track 11……pure snows



 居間からじゅうぶんに離れて、話を切り出す。

「佐祐理さん。弟の一弥のことで、訊きたいことがあるんだ」
「え…」
 佐祐理さんは、身体を硬直させる。

「とても、大切な話なんだ」
「…わかりました」
 うなずいた後、佐祐理さんは俺の隣に立つ天野に、困ったような視線を向ける。

「悪いとは思ったけど、天野にも簡単に話してある」
「そうですか…」
 佐祐理さんは、歯切れの悪い言葉使いになる。

 無理もない。
 佐祐理さんは、弟の一弥のことを完全に振り切れているわけではないのだから。

「えっと…とりあえず、弟さんの写真、ここにあるかな?」

 写真をまことに見せれば、俺の考えが合っているか否かがわかるだろう。

「はい。何枚かあります」
 俺がなにをしようとしているのか計りかねている佐祐理さんは、明らかに戸惑っていた。
 それでも、俺のことを信じて動いてくれる。

 案内されて、佐祐理さんの部屋に入る。

 とても、女性らしい部屋だった。
 女の子じゃなくて、女性といった落ち着いた感じの雰囲気。

 佐祐理さんは、本棚からアルバムらしい本を数冊持ち出して来た。
 その中から、弟の一弥と一緒にうつっている写真を何枚か示す。

 幼い頃の佐祐理さん。
 その隣に立つ弟の一弥は、表情の乏しい子供だった。

 佐祐理さんから話は聞いていたものの、こうやって写真を見せてもらうのは初めてだ。

「ここには、この数枚しかありませんね。実家のほうに戻れば、たくさんあるんですが…」
 その顔にかげりが見える。
 弟のことは、佐祐理さんにとっていまだ癒されることのない傷跡。

 佐祐理さんが取り出してくれた写真を見る。
 その数枚の中に、まことが調子よくうつっているものなど無かった。

 …とりあえず、これをまことに見せれば、一弥のことを知っているか否かがすぐにわかる。

「佐祐理さん、ただの興味本位なんかじゃなくて、ほんとうに大切な話なんだ。
佐祐理さんと一弥は、以前、ペットかなにかを飼っていたことはないか?」

 俺の問いに、佐祐理さんはじっと考える仕草をする。
 しかしやがて、ゆっくりと首を左右に振る。

「…いえ、ありません。いつか、動物園に連れていきたいなと思ったことはありますが」
「そうか…」

 どうしよう、という感じで天野に視線を送る。
 天野はうなずいて、身を乗り出す。

「ほんとに些細なことでいいんです。思い出してください。
弟さんが、動物を飼いたいとか、飼おうとしていたことはありませんか?」
「…いいえ、それもないと思います」
「弟さんは、ひとりで遊びに行くこととか、よくありませんでしたか?
また、なにか食べ物とか持ち出していなくなることとか」

 天野の問いかけに、佐祐理さんは悲しそうに首を横に振る。

「いえ、それもなかったと思います。一弥の送り迎えは佐祐理がやっていましたし。
それに、友だちもいない子でした。家に帰った後は、習い物や通院などがあって、遊びに行く機会もなかったと思います」

 俺と天野は顔を見合わせる。

 まことと一弥とは、接点が無いのか…?
 俺の考え違いだったのだろうか。

「あ…でも」
 思い出したように、佐祐理さんが顔をあげる。

「そういえば一時期、佐祐理の出迎えを嫌がって、ひとりで帰っちゃうことがありました。
佐祐理が迎えに行っても、すでに帰ってしまっていたということが…」
「それは、何日も続いたのか?」
「ええと…1、2週間くらいだったでしょうか…。
しかもだんだん帰るのが遅くなってきて。放っておくことができなくて、探して連れ戻すようなことが何度かありました」

