(とっても綺麗な、絵になるような光景なのに。……なんだかとても、悲しいのですよ)
 瑞穂とまりやが抱き締め合っている姿を見て、周防院奏はそう感じた。

「お姉さま……」
 隣に居る由佳里も同じように感じているのか、目に涙を浮かべていた。

 迫り来る演技に恐れている由佳里を元気づけようと、奏は手を繋いでいた。
 その繋いでいる由佳里の手に、少しだけ力が篭もるのを感じ取れた。

「……お互いに大切に思っているのに、どうして離れなくちゃいけないのかな……」
 濡れた声で、思わずといった感じで由佳里がそう云った。

「それが、恵泉を卒業して大人になる……っていう、ことなのかもしれないのです」
「卒業……巣立ち、か……」
「奏たちにとって、とても強くて頼りになるお姉さまたちでも……。ここを離れていくのは怖いことだし、寂しいことなのかもしれないのですよ」
「そうだね……私たち以上に、お姉さまたちのほうが辛いのかも知れない」
「でもだからこそ、此処にいた時間を大切な想い出として、この後、頑張ろうとしているのかもしれません」
「大切な、想い出……」

 由佳里の目は、少しずつだけれど怯えの色がなくなってきていた。
 お姉さまたちだって辛いのに、自分ばかり悲しんでいてはいけない。
 そんな風に気持ちが持ち上がっている様を、隣に居る奏は感じ取ることが出来た。

 ……由佳里を励まそうとしている奏にしても、上級生たちとの別れは寂しい。
 由佳里の気持ちをなんとか上向きにしようと頑張っているおかげでそれを意識することは少ないものの、ふと心の隙をついて、寂しさに涙してしまいそうになる。

(ほんとうに……ほんとうに、素敵なお姉さまたち。たった一年の此処での生活が、かけがえのない想い出のように思えるのですよ)

 目を閉じれば、優しい上級生たちとの想い出が鮮明に蘇る。

 学生寮でまりやに迎えられ。
 演劇部部長の圭に鍛えられ。
 五月に瑞穂が転校してきて。
 瑞穂の部屋で一子と出会い。
 瑞穂の縁で紫苑と知り合い。
 騒動を経て貴子に理解され。

(……そんなお姉さまたちが、あと数日もすればいなくなってしまう)

 振り返ってみれば、奏の傍にはいつも年上の女性たちが居た。

 孤児院での生活でもそうだったのだけれど、奏は大人受けされる。
 それは、先生たちに可愛がられるようにと演技を心がけてきたということもあった。
 ……親の居ない自分が、年上の人たちに庇護を求めるように。

 奏自身は、それと気づいて自分が嫌になることもあったけれど、優しくしてもらえるのはとても心地よかった。

 大人受けする反面、奏には同年代の友人というのが極端に少ない。
 いつも年上の人たちと行動することが多いのだから、それもしょうがないことなのかもしれない。
 ……だから。

(だから、奏の横で一緒になって歩いてくれる由佳里ちゃんのことが、とても大切に感じるのですよ)

 お互いになにも知らない状態で、学生寮で出会った。
 おずおずといった感じで手探りで交友を結び、いつしか理解しあい、互いを支え合うようになっていた。
 クラスは違えど、同じ寮生活というのは時間を共有するという意味で大きい。

 年上の人に甘えるのではなく。
 友達に頼り、そして頼られ、互いを支え合っていくことを意識させてくれたのは、この恵泉で由佳里と一緒になってからかも知れない。

『奏ちゃんには、誰かを頼るよりも、頼られるような子になって欲しいなって』
 ……一足先に恵泉を「卒業」していった一子の言葉。



 巣立つということを自覚した一子が、最後に自分に託した言葉。
 ……それは、遺言。

『奏ちゃんには、お姉さまとまりやさん、そして由佳里ちゃんを……。周りのみんなを助けてあげて欲しいの』
『……そんなの……一子さん、そんなの奏には、無理なのですよぅ……』
『お姉さまは完璧なようでいて抜けているところがあったり。まりやさんは強いようでいて妙に弱かったり。そして由佳里ちゃんは、まだ自分がなにをすべきかわからない、目覚める前の雛みたいな子だから』

 奏は、そんな遺言を残そうとする一子をずるいと思った。

 まだ自分にも、助けが必要なのに。
 誰かを頼らせて欲しいのに。
 なによりも、一子に傍に居て欲しいのに。

『みんなを助けるだなんて……奏はいつだって、誰かに頼ってばかりなのに……』
『だからなの、奏ちゃん。奏ちゃんには、誰かを頼るよりも、頼られる子になって欲しいなって。奏ちゃんは、みんなの中でいちばんしっかりと自分を持っている人だから……』

