「……これが最後の機会なのかも……しれませんわね」
その思考の海からこぼれ落ちるようにして、十条紫苑の口が動いて言葉を紡いだ。
舞台袖から、反対側にいる瑞穂のことをそっと見つめる。
こちらに気づく様子もなく、緋紗子と葉子のふたりと打ち合わせをしているようだった。
(……瑞穂さんは、強くなった。
十ヶ月前に出会った時に比べると、それはまるで別人のように)
「紫苑さま、そろそろ準備はよろしいでしょうか? 告白相手である瑞穂お姉さまに、なにか演技の際の打ち合わせなど必要でしたら、いまのうちに……」
案内役の君枝が、おずおずといった様子で話し掛けてきた。
それに対して、紫苑は微笑みながらしっかりと頷き返す。
「すべてアドリブで構いませんわ。こちらの準備は出来ていますので、いつでも」
……休憩時間ということもあって照明を多くつけられ、明るくなっていた体育館。
それが、映画館で映画を上映する直前に照明を落としていくのと同じように、ゆっくりと暗くなっていった。
『……休憩時間は終了です。いまより二分後に、恵泉ミス・ミスターコンテストの決勝を開始します。出場者は予選を勝ち抜いた上位五名。その五人のうちひとりにのみ投票することが可能となります。決勝では、出場者とお姉さまとの一対一での告白の演技。制限時間は四分となり……』
体育館である会場のざわめきが次第に小さくなっていく。
その代わりに大きくなっていく、参加者たちの期待感。
会場からの熱気に怯むことはない紫苑だったが……。
暗くなっていく舞台の中央に、瑞穂がひとり残されるのを見て、心が揺らいだ。
これから舞台袖より出て、その中央にいる瑞穂に歩み寄り、告白の……演技をする。
(……当初は迷いや戸惑いに囚われがちだった柔らかい心が、いまはもう、すっきりと晴れた空のように広く、清く、そして力強い。
それでいて、元の優しさ、柔らかさは失われていない。
まったく変わらず、常に過去に縛られ未来を恐れ、時が止まってしまえば良いのにと願って停滞している私とは大違いですわね……)
黒い男子用学生服に付いたシワを手で伸ばす。
乱れてもいない頭髪を手で撫でた後、うなじ付近で髪を縛りつけている恵泉の赤リボンをキュッと締め直す。
顎を心もち引き締め、眼に少し力をいれる。
「……紫苑さま、それでは参ります。よろしいですね?」
最後の確認、といった感じで君枝が聞いてきたので、今度は黙ったまま紫苑は頷き返した。
『決勝、エントリーナンバー1。三年の十条紫苑さま……!』
君枝の声とともに、舞台の幕がするすると上がっていく。
舞台袖から紫苑が一歩踏み出すのと、会場から歓声があがるのと、いったいどちらが先だっただろうか。
薄暗くなった体育館の中。
ただふたり、瑞穂と紫苑のみが優しく淡いライトで照らし出されていた。
(……最初は、ただの興味。
男性である瑞穂さんが偽って、女子校であるこの恵泉に来た時、それを糾弾すれば追い出すことも容易だったでしょう。
穏やかで変わらぬ日常の中、なにか変化を求めて……彼を受け入れようと思ったのかしら。
それともあるいは、なにか予感でもあったのでしょうか……)
舞台の中央付近にいる瑞穂が、うっすらと微笑みながらこちらを見つめている。
この場にいる誰が、瑞穂のことを男性だと思うだろうか。
恵泉の誰よりも女性らしく、誰よりも優しく、そして誰よりも気高い。
その相貌の美しさも、柔らかな長い髪も、すらりとした手足も、穏やかな声も。
人の感情や雰囲気を敏感に感じ取ることが得意な紫苑にしてみれば、外見などおまけに過ぎない。
紫苑が惹かれたのは、その瑞穂を構築する、ただひとつの中心。
精神……心、だった。
(……今ではもう、代わりのきかないほどに大きな存在になってしまっている。
けど、それは私からだけなのでしょうね。
私にとってあなたは特別な存在だけれど、あなたにとって私は特別ではないのでしょう……)
会場からわきあがっていた歓声が、全て止んでいた。
