土 曜 日
CD-21-ふたり
背景-神尾家居間-昼間
晴子に付き合わされた酒が、いまだに残っているようだった。
…結局、俺もあのまま居間で寝かせてもらった。
往人(なんだかんだいって、一度も納屋で眠らずに済んじまったんだな)
背景-神尾家台所-昼間
台所に来てみたはいいが、まだ朝飯の準備はされていなかった。
早すぎたのか?と思って時計を確認したが、もうすでに八時を回っている。
…ぐぅ〜…。
腹の虫が、容赦なく鳴った。
たった数日三食の生活をしただけで、朝飯を食わなければ腹が鳴るように慣らされてしまったようだ。
…っていうか、もしや遅すぎて片付けられたとか?
晴子「ぬうぇ〜…」
居間で寝ていたはずの晴子が、潰れたヒキガエルみたいなうめき声をあげつつ台所に入ってきた。
晴子「昨日は飲み過ぎたわ…」
冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、その口を開いて直接ごきゅごきゅ飲んでいた。
晴子「頭、むっちゃ痛いわー。二日酔いなんて、久々や…」
往人「もしかして、飯の当番はあんたなのか?」
晴子「ん? 家事は一日交代や。昨日はうちやったから…」
晴子はいま気づいたかのように、台所を見回す。
晴子「………」
晴子「…観雪は?」
往人「俺はさっき起きたばっかだが、見てないぞ」
俺が言い終えるより早く、晴子は台所を飛び出ていった。
黒画面
晴子「…観雪っ!?」
観雪「わっ」
ドタドタと走る晴子を追って、俺も観雪の部屋にはいった。
背景-観鈴の部屋-昼間
…そこは、観鈴の部屋だった。
俺の中にある十年前の記憶と、ほとんど変わらないまま。
観鈴はもともと子供っぽいヤツだったから、幼い観雪でも違和感なくこの部屋を受け入れられたのかもしれない。
あるいは、この部屋自体が死んだ母の気配を感じさせ、変えたいとは思わせなかったのだろうか。
晴子「観雪、だいじょぶかっ?」
観雪「だ、ダイジョブだよっ」
観雪「…じゃない、ちょっと熱っぽいかも!」
晴子「……?」
晴子はいぶかしげな表情を浮かべつつ、観雪に近寄っていく。
観雪はなにやら慌てた様子で、毛布を頭からかぶった。
晴子「…具合悪いんか?」
晴子は毛布をめくり、観雪の顔を出させる。
観雪「う〜ん、カゼかもー…」
晴子「そやなぁ、昨日クシャミしてたしなー」
観雪「うん、きっとカゼだよ」
晴子「………」
晴子は観雪の表情をうかがうようにして、しばらく見つめた。
そんな晴子の視線から逃れるように、観雪は目を泳がせる。
晴子「…そんじゃ、病院行こか?」
観雪「えっ!?」
晴子「診療所の女先生んとこ行って、ちゅーって注射してもらおかー」
観雪「だ、ダメだよっ! まだ朝早いもんっ。先生にめーわくだよっ」
晴子「風邪なんやろ? 立派な一大事や。あの先生なら診てくれはるわ」
観雪「だ、ダイジョブ、ねてればなおるよっ。あしたの夕方ぐらいにはぜったい!」
晴子「…なんや、やけに具体的やな」
観雪「あしたの夏祭りまでには、がんばってなおすもんっ」
晴子「…ところで観雪」
晴子「うちが部屋に入ったとき、なんか隠したやろ?」
観雪「か、かくしてない、かくしてないよっ」
晴子「見せてみ?」
観雪「う…。え、えと、お熱を計ってただけだもん…」
晴子「ふ〜ん、体温計か? そんじゃ、それ見せてみ」
観雪「…はい」
布団の中からピッと飛び出た観雪の手から、晴子は体温計を受け取る。
晴子「四十三度六分…」
晴子「って、そんなんやったら死んどるわアホちんっ!」
ドシュ…と容赦ないツッコミが、毛布からのぞいていた観雪の額に炸裂した。
観雪「あイタっ」
晴子「仮病つこぅとるってバレバレや!」
観雪「はう〜ん…」
晴子「病気やろぅがなんやろぅが、コイツは今日の夕方には出ていくんや」
往人「………」
晴子「コイツの靴や鞄を隠そうが、あんたが家出の真似っこしようが、うちはコイツを家から追い出す」
観雪「あうぅ、ぜんぶ読まれてるよ〜…」
晴子「約束なんやからな。おとなしくあきらめや」
晴子「…にしても、どうやって体温計こんなにしたんや?」
観雪「えと、冬から残ってた使いすてカイロでこすって…」
晴子「はぁ〜…」
晴子「あきれたわ、親子そろって同じことしよる」
観雪「え、観鈴お母さんもやったことあるの?」
晴子「そうや。学校ずる休みしたかったんか、同じことやりおった」
観雪「にはは、なんかちょっとうれしいかも」
晴子「うれしいもくそもあるかい、このアンポン娘がーっ!」
ぽかっ。
観雪「…あ、アンポン娘…?」
晴子「そや、アンポン娘や。一文字ちごたらエライことやで」
観雪「一文字って…」
観雪「…あんパン娘?」
晴子「そや、あんパン娘や」
晴子「…って違うがな!」
ズビシ!