 一子は、最後に自分を頼ったのだ。
 誰よりも小さくて、誰よりも弱そうな自分なのに……。

 ……大切な人が、最後に残してくれた言葉。
 だから奏は、それに出来るだけ応えたいと強く思っていた。



 そうしてもうひとり、自分を頼ってくれる、大切な人。

 ……もちろん、奏も由佳里を頼ることがある。

 たとえば、料理。
 調理実習や、去年の学院祭で行われた出し物などでその腕前を発揮し、由佳里がクラスメイトたちから頼られているのを見たことがある。
 その腕前は、この年の女の子たちの平均を、遙かに上回っている。

 たとえば、運動。
 どうしても出来なかった体育実習で、一緒に居残り、最後まで付き合ってくれた。
 陸上部で頑張ってるだけあって、運動能力はとても高い。

 たとえば、真面目なところ。努力家なところ。潔癖なところ。元気なところ。
 いままで人前で目立つようなことは少なかったけれど、由佳里は多くの魅力とポテンシャルを持っている。
 それを発揮する機会と……多分、自分自身に迷いを持っていることが由佳里を止まらせているのではないかと、奏は思っていた。

 なにかひとつのことに専念すれば、由佳里はかなりの実力を示すはずだ。
 奏が思うに……それは多分、由佳里が誰かのために動こうとするとき最大限に発揮される。

 誰かのために美味しい料理を作ってあげたいと思ったとき。
 陸上部の部長だったまりやのように、部活の仲間のために頑張ったとき。
 クラスメイトに頼られ、照れながらもその期待に応えようとするとき。

 ……誰かのために、頑張る。

 そんな由佳里には、もしかしたら……。
 奏が密かに憧れている貴子のように、生徒会などでみんなのために働きでもしたら、すごいことになるかもしれない。

 そう思った奏は、由佳里の横に立って、同じように舞台袖からまりやの演技を観ていたはずの貴子にふと視線をめぐらせた。

「……はやや」
「どうしたの、奏ちゃん?」
「か、会長さんの様子が、なにやらおかしいのですよっ」
「ええっ?」

 見れば、貴子の顔は真っ赤になっていて、その額に汗をかいている。
 右手は口に、左手は腹部をおさえるように当てられている。
 少し前屈みの姿勢になっていて、その眉は切なそうに歪められ、その目はただ一点を見つめているようだった。

 その視線を追うと……。
 すでに垂れ幕が降りているはずなのに、舞台中央で瑞穂、まりや、圭、それに新生徒会メンバーと緋紗子たちとが、なにやら集まっていた。

「……それでいったい何事なのですか? まりやさまの指示通りに関係者一同を集めましたが……」
 案内役である君枝が、小首を傾げつつそう云っていた。

「むむ……まりやさんも往生際が悪いわね。先ほどの舞台中止に対して、文句を云おうというのかしら?」
「いや、まあ、そうではなくって……ええっとぉ……」
 演劇部で一緒になっていたからわかるような微妙な変化で、圭は怪訝な表情を浮かべていた。
 それに対してまりやは、なんだか落ち着かない様子で舞台周辺を見回していた。

 ……そうして貴子の様子に気づいたらしく、ニヤリとひとつ笑って、まりやは貴子を指さした。

「そう、そうなのよっ。貴子さんの様子が、なんだかおかしいの!」
「「えっ?」」

 その場にいた全員が、一斉に貴子を見つめる。
 ……確かに、傍目でもおかしいぐらい、貴子の顔は赤くなっていた。

「か、会長……?」
「確かに、顔色が尋常じゃないわね」
「……あれはただ、さっきのキスシーンを見て赤面しているだけじゃないの?」

「な、なななな、なずぇ」
 自分に視線が集中するのに気づいて、貴子は慌てて背筋を正す。
 しかしその赤く染まる頬までは元に戻らない。
「なずぇみなさん、わわわたくしのことを、見てるんでぃすか!」

「確かに今の会長はおかしいですね。顔は強張っているし、滑舌も悪くなっています」
「わ、わたくしは別に問題ないですわっ! この私が退くわけには、参りませんもの!」
 そう気丈に云ってみせる貴子だったが、その身体はふらふらと前後に揺れているし、その目はせわしなく、瑞穂に向けられたり誰もいない宙に逃げたりと落ち着き無い。

「……あと、もう少し」
 圭がニッと笑いつつ、まりやの横に並んでいた。

「なにがです?」
 なにやらすっとぼけた表情で云ってのけるまりや。

「会長……もう少しで爆発してくれそうよ」
「……ちょっといまは、気分じゃない」
 まりやはそう云って、口をおさえつつ俯いた。
 それはまるで、先ほどのキスの余韻を楽しむような仕草で……。