舞台袖から動かぬ紫苑に戸惑い、ざわめきが生まれようとするかと思われたその時、紫苑の右手がゆっくりと瑞穂相手に伸ばされ、その赤く濡れた唇から言葉が流れ出た。
静から動へ。
そのタイミングは絶妙で、紫苑は知り得なかったが、舞台袖で観ていた圭が小さく唸った。
期待が不安に変わりはじめた瞬間に動き出して、観客の意識を集中させる。
それは効果的であるが狙うのはとても難しく、いま紫苑が行ったそれは、おそらく天性の勘によるものだろう。
目の前の舞台に集中しようとしてか、会場には私語によるざわめきも消えていた。
「覚えていますか? 私たちが初めて出会った、あの時のことを……」
ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、紫苑は瑞穂に向けて歩いていく。
「忘れることなど出来ません。あの桜並木の下で、私たちは出会った」
紫苑の問いに、瑞穂がそのよく通る声で答えた。
「五月の優しい風が吹く中、私たちはあそこで出会った。あの並木道に桜の花が咲く頃……」
紫苑と瑞穂の言葉に、会場に居た全員が、恵泉女学院の並木道をその脳裏に描いた。
誰もが、毎日のように歩いてきたその馴染んだ景色を。
そうして、その並木道に桜が咲き乱れる光景を描き出すことだろう。
「……桜の花が咲く頃、私たちはここを巣立ち、別れていくことになるでしょう」
紫苑は、その右手に拳を作り、胸にその手を当てながら言葉を紡いだ。
その言葉に、会場のあちこちで小さな啜り泣きが生まれた。
それは周りに知られぬように、あるいは迷惑を掛けないようにと、押し殺した感じのもので……。
誰しもが、目前に迫っている別れを、桜咲く卒業式を意識させられる。
(……本当に、不思議な人。
この人に頼れば、なんとかしてくれるのではないかという絶対的な信頼感。
私の……私の心が、揺らめいている……)
紫苑は口をつぐんだまま、瑞穂を見つめ続ける。
手を伸ばせば届く距離まで来て、紫苑は立ち止まった。
その静止と静寂を返答を待つものだと瑞穂は感じ取ったのか、その小さな口を開く。
「それは……いっときの別れにしか過ぎないはずです」
「いっときの別れが、そのまま永遠となることもありえるでしょう」
瑞穂の言葉に対して、紫苑は即座に返答した。
それはアドリブであり、そしていつも通りに会話を交わしているようでもあった。
ただそれは、こういった舞台の上でもあって、普段は交わせないような内容もポロリと口から滑り出ていく効果があった。
紫苑の口から否定的な言葉が出て、しばし瑞穂は口ごもる。
それは会場で見守る者たちも同じで、つぎにどう瑞穂が答えるかと固唾を呑んで見守った。
(……この身を縛る苦しみを告げれば、あなたは私を助けてくれるでしょうか?)
そう思った後、紫苑は心の中で首を振った。
(瑞穂さんは精神的に人を助けることは出来ますけども、果たしてその細い身体に物理的な……現実的な世界への影響までを求めることは酷でしょう。
ただ一個人に過ぎない瑞穂さんに、この身を縛る十条の血と厳島の財力に、抗しうることなど……不可能に、決まっています……)
「たとえっ……!」
紫苑の返答、あるいはその思考を否定するかのように、キッと瑞穂はまなじりに力をいれて言葉を発した。
「たとえこの身とその身が離れようとも、心までは離れはしません!」
「心の繋がりとて、時が経てばやがて薄れ行くもの」
それでも、紫苑は瑞穂の言葉を否定する。
瑞穂の心の中を引き出そうとするかのように。
あるいは、逃げ出す自分を捕まえて欲しい、とでも云うかのように。
男女の立場が逆になっていたけれど、誰もそのことは気にならず、それよりも瑞穂がどう答えるかに注目が集まっていた。
「私は忘れません! 心の繋がりも! そして……ここでの、短いながらも輝かしい想い出を!」
瑞穂は、紫苑の両腕をつかみ取って、至近の距離で見つめ合いながら言葉を紡いだ。
「私の傍に居てくれたあなたのことを、どうして忘れることが出来ましょうか!」
(……とても強い人で、とても清い人で、そして不思議な人であるけれど。
