1999.01/26 Tue 08:53
雨の降る町。
強風が吹き荒れ、大雨が降り続けていた。
季節はずれの嵐。
(――1年…あれから、1年…)
茜は今日も、空き地に立っていた。
強風に煽られ、茜の身体が揺らぐ。
(1年…1年は長いです。長すぎます…)
茜の虚ろな眼差し。
(…1年、ずっとずっと、微かな希望にすがって。
裏切られて、絶望して、それでも今度こそはって…。
その繰り返し。
無意味に繰り返される非日常。
希望なんてないって、もう、とっくに気づいていたはずなのに。
それでも私には、それしかなかったから…。
だけど本当は…。
だけどもう…私は…)
ふと茜は、手に持っていたピンクの傘を見上げる。
強風で横殴りに叩きつけられる雨に、傘は無力だった。
すでに彼女の服は、中身までずぶ濡れになっていた。
傘は吹き荒れる強風でバタバタともがき、悲鳴をあげる。
(壊れてしまう)
それと気づき、茜はそっと、傘を閉じた。
…彼から贈られた、最後のプレゼント。
大雨が、茜にまともに降りつける。
彼女の瞳からこぼれ落ちる涙を、雨が流していった。
「…もう…」
(ゆうにとって、この世界なんて意味のないものなんですか?
…私がいる所に、帰って来てはくれないのですか…?)
「もう…私は…」
『いいか、茜。忘れるんだ、俺のこと…』
「…私、は…」
「……!」
茜は…ふと、誰かに呼ばれた気がした。
「…あかねっ!」
降りつける雨で視界が遮られ、よく見えない。
しかし茜は、自分の元に近寄ってくる人影をとらえた。
ブルーの傘。
茜が持つピンクの傘と、お揃いの。
あの彼が、詩子にプレゼントした、傘。
その傘を手に持った少年。
「…茜っ!」
混濁した意識の中で。
茜は、それが待望していた幼なじみの姿だと誤認した。
「…よ…かった」
「茜…っ!」
胸に溢れでる幸福感。
「…よかった…帰ってきてくれた…」
「おいっ! 茜っ! しっかりしろっ!」
雨の飛沫が視界を濁らせる中。
茜は、焦点の合わないうつろな瞳で、その少年を見ていた。
「…もう…どこにもいかない…――」
そこで、茜を支えていた気力が尽きた。
ぷつっと糸が切れた人形のように、彼女の身体が崩れ掛ける。
「あかねっ…!」
それを少年が受け止め、抱きかかえた。
「あかねっ! あかねっっ!」
まぶたを閉じた茜に、少年…折原浩平は、何度も強く、彼女の名前を呼び続けた。
同日 13:00
そうして目覚めた茜に、突きつけられる現実。
「倒れたんだよ。あの空き地でな」
優しい微笑みを向けてくれるのは、幼なじみの彼ではなく、折原浩平。
「…ここはオレの部屋だ。本当はお前の家に連れていってやりたかったんだけど、場所知らないからな」
自分を迎えに来てくれたのは、幼なじみではなく、その少年だったのだ。
「言っとくが、服を着替えさせたのはオレじゃないからな。前に一度話しただろ? おばさんと一緒に住んでるって」
幼なじみの彼ではなかったのだ。
彼は、やはり戻っては来なかったのだ。
「…制服、ここに置いておくから」
幾度となく、期待を裏切られ…そして、今日も。
1年経った今日こそは…と信じていた茜に、突きつけられた現実。
「オレは下の階に居るから、何かあったら呼んでくれていいから」
やはり、幼なじみの彼は、帰ってこないのだ…。
「…それからな、茜」
茜に背を向け、立ち去りかけた少年が振り返って言った。
「お前は…ふられたんだ」
「……」
『そんな幼い初恋に囚われて、俺はどこかに行くのかもしれない』
「……」
『いままでずっと一緒にいたお前を置いて…。俺は、どこかに行くのかもしれないんだ』
「…は…い」
コクンと、茜は頷く。
…そうして、泣いた。
その涙は、悲しみだけでなく、安らぎも混じっていた。
茜は、誰かに止めてほしかった。
延々と繰り返される待つだけの日々を、誰かに止めてほしかった。
もう、彼は絶対に帰って来ないと、言って欲しかった。
お前のしていることは無意味だと、なじって欲しかった。
…だから、少年の言葉が、茜には救いだった。
(ありがとう。そして、…――)
同日 15:45
雪の降る街。
校舎から出た彼の瞳に、赤い世界が映った。
赤い校舎。
赤い地面。
赤い空。
赤い雲。
そして、降り積もっている雪も、赤い。
強い西日に目を細めながら、早足で約束の場所に向かう。
…踏み出した彼の足が止まる。
そうしてもう一度、空を見上げた。
赤い空。
朱色の空。
紅の空。
…茜色の空。
瞳の奥にまで染み入ってくるような、鮮烈な赤。
そんな夕焼け空を眺めていると、涙がこみ上げてくることに彼は気づいた。
魂の奥底から震えるような、不思議な衝動。
どこかで、自分を支え、繋いでいるなにかがあって。
それが、ふいに断ち切られてしまったような…。
その喪失感と、寂寥と痛み。
(…寂しい…)
喉の奥がつかえるような感覚。
彼は歯を食いしばって、それを堪える。
(俺は、なにか大切なことを忘れているような気がする)
彼に思い当たるひとつは、7年前の冬休みの出来事。
この街での記憶を少しずつ取り戻せていたけれど。
ここから出ていった日の前後が、どうしても思い出せない。
(…それも気になるけど、他にもあったような…)
