♪ Page2 確かな想い




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 ……しばらく待ってみても、束髪の女生徒は現れなかった。
 もしかしたら、僕と貴子さんが話し合っているのを見て帰ってしまったのかとも思ったけれど、昼休みが終わるぎりぎりまで待ってみるつもりだった。
 貴子さんを真似てマリア像の前で跪き、そっと手を握り合わせ、目を閉じて祈りを捧げる。僕には信仰はないし、正式な祈りの捧げかたもしらない。
 ただ僕は……もう百年以上も恵泉の女生徒たちからの祈りを受け、それを見つめてきたはずのマリア像に、もう少し自分に時間がください、とお願いした。
 半ば無理矢理にここへ来ることになった当初は、いますぐ逃げ帰りたいと思っていた。けれどいまの僕は違う。この学園で過ごす時間の大切さを、最近感じられるようになってきた。僕がいることでなにかが変わるという人が、周囲にいる。その人たちのためにも、僕はここにいたかった。僕のせいで誰かが悲しむならば、それから逃げず、助けてあげたかった。僕がいることで幸せになってくれる人がいるのなら、どんなことでもやってあげたかった。僕の周りにいる人たちが、とてもとても大好きで。僕の望みは、大好きな人たちみんなの幸せ。異分子である僕は対象外でもかまいません、ですからマリア様……どうか……恵泉のみんなに祝福を……。
 背後で、運命の扉が開くのが聞こえた。
 祈りを止め、静かに立ち上がって振り返る。
 ……礼拝堂の入り口に、束髪の女生徒が立っていた。



 編み込まれた束髪をした、細身の女生徒。
 朝方見かけたのと同じく、白くて大きな紙袋を胸に抱えていた。
 ……けれどその女の子は、そこから一歩も動かない。長い前髪を垂らし、うつむいたまま、入り口で立ちつくしていた。
 その顔があがったら、罵倒されるのだろうか、質疑されるのだろうか……。
 僕は緊張に高鳴る胸を、深い呼吸をして抑えつつ、礼拝堂の中をその女生徒に向けてゆっくりと歩いていった。硬質な床を踏みしめる音が響き渡る。祈りを捧げていた時に日の光を浴びていたからだろう、長い髪が熱を帯びているのを感じる。
 その女生徒のすぐ前に着いたけれど、彼女は顔をあげなかった。近くに来てわかったけれど、その女生徒は可哀相なくらいその身を震わせている。
「朝は……」
 僕が言葉を発すると、彼女はひときわ大きく震えた。
「……朝はぶつかって、すみませんでした」
 頭を下げて謝罪すると、彼女ははっとなって顔を上げた。
「謝らないでくださいっ。わたしなんかに……わたし、が……」
 ……ああ、困った。
 ようやくまともに見ることが出来た彼女の顔は、悲しみに彩られていた。その大きく見開かれた瞳に、大粒の涙が浮かんではこぼれ落ちていく。ああ、女の子ってどうしてこんな風に泣けるんだろうな、とかそんなことを考えてしまう。こんな風に泣かれてしまったら、どうしていいかわからない。
 だから突きあげる衝動に任せて、両手で彼女の肩を優しくつかむ。それは捕まえるためではなく落ち着いてもらえるように、優しく、できるかぎり優しく……。
「そんなに泣かれてしまうと、困ってしまいます。私は、どうすればいいですか?」
「わたし……わたし、は……。お姉さまに、たくさんの……たくさんの懺悔をしなければ、なりません……」
 そうして彼女は、またも涙をこぼす。その瞳は赤く充血していて、ここに来る前から泣いていたであろうことを想像させた。
 彼女は懺悔と云った。ならば、盗みを働いたことを悔いていて、それを謝りに来たのだろうか。僕を糾弾したり脅迫するためにここへ来たのではないのかもしれない、と思い至り、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「お姉さまに、日々よからぬ妄想を抱いていたこと……」
 よ、よからぬ、もうそう……?
「奏さんに用事があっただけなのに、人が居ないのをいいことにお姉さまの部屋から物を盗んでしまったこと……」
 奏ちゃんの知り合い、だったのか。
「お姉さまから盗み取ってしまった物をうちに持ち帰り、身につけてより深い妄想に耽ってしまったこと……」
 身につけてって……制服はともかく、む、胸パッドも……? あれって地肌につけなければいけないから、それって……。
「そして……お姉さまに懺悔し、お返ししようとしていた品物を……」
 そうして、女の子はひときわ多くの涙を流す。
「……あろうことか、無くしてしまったことを」



