒絶していて、掛ける言葉が見つからない。豪奢に結われた髪たちが光を受けながら緩やかになびいて、こんな状況でも彼女は綺麗だった。それはなんだか、切なくて悲しすぎるほどに美しく、僕はしばらく彼女の背中を見つめていた。



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