往人「ぐふぉっ」
往人「…な、なぜ俺にツッコミが?」
晴子「あ、すまん。隣に立ってたんでつい…」
往人「つい、じゃねぇよゲフ、ゲフっ…」
まったくの無警戒だったんで、ムチャクチャ鮮やかに喰らった。
晴子「ほら、具合悪ないんなら、早よ布団から出んかい」
観雪「はぁーい…」
観雪はしぶしぶ、ベッドから這い出てきた。
晴子「まったく、いつからこんなワガママの嘘つきになってしもぅたんやか…」
観雪「ご、ごめ…なさぁい…」
晴子「ほな、朝飯はうちが作ったるから、観雪は…」
観雪「あ、ご飯は観雪が作るよっ!」
観雪「おとー…じゃない、ゆきとさんに、観雪のご飯食べてもらいたいな…」
晴子「はいはい、どっちでもええけど、うちはお茶漬けでな」
観雪「はぁ〜い…」
観雪がパタパタと部屋を出ていくのを見送った後、晴子は盛大にため息をついてみせた。
晴子「…まいったわ」
晴子「よもや数日で、観雪があんなに懐いてまうなんてな…」
往人「………」
晴子は、テーブルのうえに置いてあった首の長い恐竜の人形を拾いあげた。
それを胸にギュッと抱きしめながら、拗ねたような口調で言葉を紡いでいく。
晴子「あの子は、父親をほしがっとったからなぁ」
晴子「敬介じゃあかんかった…」
晴子「あ、敬介っちゅうんは、観鈴の実の父親や。んだから、観雪にとっちゃ祖父やな」
晴子「その敬介はちょくちょくウチに遊びに来てくれて、観雪もじーちゃんじーちゃん言うてけっこう懐いてるんやけど」
晴子「でもやっぱ、観雪にとって敬介は祖父どまりなんやろな」
晴子「たった数日前に会ったあんたを、お父さんなんて言いよるしなぁ…」
背景-神尾家台所-昼間
観雪「はぁ〜…」
観雪「う〜ん…」
観雪「ふぅ〜…」
九歳の子供が、何度も何度もため息をつきつつ、ご飯を食べている。
晴子は不機嫌そうな顔をして、そんな観雪に取り合わないようつとめていた。
晴子「………」
観雪「………」
往人「………」
背景-神尾家居間-昼間
観雪「ほんとに今日、行っちゃうの?」
往人「ああ、そのつもりだ」
観雪「空の女の子と、その子の夢を見る女の子を探すの?」
往人「ああ」
往人「俺はもう、どうでもいいとか思ったりもしたんだが…」
往人「…観鈴の望みだしな」
観雪「………」
往人「それと、ちっちゃな誰かさんの望みでもあるか」
観雪「…うん」
往人「必ず、見つけ出してやるさ」
観雪「…約束してくれる?」
往人「ああ。…でも、指切りはしないぞ」
観雪「なんで…?」
往人「おまえ、俺の心を読むじゃないか」
観雪「約束がホントだったら、指切りも問題ないはずなのに…」
往人「………」
往人「…いま、ものすごいエッチなこと考えてるんだ」
観雪「うそ」
往人「ホントだって」
観雪「うそだよ、ゆきとさん…」
往人「………」
…俺ひとりじゃあ、探し当てることなんて無理なんじゃないか。
そして、もし見つけ出すことが出来たとしても、救う方法なんてわからない。
…でも、観雪になら。
観雪「…ね、ゆきとさん」
往人「なんだ…?」
観雪「となり、すわっていい?」
往人「ああ…」
観雪「…エッチなこと、まだ考えてる?」
往人「さぁな…」
観雪「う〜ん…」
観雪は、膝をつかってよじよじ近寄ってきたかと思うと、俺の隣にピッタリと寄り添うように座った。
そうして俺を見上げるようにして、にぱっと笑いかけてきた。
俺たちは縁側の近くに座って、開け放たれた引き戸から見える景色を、見るでもなしに眺めつづけた。
背景-神尾家居間-昼間
…そして、時間はゆったりと過ぎていく。
夏の暑さをひきずっているかのように、のらりくらりと時は気怠く流れていった。
時刻は、三時すぎ。
観雪「ちょっと、おトイレー」
そう言って立ち上がり、パタパタと走りながら居間を出ていった。
…まるでそれを待っていたかのように、晴子が俺に話しかけてきた。
BGMストップ
