「……あれ。私の前の生徒会長がタンカで運ばれていったってことは……」
 目の前で繰り広げられた一連の騒動を傍観しているだけだった上岡由佳里は、そのことにふと気づいた。

『お、お知らせします。エントリーナンバー4の厳島貴子さまですが、過度のストレスによると思われる昏倒で気を失ってしまったため、リタイヤとなります』
 案内役の君枝のアナウンスが流れると共に、垂れ幕ごしでもわかるぐらい、会場から落胆したざわめきが聞こえてきた。
『マークシートのナンバー4に記入されても無効となりますのでご注意ください。……しばらくの休憩の後、最後の演技が行われますので、その場で少々お待ち下さい』

 もう少し猶予があると思ってたのに!
 そう思って、由佳里の緊張感が増し、ピンッと背筋を伸ばしてその場に直立する。

「……と、いうことなので由佳里さん。準備が出来たようでしたら教えて下さいね」
「は、はひ……」
 案内役の君枝が苦笑いを見せながら云った言葉に、由佳里は強張った声で応える。

「これは私見ですが……。先ほどの騒動で会場がざわめいているので、五分程度は間をおいた方が良いと思います。……悔いを残さないよう、頑張ってくださいね」
「が、がんばり、ばす……」
 君枝はふっと軽い微笑みを残して、準備があるのか早歩きで去っていった。

 うつむく由佳里を元気づけようと、奏が手を握ってくれている。
 そして、瑞穂とまりやも由佳里の傍にやってきた。
 ……けれど皆、由佳里がひとりで立ち上がるのを待つかのように、微笑んだままで何も云わない。

 まるで長距離を走ってきたかのような仕草で、由佳里は大きく、何度も深呼吸を繰り返した。
 そして「むんっ」と小さな気合いを入れて顔をあげるのだけれど、しばらくして「はあっ」と溜め息をもらして脱力し、俯いてしまう。

 とうとう我慢できなくなって、まりやは溜め息をつきつつ傍らの瑞穂に云った。

「……どうする、瑞穂ちゃん」
「どうするって……こればっかりは由佳里ちゃん次第だし……」
「だよねえ。……由佳里、あきらめちゃう?」

「えっ」
 出場を辞めていいと云われて、由佳里はパッと顔をあげる。
 しかしそこに、まりやと瑞穂の寂しそうな顔を見て、慌てて首を振った。
「だ、だだだ大丈夫です、私、頑張りますからっ」

「卒業するあたしたちに心残りがあるとするなら……」
 まりやはそう云いながら由佳里と奏の肩に手を置いた。
「……あなたたちふたりのことよね」
「まりや、お姉さま……」
「一年弱の付き合いだったけど、ちゃんと姉役できてたかなーって」

「だいじょうぶ、なのですよっ」
 奏はキリッと凛々しい表情で云い切った。
「お姉さまたちから、たくさんたくさん、大切なものをいただきました。お姉さまたちがご卒業なさっても、きっと、前を向いて歩いていけますですよっ」

「……奏ちゃんは、物わかりがよすぎるのがちょっと心配かな。あんまり無理してはだめですからね?」
 瑞穂が、少し苦さを交えたような微笑みを浮かべて、奏の頭を撫でた。
 そうしてつぎに、由佳里の顔を見つめる。
 由佳里は大丈夫なのだろうか、といった感じで。

「私は……」
 由佳里は、奏のようには頷けなかった。
 出来ることならば、もっと、まりやと瑞穂に傍に居て欲しかった。

 突然に別れを告げられた一子と違って、まりやと瑞穂との別れは以前からわかっていたはずなのに。
 それでも、気持ちの整理が由佳里には付いていなかった。

「……あ〜あ。これじゃあ、恵泉から去っていった一子ちゃんも、由佳里のことが心配になって戻って来ちゃうぞ〜」
 まるで由佳里の考えを読んだかのように、まりやは一子の名前を出した。
 そしてその内容に、由佳里はムッとなって顔をあげる。

「いくらまりやお姉さまでも、一子さんのことをそんな風に云われたら私、怒りますっ」
「あたしだっていい加減怒ってるっつーの。いつまでもウジウジしおって……」
 まりやは悲しそうな顔で、由佳里の頭に拳を当ててみせる。
「……一子ちゃんが、最後の最後まであんたのことを気に掛けてたのが、わかる気がするわ」
「そんなっ……!」

 もう我慢できなくなったという様子で、まりやが由佳里のことを正面から抱き締めた。
「一子ちゃんも去っていったし、あたしは海外に行くし、瑞穂ちゃんも家庭の事情で会おうとしても会いにくくなる。奏ちゃんが傍に居てくれるだろうけど、いままでみたいに頼れる年上の人は身近にいなくなるわけだし」

 瑞穂が微笑みながら、由佳里の頭を撫でる。
「逆に今度は、由佳里ちゃんと奏ちゃんが誰かに頼られるようになるのね。由佳里お姉さまとか、奏お姉さま〜って云われて、慕われるような先輩にならなくっちゃ」

 染み入るような優しい言葉に、由佳里は俯きながら言葉を紡ぐ。
 こうやって、ふたりに甘えられるのはもう今だけかも知れない。

「……なれるでしょうか、私。そんな、誰かに頼られるような『お姉さま』に……」
「なれますよっ! 奏だって、クラスメイトの皆さんだって、何度も何度も由佳里ちゃんを頼ってるじゃないですか」
 奏が即答していた。
 由佳里を元気付けようと、由佳里の両手を両手で包んでくる。