「これはこれは、まりやさんも意外と乙女心を……。まあいいわ。それではこのあたしが、遠慮無く……」
「……圭さんは、このような場でもサディストですわね」
「血が騒ぐというものよ……」
 カッと、圭は足音高く踏み出した。

 生徒会メンバーが、心配そうに貴子を取り囲む中。
 そんな貴子の正面に圭は歩み寄り、ビシッとその指を突き付けた。

「……その様子ですと、会長もすでにおわかりになっているようですね?」
「ももも、もちろんですわ! こ、このわたくしが優勝するためには……小鳥遊さんとまりやさんに勝つには……」
 覚悟を決めたのか、貴子はぐっと背筋を伸ばし、胸を張った。
「きききキッスを……お姉さまとキッスをしなければ、勝利など望めませんわっ!!」

 おおおーっと、怒濤にも似た歓声があがる。

 あれ?と、奏はなんだか違和感を覚えた。
 いまの貴子の言葉で、確かにこの場にいるメンバーは驚いたようだったけれど……。

「……まあ。私はすでに優勝候補には見なされていないようですわね」
 いつの間にか奏と由佳里の隣にいた紫苑が、困った顔をしてため息をついていた。

「そうですとも、私はもう覚悟を決めました! 舞台のうえで、お、おおおお姉さまとキッスを……キスをすれば、よろしいのでしょうっ!?」
 なんだかもう、なにがなにやらわからないようなやけっぱちのような状態で貴子は叫んでいた。
 それに対して、貴子を落ち着けようと囲む輪に瑞穂も加わる。

「た、貴子さん……。とりあえずその、落ち着いて……?」
「ああ、お姉さま……そ、そのような眼で、私のことを見ないでください……。これはそう、そうなのです、演技なのですから! 演技ですわっ!」

 感極まっている状態の貴子と、困惑した顔の瑞穂と、ふたりの肩に手を当てつつ。
 圭が、ここぞとばかりに話に割り込んできた。

「……会長も本望でしょう。ファーストキスだけでなく、セカンドキスも瑞穂さんに捧げられるのですから」
「「!?」」
 圭の言葉で、黄色い歓声があがった。
 貴子はと云えば、もはや酸欠状態のように口をぱくぱくと開け閉めしていた。

 あれ?と奏はまたもや違和感を抱いて、ふと思い立って舞台袖から垂れ幕をめくろうとする。
 そんな奏の動きに気づいたのか、まりやがなにやら慌てて、奏を制止しに来た。

「……まりやお姉さま?」
 そう問いかけるのだけれど、まりやは黙って、その唇に指を一本立てて見せた。

「た、貴子さん……。学院祭でのトラブルのあれは……。まりやが云っていたことは当てずっぽうだと思っていたけど……ほんとにファーストキスだったんですね」
「そ、そそそそれは……」
 瑞穂が沈痛な面もちで、貴子の腕を取る。
 ますます、貴子の落ち着きが無くなっていく。

「以前も謝ったけれど……貴子さん、ほんとうにごめんなさい……」
「あ、謝らないでくださいっ! そんな風に謝られてしまうと自分が惨めに思えてしまいます。なぜならあれは……私にとって、私にとって……」
 貴子は、切なすぎて泣きそうな顔をしたままで、瑞穂の手を取った。
「……この恵泉での、掛け替えのない想い出になっているのですからっ!」

 とうとう云ってしまった、という感じで。
 むしろ晴れ晴れしい様子で、貴子は気を持ち直そうとしていた。

 それを見て、圭は思索を巡らす様子で腕組みをしている。
「……後もう少しなのに……攻め手が足りないわね。ちょっとまりやさん、いい加減に手を貸して欲しいわね」
「なにをですか、圭さん?」
「だから、会長を追い落とす策を……って、むむっ?」

 なにかに気づいたのか、圭は垂れ幕に駆け寄った。
 大げさに肩をすくめて見せるまりやの横で、垂れ幕をめくる圭。

『……女同士だったのだし、舞台のうえでのことだったのだから、あれはノーカウントでも済ませられるかもしれません』
『そ、そんなっ、お姉さま……それでは、あまりに……って、あれ?』

 この舞台上で交わされている会話が、まるごと、会場に流れていた。
 貴子の告白めいた会話に、会場が異様な盛り上がりを見せているようだった。

『なんだか会場から声が……ええっ!?』

 ブツっというぶった切るような音共に、スピーカーから漏れ出ていた貴子の声が、途絶えた。

「ごめーん。なんだかマイクがオンになっちゃってたみたーい」
 まりやが、胸に付けられていたハンドレスマイクをつまんで、にこやかにそう云ってのけた。

「じゃ、じゃじゃじゃじゃあ、いままでのわ、わたくしの言葉が、全部、会場にっ……!?」
「漏れなく流れてたかも〜?」
「……っ!?」

 ダダダっと、淑女の嗜みも忘れて駆け寄り、貴子は小豆色の垂れ幕をめくった。
 会場は暗く、舞台のうえは照明で明るいので、垂れ幕をめくると光が漏れ出る。
 なので会場からは、垂れ幕がめくられて会場を見る貴子の姿がばっちり見えていた。
 ……そしてわきあがる、会長コール。