晴子「…なあ、甲斐性なし」
往人「なんだ?」
晴子「………」
WAVE-あぶらゼミ
まったく涼しさを感じさせない風が、外からゆらりと流れこんできた。
…チリ…チリリ…ン…。
風鈴が涼やかな音を立て、かろうじて涼しさをまき散らす。
近所で高校野球のテレビ放送でも見ているのだろうか。風に乗って、そんな音が微かに聞こえた。
あれだけ強かった日差しも、少し弱まったかに見える。そして、じわじわと夕刻へと移り変わろうとする気配を感じられた。
晴子「…もう少し、ゆっくりしてってもええで」
往人「………」
晴子「観雪と一緒に、夏祭り迎えてやってくれんか…」
往人「晴子…」
晴子「あ、なんやったら…。うん、せや」
晴子「この町に出入り禁止とか約束させたけど、あれ撤回したってもええわ」
晴子「たまにでええから、観雪に会いに来てやってくれへん?」
往人「晴子…」
晴子の態度は、再会した頃とは比べようもないほどやわらいでいた。
俺を殴りつけて痛めた右手には、まだ白い包帯が巻かれている。
晴子の望みに応え、このまま月日を重ねていけば、俺を許してくれるのかもしれない。
しかし、俺は…。
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…そんな晴子の気持ちを、裏切ろうとしていた。
CD-14-双星
往人「…晴子」
往人「俺は、最低の男だ」
晴子「なんや…?」
往人「俺はあんたから…」
往人「あんたが、なによりも大切にしている観雪を…」
往人「…奪おうとしている」
晴子のなごやかだった顔つきが、音を立てるように怒りのそれに変じた。
青ざめ、強張った頬が小刻みに震える。
晴子「正気か、あんた…」
晴子「…約束はっ? うちと約束したやんかっ!」
往人「約束は守る」
往人「俺は今日、この町から出ていく」
往人「…観雪を連れて」
晴子「ざけんなっ!!」
座っていた晴子が、テーブルを平手で叩きながら、勢いよく立ち上がった。
晴子「約束とちゃうっ!」
往人「…誓ったとき、ここをひとりで出立するとは言ってない」
晴子「そんなんヘリクツやっ…!」
俺に投げつける物でも探そうとしたのか、周囲を見回す。
しかし適当な物が見つからなかったのか、包帯を巻いてない左手で俺につかみかかってきた。
俺はそれを立ちあがりながら避け、そして晴子の左手をつかみ取る。
晴子「こっ…のぉっ…!」
ついで、俺を叩こうと振り上げられた右手も、つかみ取った。
俺たちは至近距離で睨みあう。
晴子「あんたはっ…!」
晴子「あんたはまた、うちの信頼を裏切るんか!」
晴子が涙目になりながら、髪を振り乱す。
…バタン、と遠くからドアが閉まる音が聞こえた。
騒ぎを聞きつけたのか、観雪がバタバタと走ってくる。
往人「…選ぶのは、観雪だ」
晴子「なんやて!?」
往人「無理強いはできない」
往人「だから、観雪に選ばせる」
往人「俺についてくるか。それとも、このままここで暮らすか」
晴子「そんな権利、あんたなんかにあると思ってんのかっ!」
観雪「…どうしたのっ!?」
居間に観雪が駆け込んできた。
…それに気を取られた直後、頭に衝撃。
往人「ぐぁっ…!?」
晴子に頭突きをかまされたようだ。
その衝撃で、つかんでいた晴子の手首を離してしまう。
晴子「観雪っ!」
晴子は観雪の元に歩み寄り、そして俺から守ろうとでもするかのように、抱きしめた。
観雪「えっ…!?」
晴子に抱きしめられ、その激情を感じ取ったのか、観雪は目を大きく見開いて棒立ちになった。
往人「晴子、聞いてくれ」
晴子「聞く耳もたん!」
往人「聞くんだ、晴子っ」
往人「…観雪になら、空の少女を救えるかもしれない」
往人「観雪になら、観鈴と同じように空の夢を見る女の子を、救えるかもしれないんだ」
晴子「なに絵空事ぬかしとんねんっ!」
往人「あんたは、観鈴が言っていたことも絵空事だと言うのか? 観鈴の語ったことでも、偽りだったというのか?」