「由佳里ちゃんは、やれば出来る子なのですよ」
 奏がそう云った言葉は、なんだか妙に、耳に懐かしかった。
 そんな由佳里の視線に微笑み返して、奏は頷く。
「……って、一子さんがよく云っていましたね」

「ずるいよ、奏ちゃん……。一子さんの言葉なんて出されたら、私、頑張るしかないじゃない……」
「そうなのです、奏は悪い子なのですよ。大好きな友達のためだったら、どんなにずるいことでもやってしまうんですよ〜」
 涙ぐむ由佳里のことを、奏はニコニコ笑いながら励ますのだった。

 奏が、まりやが、瑞穂が。
 由佳里を導くように、舞台へ向けて手を指し示した。

「……行ける、由佳里ちゃん?」
「大丈夫だと思います、お姉さま。……けど実際問題、舞台のうえでなにをやればいいんでしょう。私、演技とか全然考える余裕なんてなかったし……」

「さっきまでやっていたことを、舞台のうえでやればいいんじゃないかしら?」
 少し離れた所に居た紫苑が、優しい笑みを浮かべながらそう云って、歩み寄って来た。

「……怖じ気づく後輩を励ますお姉さまの図。なかなか面白い構成だったわ」
 これもやはり、離れた位置に居て聞き耳を立てていたらしい圭が、傍まで来た。
「完璧な演技なんて、誰も一年生に望みはしないわ……紫苑さまのように、即興風味でいいんじゃあなくって?」

「あぁら圭さん、敵に塩は送らないんじゃあなくって?」
「……敵にならないぐらいか弱い後輩相手に、ちょっとだけ手を差し伸べてやりたくなっただけよ。あたしは、格下の後輩相手にはすごい優しいのです」
「えっ……」
「ちょっと奏、いますごい意外そうな顔をしてくれたわね……」
「はやや」

「……瑞穂さんなら、即興の舞台でも由佳里ちゃんの魅力を引き出せるんじゃないかしら。あらかじめ筋道を念頭に置いておけば、瑞穂さんなら引っ張っていけるはず」
 紫苑にそう云われて、瑞穂は少し考え込む。
 そうして、微笑みを浮かべて軽く頷いた。

「……そうね。じゃあ由佳里ちゃん、舞台のうえでお話ししましょうか。気張らずに、ゆっくりと、自然体で」
「は、はい……だいじょぶです」
「ねね、椅子と机を運び込んでおいて、奏ちゃんが持ってきてくれたお茶でも飲みながらってど〜お?」
「あ、いいですね、まりやお姉さま。魔法瓶の紅茶ならまだ残っていますし。けど残念ながら、紙コップというのが味気ないのですよ〜」
「……ティーカップなら一応、この鞄の中にあるわ」
「まあ、圭さん、そんな物いつの間に?」
「いや……予選の時にまりやさんたちが美味しそうに紅茶をすすっていたんで、お相伴にあずかないかと、いくつか」
「もしかして、予選の結果発表に遅れたのはそれですの?」
「トイレの後にカップセットを取りに行ったのだけれど、そのせいでちょっと手間取ったわ……」

 由佳里、奏、瑞穂、まりや、圭、紫苑の六名が、わいわい賑やかに話し合いながら、机を運び椅子を運び、舞台の準備をはじめた。
 簡素な机のうえに、生徒会メンバーがわざわざ見つけてきてくれた白い布を掛けてテーブルクロス代わりにする。
 舞台のうえの椅子に座った由佳里の頭髪に、まりやが楽しそうに微笑みながら櫛を通して整える。

 圭が用意した白いティーカップふたつに、奏が持ってきた魔法瓶から紅茶を注ぐ。
 紅茶は、魔法瓶で持ち運んでも味の落ちにくいアッサムをミルクティーで。
 カップから立ちのぼる華やかな香りが、舞台のうえに広がった。
 その馴染んだ香りが、まるで女子寮でくつろいでいるような雰囲気をもたらし、由佳里の気持ちを軽やかにしてくれた。

「……由佳里ちゃん、準備はオッケー?」
「はい、がんばりますっ」
「気張らずに、素の自分で居てね? いつものように、食堂でくつろぎながら話しているようなイメージで」
「はいっ」

 準備も終わり、奏、まりや、圭、紫苑たちが舞台袖に移動していく。
 近くまで来てくれた案内役の君枝に対して、由佳里と瑞穂は頷いてみせる。

「……ハンバーグハンバーグ、ハンバーグ……」
「由佳里ちゃん、なあに、それ?」
「……さっき圭さまに教えていただいたんです。観客を好きな食べ物だと考えてみれば緊張しないって」

 そんな由佳里の言葉に、瑞穂はプッと声を出して笑った。

「参ったわ、それはちょっと……食べきれないわね」
「ふふふ」

『決勝、エントリーナンバー5。一年の上岡由佳里さん……!』

 ……そうして、小豆色をした厚い垂れ幕がゆっくりと引き上げられていった……──。






『だって、みんなが幸せになれないと、面白く無いじゃないですか! そう思いませんか?
 みんなみんな頑張ってるんです……きっと、頑張っただけの何かがあるんですよ』

                                         ――高島一子






Fin



後書き

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