「弟さんは、その時、どこで見つけられたんですか?」
「佐祐理の家の近くの、空き地でした。町外れの森の、すぐ近くです」

 …それだ。

 俺は、その空き地で、一弥がキツネと遊んでいる姿を想像する。

 姉が出迎えに来るのを避け、給食の残りかなにかを持って、その空き地に行く。
 そこにいる、一匹のキツネに食べ物を与えるために。

 家では飼うことができないから、誰にも言わず、ひっそりと遊ぶ。

 …そんな、どこにでもありそうな話。
 子供が、たまたま見かけたキツネに興味を持って、接した。

 たった数日の、そんなどこでもありそうな出来事が、いまここに奇跡を起こしたのかもしれない。

 たわいのない、小さな出来事だと思う。
 どうして、こんなにもささやかなことなのに、彼らは命と記憶を捨ててまで、人の世界に降りてくるのだろう。

 そんなにも、憧れるものなのだろうか。
 人の世界の暖かみやぬくもり、そして優しさに。

「佐祐理さん、この写真を借りてもいいかな?」
「はい。…でも祐一さん、なんで一弥のことを?」
「もうちょっと待ってくれ。もう少ししたら、全部話せると思うから」

 どたどたどたどた…。

 誰かがこちらに走ってくる音。
 こんな風に音高く走ってくるのは、まこと以外考えられない。

 俺は慌てて、床に置かれた一弥の写真を掻き集める。

「佐祐理〜っ!」

 ドバーンっ。
 音高く、部屋に入り込んでくるまこと。

「ねぇ、ご本読んでよぉっ。舞ったら、もう疲れたって読んでくれないの。
あ、あとね、お腹空いた! おやつおやつ〜」
「あははー。ご本読みながら、おやつを用意するなんて出来ないよ? どっちかを先にやらないとね。
…祐一さん、美汐さん、もういいですか?」
「あ、ああ…」