その心に背負いきれぬほどの想いを、架したくはない……)
「ここでの輝かしい想い出は、常にあなたと共にある!」
口をつぐんだままの紫苑を、瑞穂は小さく揺すりながら、諭すように言葉を連ねる。
……僕の想い出は、常に貴女と共にある。
その言葉が紫苑の胸に染みて、一滴の涙がその瞳からこぼれ落ちた。
ようやく、紫苑は口を開いた。
「……不安に満ちた先の見えない未来に、此処での思い出はきっと拠り所になるでしょう。あなたと共にあった思い出が、その未来を生きていく糧と……なりますでしょう」
その、言葉を……先ほど流れた涙の意味を計りかねて、瑞穂は紫苑のことを魅入られたように見つめ続けていた。
(……私に残された時間は学生でいられる間……あと四年と少しだろう。
その四年が、この一年に比べて素晴らしいとは思えないけれど……)
瑞穂と出会う前に比べれば、ずっと前向きに生きていける自信が出来ていた。
だから、感謝したいと思った。
ただ「ありがとう」、と。
「あなたと、出会えてよかった。本当に……ほんとうに、ありがとう」
そう云って、瑞穂にギュッと抱きつき、腕を回して優しく抱き締めた。
そんな紫苑のことを、瑞穂は優しく抱き締め返した。
瑞穂の前で何度となく奏のことを抱き締めたことはあったけれど。
こうやって瑞穂と抱き締め合うのは、これが初めてのことだった。
「ありがとう……ありがとう、瑞穂、さん……」
「紫苑さん……」
「ずっと……ずっと友達で……いて、くださいね……」
優しい微笑みを浮かべた瑞穂の顔が会場の側にあり、その反対、会場から見えない位置に紫苑の顔があった。
その紫苑の頬に、幾筋もの涙がこぼれ落ちていく。
いつもだったら、年上の紫苑が瑞穂のことを励ましていたのに、いまは逆だった。
ふたりは抱き合ったまま言葉も紡がず、そのまま身動きもしない。
アドリブということもあって、終わる基準に迷っていた生徒会のメンバーが、ようやく終了と判断して、舞台の上の幕をおろし始めた。
小豆色の幕が下ろされる中、舞台上にいるふたりのエルダー・シスターは、固く抱き締めあったまま、その場から動かない。
会場から大きな拍手と啜り泣く声を受けながら、幕はゆっくりと閉じていくのだった。
幕が完全に閉じ、照明が元の明るさになっても、しばらく瑞穂は抱き締め返してくれていた。
そうして、なだめるように優しく背中をさすってくれる。
「……紫苑さん、約束ですからね。ずっと友達でいてくださいね」
「はい……」
「卒業しても、また会いましょう。絶対ですからね?」
「……はい」
身体を離した後、そう瑞穂が問うと、紫苑は子供のようにコクリと頷いた。
それを見て瑞穂が満足そうに頷いて……。
幕が下ろされた舞台の上で、紫苑と瑞穂は離れていった。
(……結局、口に出来なかった。普段は演技なんて慣れたものなのに、肝心な時にそれが出来ないだなんて……)
控え室に戻ったものの、着替える気力もなく……。
気怠そうな様子も隠さずに、紫苑は椅子に座った。
そうして、ふうっとため息を漏らす。
「紫苑お姉さま〜」
奏が駆け寄って来てくれたものの、それに対して紫苑は寂しげな微笑みを返して見せた。
「……ごめんなさいね、奏ちゃん。いまは……ひとりに……」
「は、はいっ……」
ひとり、控え室の隅で佇んでいる姿は、まるで一年前の紫苑のようでもあった。
瑞穂と出会う前。
誰からも敬われる人物であったものの、その完璧過ぎるほどの美貌と性格で近寄りがたい雰囲気を纏わせていた、あの頃のままに。
ふと視線を感じて少し顔を動かすと、自分のことを見つめる貴子のことに気づいた。
ふたりとも口を閉ざしたまま、ただ黙って視線を交える。
貴子の顔に浮かぶ感情は、哀れみや同情、紫苑を心配するといったモノではなく。
貴子自身が、己に抱く怒りや後悔、悲しみに満ちているのだった。
紫苑と貴子は、ふたりともそのまま表情は動かさず。
しかし互いに視線を逸らすことなく……。
ただじっと、見つめ合うだけだった。
◇