その冬の記憶以上に、忘れてしまってはいけない、なにかが…。
痛みをともなってせり上げてきた寂しさ。
震えてしまうような、あまりにも強い哀切。
泣き出したい衝動。
それを、彼は言葉にして吐き出してみる。
「…ありがとう。それと、ごめんな…」
…それはいつか、誰かに送った言葉。
その呟きをもらした後、大きく深呼吸する。
すると、あれほど心をとらえていた寂しさが、薄れていった。
(…俺は、どうかしている)
彼はそう思い、理解できない感情を振り払って、止めていた足を進めはじめる。
…大切な少女が待つ、あの駅前のベンチに向かって。
夕焼けで赤く染まったベンチ。
そこに、ひとりの少女がちょこんと座っていた。
「…あ」
羽の生えた少女が、彼の姿を見つけて顔を上げる。
「よお」
「こんにちは、祐一君」
「待ったか?」
「ちょっとだけ」
「腹減ってるか?」
「ちょっとだけ」
「よし。じゃあ、商店街で何かうまい物でも食うか」
「うんっ」
「何がいい?」
「たい焼きっ」
「よし、それでこそあゆだ」
「うんっ」
ひとりぼっちで、ベンチでうつむいていた少女…。
満面の笑みと一緒に、精一杯の元気で頷いた。
夕焼けに彩られた商店街。
たい焼きを食べながら、彼と少女は話をしていた。
「あゆ。今、幸せか?」
ふいに、彼の口をついて出た言葉。
「…うん。幸せだよ」
そう言った少女の笑顔は、それでもどこか悲しげに見えた。
「こうして祐一君と一緒にいられることが、ボクにとってはかけがえのない瞬間なんだよ。
…でも。時々、不安になるんだよ…。幸せなことが怖いんだよ…。怖くて…、不安で…。
目の前の現実、全てが夢なんじゃないかって…」
「それは、考えすぎだって」
「…うん」
「それに、あゆがまじめな台詞言っても似合わない」
「うぐぅ…ほっといてよ」
「…今は、7年前とは違うんだ」
彼は、少女の瞳を真摯に見つめながら、言った。
「俺は、ずっとここにいる。
冬が終わって、春が来て…。そして、雪が溶けても…。
ずっと、この街にいる。あゆのすぐ側にいる。
約束、しただろ?」
「…祐一君こそ、まじめな台詞似合わないよ」
「悪かったな」
「…でも…うん…嬉しいよ…」
涙混じりの声で、無理に笑おうとする。
「泣いてると、せっかくのたい焼きがしょっぱくなるぞ」
「うぐぅ…いいもんっ。…懐かしい味だから…いいもん…」
少女は、たい焼きを口いっぱいに頬張りながら、泣き笑いの表情で頷いた。
同日 22:13
7年ぶりに再会した少女。
愛おしい人。
胸を焦がす、恋の衝動。
彼は、自分の部屋にやってきた少女を、後ろから抱きしめていた。
「祐一君、ボク帰るよ…」
そうやって逃げようとする少女を、彼は抱きしめ、引き止めた
少女の肩に顔を押し当てる。
女の子らしい、甘酸っぱい香り。
それが、彼の男としての情動を煽った。
「苦しいよ…祐一君…」
後ろを振り返った少女と、彼の瞳がぶつかった。
至近距離で視線が交わると、少女は顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
「嫌、だよ…」
懇願するような、少女の言葉。
しかし彼は、抱きしめるのを止めない。
(あゆ…)
理解できない寂寥感が、彼を突き動かす。
誰よりも愛おしい少女を、手放したくなかった。
そのままの態勢で、少女の胸の膨らみに手のひらを重ねる。
柔らかな感触に、強く抱きしめ、そのまま自分の内に引き込んでしまいたいような衝動を覚えた。
「祐一君」
何かを決心したように、うつむいていた少女は、彼の方を見上げる。
「本当に、ボクでいいの?」
「俺は、あゆがいい」
目の前の少女がいれば、もう、他にはなにもいらない。
(…あゆ、お前だけを想っているから。だから、俺をひとりぼっちにしないでくれ…)
「でも、ボク、小さいし…。胸だって、たぶん、名雪さんよりないし…。料理だってへたくそだし…。恐がりだし…。
それに、それに…。えっと、えっと…」
言葉に詰まりながら、何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。
そんな少女の体を、彼はぎゅっと抱きしめる。
目の前の少女が、彼には愛おしくて堪らない。
乱暴になってしまいそうになる自分を、なんとか抑える。
「うぐぅ…苦しいよ…」
彼はそのまま、少女の体をベッドの上に横たえようとした。
しかし、少女はシーツに手をついてそれに抵抗する。
「ダメだよ。まだ祐一君の言葉、聞いてないもん」
「…俺は、あゆのことが好きだから」
「そんなこと言って、後悔しても知らないよ…」
「俺は後悔しない」
「だったら、ボクも後悔はしないよ…。だって、祐一君の体、あったかいもん…」
少女の体から力が抜けて、シーツの上にぽてっと倒れ込んだ。
(…あゆ…)
自分の手の中にある少女。
溢れる感情を抑えるのに痛みを覚えるくらいに…なによりも、愛おしかった。
ベッドで寝る彼のすぐ隣で、少女の小さな寝息が聞こえた。
少女が眠りにつく前に、ふと呟いた言葉があった。
「…祐一君。…思い出って、なんのためにあるんだろうね」
その言葉の意味も分からないまま。
彼も、夢の中に落ちていった…――。
…――そうしてそれは、ひとつの結末。
Fin
◇