 掻き集めた写真を、ひとつのアルバムに挟んで閉じる。
 もうちょっとさりげない風を装って、まことに一弥のことを訊ねるつもりだったから。

 …しかし、そんな思いをよそに。

 アルバムを慌てて閉じた勢いで風が生まれた。
 まだしまいきれていなかった写真が、数枚、風に乗って床を走る。

 そのうちの1枚が、まことの足下に飛んでいってしまった。
 自分の足に飛んできた写真を、まことは無造作に拾いあげる。

 そうして、その写真をじっと見つめた。

「この子…誰?」
 視線を外すことなく、写真に見入ったまま、俺たちに訊いてくる。

「この子、知ってる…」
 まことは、パッと顔をあげる。

「…まこと、この子と会いたいっ!」
 なにか大切なモノを見つけ出したような表情で、目を輝かせて俺たちを見回す。

「ううんっ。まことは、この子と会わなきゃいけないのっ! そんな気がするっ」
 そのまことの反応が、俺の予想が的外れでないことを物語っていた。

 どうする…。
 どう応えればいいんだ。

 そもそも俺はどうやって、さりげなく写真を見せるつもりだった?
 こういう反応を、容易に想像できたはずだぞ。

 いまは佐祐理さんもいる。
 下手なごまかしはできない。

「その男の子の名前は、一弥っていうの。佐祐理の弟」
 佐祐理さんは、床に散らばった写真を集めつつ、まことを見上げて寂しげに微笑んだ。

「かずや…佐祐理の弟…」
「もう、何年も前に亡くなってしまったんだけどね」
 佐祐理さんは、寂しげな微笑みをたたえたまま、沈痛な声音で告げる。

「亡くなったって…死んじゃったのっ?」
 まことの狼狽ぶりが手に取るようにわかる。
「どうして…どうしてっ!?」

「元から身体が弱くて…。ううん。佐祐理のせい。
佐祐理が、死なせてしまったも同然なの…」
 それは、佐祐理さんがいまも抱える悔恨。

 癒し切れぬ傷跡。
 佐祐理さんはずっと悔やみ、自分を責め続けているんだ。

「……」
 まことの様子がおかしかった。

 胸をおさえるように服をつかみ、荒い息をしている。
 まるで、心臓の痛みに苦しんでいるような姿。

「うう…うううう…」
 歯を噛みしめ、嗚咽をもらしながら、まことが泣きはじめた。

 俺たちが一度も見たことのないような表情だった。
 胸をつかれるような、悲痛な姿。

「ま、まこと…?」
 佐祐理さんが、立ち上がりながらまことに歩み寄る。

 …それが、引き金となった。

「どうしてぇ…? どうしてよぉっ…!」

 一瞬だった。
 …誰も反応できなかった。

 まことは、部屋にある本棚から辞典のようなものをつかみだし。
 それを、佐祐理さんに投げつけた。

 …ガツっ…。

 鈍い音。
 ついで、佐祐理さんがどさりと倒れる。

「うわあぁあああぁっ!」
 まことが、叫びながら佐祐理さんにつかみかかる。

 俺はようやく硬直が解け、まことをなんとか取り押さえることができた。

「まこと、止せ!」
「うああああああああっ!!」

 まことを後ろから羽交い締めにする。
 佐祐理さんから離そうと、後ろに引きずっていく。

 …まことは、本気で暴れた。
 こんな小さな身体のどこにそれだけの力があるのかと思うくらいに、激しく暴れる。

 佐祐理さんは上半身を起こして、呆然とまことを見上げる。

 そのこめかみから、血が流れ出ていた…。
 天野がハンカチを取り出して、そこに当てる。

 騒ぎに気づいた舞が、部屋に駆けつけてきてくれた。
 部屋の状況を見て、眉をひそめる。

「まことが怪我をさせたの?」
 舞は、咎めるような眼差しをまことに向ける。

「あんたなんて…あんたなんかぁっ!」
 まことはなおも暴れながら、佐祐理さんに手をのばす。

「この子を殺して…なんであんたは生きてるのよおぉっ!」

 まことの絶叫に、佐祐理さんがビクリと震えた。
 ついで、見る間に顔面が蒼白になっていく。

「…ひ…あぁ…」
 佐祐理さんは、ガクガクと身を震わせてうめき声をあげた。
 その顔は紙のように白く、唇が小刻みに揺れていた。

「まことっ!」
 舞が叫び、まことに平手打ちを見舞う。

 パァン…という乾いた音を立て、まことの頭が揺らいだ。

「…そんな風に言っちゃいけない! 佐祐理はずっと苦しんでいるの!」
 舞は険しい表情で、まことの肩を揺さぶった。

 平手打ちと舞の声で、まことが声をあげて泣きはじめる。
 年端もいかないような幼子が、母を求めて泣き叫ぶような、そんな悲痛な泣き声。

「うあああああああああん…、うわああああああああ…」

 どうして、こんなことになってしまったんだ。
 …俺のせいだ。

 目の前のあまりの状況に、眩暈を覚えた。
 そうして、まことを抑える力を弱めてしまった。

 その途端、俺の腕にまことが噛みついた。

「いでっ!」

 俺の腕を振り払い、まことは正面にいた舞に蹴りをいれる。
 とっさのことに、舞もかわしきれずにそれを喰らい、後ろによろめく。

 …また、佐祐理さんにつかみかかるのか?

 そう思って、慌てて佐祐理さんの側に駆け寄ったが、まことは逆の方向に向かっていた。

「…ふーっ、ふーっ…」
 まことは荒々しく呼吸しながら、部屋の出口にひとり立っていた。

 嗚咽をもらし、涙をボロボロ流す。
 舞に叩かれた頬が、赤くはれていた。

 真っ赤になった目で、部屋の中にいる俺たちを睨みつけてくる。

「…もういい、わかった」
 肩をぶるぶる震わせながら、掠れた声で喋る。
「祐一も、美汐も舞も、佐祐理をかばうのね。…どうして、みんな佐祐理ばかり選ぶの?」

 明るく無邪気だったまことの顔が、いまは絶望に彩られていた。

「…いつもそうだ。みんな…みんなみんな、佐祐理が持っていっちゃうんだっ!」
 金切り声でそう言い捨て、まことは背を向け、駆け去っていった。

「おい、まことっ!?」
 追いかけようと部屋から出た俺の耳に、玄関から外に出ていく物音が聞こえた。
「…ここから出て、どこへ行こうっていうんだよ…」

 まことに、行くべき場所なんてあるのだろうか。
 あいつが会いに来た少年は、もうこの世にはいないのだ。

 絶望に引き歪んだまことの顔を思い出し、暗澹たる気分になる。

「俺、行ってくるよ」
「私も行きます」
 天野がそう申し出てくれた。

「祐一さん、美汐さん…」
 佐祐理さんはいうべき言葉が浮かばないのか、俺たちを呼んだ後、口ごもる。

 その顔は、蒼白のままだった。
 こめかみの傷ではなく、まことに投げつけられた言葉ゆえだろう。

『この子を殺して…なんであんたは生きてるのよおぉっ!』

 その言葉がどれだけ佐祐理さんの心をえぐったか、その蒼い顔を見れば知れる。
 俺も天野も、そして舞でさえ、にわかに掛けるべき言葉がみつからない。

「…あの子を…まことを、よろしくお願いします」
 佐祐理さんは絞り出すように言葉を紡ぐ。

 自分を傷つけた少女を、それでも想って、佐祐理さんは言うのだ。

「わかった」
 俺はそう応え、この部屋を後にした。


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