往人「じゃあ、観雪が聴く声はどうだ? あんたは、それを空耳だと言うのか?」
晴子「そ、それは…」
往人「晴子」
往人「もう一度言う。選ぶのは、観雪だ」
晴子「…ダメや」
往人「晴子…」
晴子「ダメっちゅうたら、ダメや!」
往人「…自信がないのか?」
晴子「なんやてっ?」
往人「あんたが観雪と培ってきた十年近い親子の絆を」
往人「あんたは、自信がないのか?」
晴子「んなわけあるか! うちらラブラブやっ!」
晴子「あんたがどう逆立ちしようが、観雪があんたを選ぶわけあらへんわっ!」
往人「…じゃあ、いいじゃないか」
晴子「くっ…」
俺を、視線で殺そうとでもするかのように強く睨みつけてくる晴子。
そんな晴子に抱きしめられ、目を見開いたまま身動きできない観雪。
…こんな場面へと導いておいて、それでもまだ、俺の心は迷っていた。
往人「こんなことを言ったものの、正直、俺も迷っているんだ…」
往人「観雪に、空の少女を救ってほしい。そして観雪になら、きっと救える」
往人「…けど、それを成し遂げる旅は並大抵のことじゃない。生半可じゃつとまらないんだ」
往人「だから、それでも観雪が俺についてきてくれるか、確かめたい」
往人「けれど、できればこのまま、あんたの側で穏やかに暮らしていてほしいという気持ちもあるんだ…」
往人「この数日、ずっと考えていた」
往人「…でも結局、俺には選べなかった」
往人「どちらがいいかなんて、俺にはわからなかった」
往人「だから…」
往人「…観雪に選んでもらう」
俺は、観雪の瞳をのぞきこむように見つめる。
往人「観雪…」
往人「おまえに、選んでほしい」
往人「俺は、おまえの選択に従うよ。決して、文句は言わない」
往人「おまえがこの町で暮らしていたいというのなら、俺はなにも言わずに立ち去る」
往人「けど…」
往人「けどもし、俺と一緒に旅をすることを選んでくれるのなら…」
往人「俺にはそれを強制する権利なんてないから、それはおまえが決めるんだ」
往人「…観雪」
往人「選んでくれないか…?」
観雪「そ、そんな…」
俺の言葉と、そして晴子の感情から、観雪は怯えるように震えていた。
観雪「そんな急に言われても…」
観雪「わ、わかんないもん。え、えらべないようっ…」
晴子「なにを…」
晴子は信じられないといった顔つきで、観雪の肩をつかんで前後に揺すった。
晴子「なにを迷う必要があるんや!?」
晴子「いまのままでええやないの!」
晴子「うちを選べばいいんや!」
晴子「うちと一緒に暮らそ?」
晴子「それでええんよっ!」
晴子「それでええやん!」
観雪「…ママ、痛い」
晴子「あぅ、ごめ…。堪忍や、観雪」
晴子が慌てて観雪の肩を離すと、観雪はふらふらと後ずさる。
そうして、顔を隠すように両手で覆い、観雪はその場で立ち尽くした。
晴子「…観雪?」
往人「観雪…」
観雪「やめて…」
観雪はイヤイヤと顔を振りながら、俺と晴子から距離を置こうと後ずさっていった。
観雪「やめてよぅ…」
晴子「………」
往人「………」
俺は、近くに置いてあった自分のバッグを、ゆっくりと拾いあげた。
それ以外に、荷物はない。これだけ持てば、もう、どこにでも旅立てる。
往人「…観雪、聞いてくれ」
ビク…と、俺の言葉に観雪の肩が震えた。
往人「旅は、キツイ…」
往人「旅に出ても、一年や二年じゃ、この町には戻ってこれない」
往人「そんな規則正しいもんじゃないし、数年は帰ってこれないだろう」
往人「…いや、そもそも、帰ることを考えながらするようなもんじゃないんだ」
往人「そして、もし俺がいなくなっても、おまえひとりで旅をするようにならなければ意味がない」
往人「俺がいなくなってひとりで寂しいからって、この町に戻ってくるようなら、意味がないんだ」
往人「それなら旅なんかしないで、このまま、ここで穏やかに暮らしていたほうがいい」