「「会長、可愛いい〜っ!」」
「「貴子お姉さまぁ〜」」
「「セカンドキッス〜っ!」」
「「お姉さまとのキス、がんばってくださ〜い」」

 きゃーーっという黄色い歓声とともに、止まることのない声援が貴子を襲った。
 口を閉じるのも忘れて、貴子は全身をブルブルと震わせていた。

「わ、わたくしのぉ、じゅ、十八年間積み重ねてきた、清く正しい厳島貴子像がっ……!」

 よろよろと後退し、白目を剥きつつ「きゅうぅ」と一声呻いて、とうとう貴子は倒れてしまった。

「か、会長っ!」
「貴子さんっ!」

 よっしゃあ!と、恵泉の女生徒らしからぬ様子で、まりやが指をパチンと鳴らした。

「た、貴子さん、大丈夫ですかっ!?」
 慌てて駆け寄り、仰向けに倒れている貴子の頭に手をやって起こす瑞穂。
 どこかで打ったのか、あるいは血の気が多いからか、貴子の鼻から血が流れていた。

「……み、瑞穂……お姉さま……」
「貴子さん、しっかりして!」
 貴子の震える右手が持ち上げられるのを見て、瑞穂がしっかりと握り返す。
「……お姉さま……世界を……世界を、手に入れてくださいませ……」
「貴子さん、気をしっかりっ。貴子、さーーんっっ!!」

 ガクリと、貴子の首が横に倒れ、とうとう気を失ってしまった。
 その顔は、なぜだかとても、満ち足りた表情をしていた……。

「……巨星、墜つ」
「さすが貴子。我がライバルながら、見事な散りっぷりね」
 圭とまりやが腕組みをしつつ、そんな貴子のことを見下ろしていた。

「……謀ったわね、まりやさん」
「あぁら、なんのことかしら?」
 ごごごごご、と凄味のある笑みを浮かべてみせる圭に対して、まりやは飄然と返す。
「会長を潰し、その潰す策略を巡らすあたしのことを会場に知らせて得票を下げるとは……まさに一石二鳥。自分の得票を増やすことは出来なくても、他者の得票を下げれば良いのだから……。さらに、生徒会メンバー全員を招集して、会場へのマイク漏れの発覚を遅らせる前準備。……この、策士めが」
「んっふふふ」
「……沈黙を美徳とするこのあたしが……少々はしゃぎ過ぎたようね」

 そんなふたりの会話が耳に入ったのか。
 鼻に詰め物をされてタンカで運ばれていく貴子を見送った後、瑞穂がふたりに詰め寄った。

「ちょっとまりやっ、圭さんもっ! どうして最後ぐらい仲良くできないのっ!?」
「だってぇ〜」
「……ふむ」

 ふたりの煮えきれない態度に、瑞穂が両手を胸の前で拳にして、震わせた。

「……私、ほんとに怒るからね?」
「うわ」
「むむ」

 真剣風味の混じった瑞穂の顔に、まりやは慌てて頭を下げた。

「ご、ごめん、瑞穂ちゃん。だってぇ、あたしとキスしたばっかりなのに、すぐ貴子にキスされたんじゃあ、なんだか……瑞穂ちゃんを通じての間接キッスみたいでぇ〜」
「もう、まりやってば……」
 でへへ、と云った感じで謝るまりやに、しょうがないなあ、といった顔つきの瑞穂。

「まりやも、それに圭さんも。あとで貴子さんに謝るんだからね? いい?」
「はぁ〜い……」
「……むむむ」
 納得しなさげな顔をする圭に、瑞穂がムッと眉を寄せる。
 慌てて、そんな圭を小突くまりや。

「ちょっと圭ってば、謝っときなさいよ!」
「……けど、あれは会長の自滅だし……」
「瑞穂ちゃん、怒ると怖いんだから!」
「……むむむ」

 なおも納得しなさげな圭だったが、瑞穂の顔を改めて見て、ちょっと怯む。

「……わ、わかりました。あたしも、その……謝っておきます」
「うん、よろしい」
 一転、にっこりと笑う瑞穂に、圭は少し後退っていた。

「……前から思ってたんだけど、瑞穂さんってば美智子に似てるところがあるわ」
「なにか云った、圭さん?」
「いいえ、独り言です……」



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