 こっちも泣きたいのを我慢しつつ、泣きじゃくる女生徒をなだめすかし、話を少しずつ聞いていくとこんな感じに要約できた。
 日曜日の昼頃、同じクラスで、なおかつ同じ部活動をしている奏ちゃんに用事があって女子寮を訪れたらしい。しかし寮の入り口は開いていて、中には人が居なかった。誰か居ないかと捜している内に二階にのぼり、そのとき、僕の名前が掛かれたプレートの貼ってある扉を見つけ……。いけないと思いつつもドアノブに手を掛けると扉は開いてしまい、そのまま衝動に負けて、盗みを働いてしまったようだ。
 盗んだ物はシャープペンシルと僕の字が書かれたノート、ヘアブラシに、制服上下とブラジャーと、そしてシリコン樹脂で作られた胸パッド。
「……不謹慎ですけど、わたし、あの人工乳房を見たとき嬉しかったんです。どこを見ても完璧すぎるほどのお姉さまが、こんなわたしと同じ悩みを抱いていただなんて」
 そう云って彼女は、ふくらみの薄い己の胸を両手で抑えるようにして、泣き笑いを浮かべた。その言葉から察するに、彼女は僕のことを男だとは思わず、その……いわゆる貧乳な女の子だと思ってくれたらしい。
「あんまりに嬉しくって……。それが無くなれば、お姉さまがどれほど迷惑を被るか考えもせずに持ち帰ってしまいました。有頂天になっていたわたしは、夜になってようやく、自分のしでかしたことに思い至って……」
 僕たちは、誰もいない礼拝堂で、長椅子のひとつに寄り添うように座って話をしていた。逃げないようにという意味ではなく、彼女の話を落ち着いて聞かせて欲しいという意味を込めて、隣に座る彼女の手のうえに、自分の手を優しく重ね合わせていた。
「白い紙袋にいれて学院に持って来て、お姉さまにお返しするつもりだったんです。けれど朝は屋上に十条紫苑さまがいらっしゃったのでお会いできなくて……。昼休みにお返ししようと思ったのですが、この紙袋を持って教室に行くわけにもいかず、部活の準備室にある空きロッカーにしまっておいたのですが……」
 昼休みが始まってその紙袋を取りに行ったら、なぜかシリコンの胸パッドだけが無くなっていたという話だった。この礼拝堂に来るまで時間が掛かったのは、それこそ必死になって、泣きじゃくりながら部室を探し回っていたからなのだ。
 話をすべて聞き終わった後、僕は安堵のため息をもらした。
 胸パッドが無くなった、ということに慌てたけれど、よく考えてみればそれが僕の物だとわかる人間はごくわずかだ。この束髪の女の子も僕のことを男だとは思っていないわけだし、ただ胸パッドが無くなっただけならば、新しい物を買えばいいだけだ。
 筆記用具と制服、それとヘアブラシとブラジャーの入った紙袋を受け取る。すべてを話し終え、うつむいている彼女に僕は笑いかけた。
「……誰でも、過ちは犯します。どうかこのことを忘れずに、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、健やかな日々を送ってください」
「お姉さま……こんなわたしを、許して……くださるのですか?」
「あなたが悔いた時間と、こぼした涙の量に免じて、赦します」
「ああ……お姉さま……」
 彼女は、僕の手を両手で捧げ持つようにして、救われたかのような表情で涙を流した。それはまるで神に祈りを捧げる人の姿に似ていて……。僕はそんな、誰かに祈りを捧げられるような人物ではない。けれどこうやって、色々な想いを引きつける存在になってしまったのだと実感してしまった。
 僕は、エルダー・シスターになったという覚悟が必要なのだと、改めて思い知らされた。
「今回のことは、すべて秘密にしてくださいね。私とあなただけの秘密。胸パッドの件も、別の物を用意するのでお気になさらずに。お恥ずかしながら、いまさらパッドなしの生活を送るには、いささか月日を重ねすぎました」
 紙袋からシャープペンシルを取り出し、彼女に手渡した。
「これは、差しあげます。これを時折見て、またあのような過ちを繰り返さないよう、己を正してくださいね」
 ここに編入してきた当初から使っている、デフォルメされたウサギの頭がついたシャープペンシル。彼女はそれを受け取ると、大切な物を扱うように胸で抱きしめ、そうして僕に頭を垂れた。



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