往人「…観雪」
往人「おまえは、このことを忘れてもいい」
往人「俺のことや、空の少女のことなんて、忘れてもいいんだ」
往人「ふつうに生きて、生活して、学校行って、友だちと遊んで、男と恋でもして、結婚して、家庭を作って…」
往人「…寒さに震える必要も、ひもじさに耐える必要も、寂しさに泣く必要もないんだ」
観雪「………」
BGMストップ
WAVE-ヒグラシ-小
観雪が、顔を覆っていた両手を、下ろす。
その顔は、すでにもう、涙でくしゃくしゃになっていた。
睨みつけるような視線を空中に向け、しばらくそのまま直立していた。
晴子「…観雪?」
往人「観雪…」
観雪「………」
観雪は、ふらりと倒れるように歩きはじめた。
…晴子に向かって。
往人「………」
晴子「観雪っ!」
晴子は目に涙を浮かべながら、満面の微笑みを浮かべ、観雪を両手で迎えた。
そんな晴子に、観雪はギュッと抱きついた。
観雪「………」
BGMストップ
黒画面
観雪「…ママ、ごめんなさい」
ひっ…!という息を飲む音とともに、晴子の瞳が見開かれ、輝きを失った。
CD-20-銀色
背景-神尾家居間-昼間
両手で抱きしめてきた晴子の腕を、観雪はかいくぐって逃れる。
そして、とてとてと俺の元に歩んできた。
観雪「…お父さん、連れていってください」
往人「………」
俺は、歯の根がつかないような震えにとらわれた。
ギュッと歯を噛みしめ、平常を保とうとする。
観雪を見下ろしながら、視界の隅で、晴子がゆっくりとひざまづくのが見て取れた。
晴子の放心したような表情から、俺は意識をもぎ離す。
往人「馬鹿だな、おまえは…」
俺は胸を圧迫するなにかを押し出すように、全身でため息をつきつつ、言った。
近づいてきた観雪の頭に、ぽん、と手を置いた。
往人「何年も帰ってこれないかもしれないんだぞ」
観雪「…うん」
往人「もう、友だちと遊べないかもしれないんだぞ?」
観雪「…うん、がまんする」
往人「夏祭りはどうするんだ? あんなに楽しみにしてたじゃないか」
観雪「…うん、それもがまんする」
往人「学校の宿題はどうするんだ? 朝顔、まだ咲いてないだろ…?」
観雪「…うん、でもいい」
往人「暑かったり寒かったり、腹減ったり、雨に濡れたり…」
観雪「…うん、がんばる」
往人「晴子と…おまえのママと、もう一緒にいられないんだぞ…?」
観雪「………」
観雪「…それでも、行かなきゃいけないの」
観雪「ううん、観雪が行きたいって思うの」
往人「………」
俺は、天井を仰いだ。
往人「…わかった」
往人「背負える鞄に、必要最小限の荷物を詰めてこい」
往人「五分で支度しろ」
観雪「はいっ」
観雪が、バタバタと居間から駆けていった。
俺はその後を追って、観雪の部屋に向かった。
背景-観鈴の部屋-昼間
鞄の中におもちゃでも詰めているようなら、ふざけるなと叱りとばすつもりだった。
ところが観雪は、余分な物を一切いれていなかった。
衣類の替えを少し、財布と貯金通帳、歯ブラシやクシ、カッターに鋏、ちょっとした筆記具。
…観雪は、どこまでも本気だった。
晴子「な、なんでや…」
ふらふらとよろめきながら、晴子が部屋にはいってきた。
晴子「なんでなんや観雪ぃっ…!?」
観雪は苦しそうに、その幼い表情を歪める。
…しかしその手は休むことなく、荷物を詰め込んでいく。
その観雪の仕草に、晴子は信じられないといった表情を浮かべ、ただ呆然と眺めていた。
往人「…観雪」
往人「旅にその長い髪は邪魔だ。切れるか?」
観雪「…うん、切れる」
鞄に詰めようとしていた鋏を、観雪は手に持った。
そうして、後ろで縛っていた長い髪をぐいっと前に引っ張り、束になっているところに鋏を持っていった。
晴子「や、やめてっ…!」
それを見て、晴子が悲鳴をあげる。
観雪はキュッと目をつぶりながら、鋏を動かした。
ギリ…ギリリ…ギリ…。
鈍い音を立てながら、長かった観雪の髪が切れ、ハラハラと床に流れ落ちた。
晴子「あぁ…ああぁあ…」
晴子が顔を覆って泣き出した。
観雪「…切ったよ、お父さん」
往人「ああ…」
乱暴に切ったため、あんなに綺麗だった頭髪がバラバラになってしまった。
晴子「なんでや…」
晴子「十年近くで築いてきた絆よりも、ほんとうの親子の絆のほうが強かったっていうんか…?」
晴子は、涙を散らしながら叫んだ。
晴子「…血の絆のほうが強いっていうんかっ!?」
往人「晴子…」
晴子「うっさいっ! あんたの声なんて聞きとうないっ、聞きとうないわっ!」
観雪「…ママ」
観雪は荷物が詰め終わったらしく、衣類をギュッと押し込んだ後、鞄の締め具を閉じた。
観雪「ごめんね、どうしても行かなきゃいけないんだよ…」
観雪は鞄を背負い、晴子を正面から見つめた。
その瞳は涙で潤んでいたが、そこに迷いはなかった。
晴子「…けっきょく、実の母親じゃなかったうちには、観雪と絆なんて育てられへんかったんかな…」
観雪「ち、ちがうよママ!」
晴子「なんなんや、うちの九年…」
グッタリと、床に座り込む晴子。
晴子「観雪とふたりして、ちゃんと親子やれてると思ぅとったのに…」
晴子「そんなん、うちの独りよがりやったんやな」
晴子「幻想やったんや…」
晴子「観鈴と十一年、観雪と九年…」
晴子「もう二十年も母親やったのに、ぜんぜんつとめきれてなかったんや」
往人「…違う、晴子」
往人「あんたは、確かに観雪の母親だ」
往人「産みの母親じゃなくったって、あんたは間違いなく、観雪の母親だよ」
晴子「………」
観雪「…ママ」
床に座り込んで泣いている晴子に、観雪は鞄を持ったまま抱きついた。
そうして晴子の感情にとらわれたのか、それともこの別れを悲しんでか、観雪も大粒の涙をこぼす。
観雪「帰ってくるから…」
観雪「ぜったいぜったい、帰ってくるから…!」
観雪「だからママ、元気でまってて…」
晴子「………」
泣きじゃくる晴子の額に、観雪はそっと唇を押し当てた。
観雪「ママ、行ってきます…」
観雪は晴子から身を離し、すっくと立ち上がった。
観雪「…行こう、お父さん」
往人「ああ…」
晴子の横を通り抜け、俺たちは部屋から出ていった。
背景-神尾家前-夕方
背後から、晴子の慟哭が聞こえてきた。
身を切られるような悲しい泣き声を背に、俺たちは旅立った。
WAVE-ヒグラシ
背景-商店街-夕方
神尾家を後にし、俺たちは商店街まで来た。
電車かバスでも使おうかと思っていたが、まず観雪に旅慣れさせるために、しばらくは徒歩で旅をすることに決めた。
観雪には少し重そうな鞄を、その小さな身体に背負っている。
夕日に照らされた観雪のそんな姿は、どこか頼りなげで、そして悲しみを感じられた。
側に付き従ってくる観雪の頭を、俺はそっと撫でてやる。
観雪が俺のことを見上げ、視線が絡み合う。
…これで、ほんとうによかったんだろうか。
俺のそんな心配を読みとってか、観雪はニッコリと微笑みを咲かせた。
観雪「行こ、お父さん?」
往人「ああ」
往人「…長いぞ?」
観雪「うん、わかってる」
観雪「ね、まずはどこにいくの?」
往人「そうだな…」
往人「観雪は、どこにいきたい?」
観雪「う〜ん…」
往人「方角とかでもいいんだ」
往人「おまえの気の向くまま、日本中を旅してみよう」
観雪「う〜ん、それじゃあ…」
観雪「…南」
往人「南か?」
観雪「うん」
観雪「観雪ね、夏が好きだから…」
観雪「だから、夏を追いかけてみたいな」
往人「そっか」
往人「…よし、わかった」
隣に立つ観雪に手を差し出す。
俺の手を、観雪の小さな手がキュッと握りしめてきた。
往人「じゃ、いくか」
観雪「うんっ」
俺たちは手をつないで、南へ向けて歩き出した。
背景-夕焼け空1
CD-24-青空
…夏を、追いかけて。
エンディング
◇