「み、瑞穂ちゃんっ……」
 茫然自失から我に返った御門まりやは、舞台の上でくずおれている瑞穂に駆け寄った。

 長い黒髪が舞台のうえに広がっていて、その白い顔は上気して赤く。
 悩ましげに寄せられた眉が妙に色っぽくて、瑞穂をよく知るまりやでさえ、見とれてしまいそうになった。

 まりやは手を貸し、瑞穂が上体を起こすのを手伝った。

「ちょっと大丈夫、瑞穂ちゃん? ていうか、キスだけでそんなになるの?」
 幼なじみの瑞穂に対して蓮葉なところを見せるまりやだったが、その実、ファーストキスさえまだだった。

「……約束が違う。圭さんだから油断できないとは思ってた、けど……」
「約束って?」
「……打ち合わせで、ペックだって云うから了承したのに……」

 ペック……唇が触れる程度の軽いキス。
 しかしあれはどう見てもオープンマウスキスだったし、あるいはその上を行くフレンチキスだったかもと、見る者に思わせた。

 ……ちなみに、フレンチキスというのは舌を入れる濃厚なキスのことで、日本で云うところのディープキス。
 英語ではディープキスという単語は存在しない。

「……ま、まさか舌まで入れてくるなんて」
「くっ……よもやフレンチキスとは」
「慌てて歯を閉じようとしたんだけど、そうしたら圭さんの舌を噛んじゃうことになるから出来なくて。仕方ないから舌で追い返そうとしたら絡み取られて……そのまま」

 羞恥心に顔を真っ赤にして云う瑞穂の顔があまりにも色っぽくて。
 聞いているまりやでさえ、耳まで真っ赤になってしまった。

 そんな空気を払うように、まりやは軽く、瑞穂の頭にチョップする。
「へたれてないで、いい加減に立ちなっさい!」
「こ、腰に力が入らないんだよ……」
「ったく、しょうがないわねー」

 まりやは先に立ち、瑞穂の手を引っ張って立たせようとする。
 すると、瑞穂がなにかに気づいたのか、それを拒んだ。

「ちょ、まりや、待った」
「なに?」
「そ、そのぅ。ぼ……」
「ぼ?」
「……っき、してるんだ」
「き?」

 瑞穂が上目遣いになって、なにやら股間を押さえるようにしているのを見て、何を云いたいのかようやくわかった。
 理解して、カッと全身が熱くなるまりや。
 勃起した瑞穂のナニを、アレでソレしたこともあるというのに、瑞穂の羞恥心が伝染したのかまりやまで意識してしまう。

「こんんの恥知らずの節操なし〜っ!」
「生理現象なんだから仕方ないじゃないかっ」

 拳骨を作って振り上げ、そこでまりやは固まった。
 舞台袖に居る他の出場者と生徒会メンバーの視線に気づいたというのもあるけれど……自分が何に対して怒っているのかと気づいて、動けなくなった。

 ……まりやは、知っていた。
 まりやの知る限り、瑞穂は恵泉に来てから四人の女の子と口付けしていた。
 由佳里と、一子と、貴子と、そして先ほどの圭で四人目。

 由佳里に至ってはファーストキス同士だったという話。
 妹役の由佳里からは無理矢理聞き出し、一子からは相談事という形で聞かされたわけだけれど、その当時はそれほど意識することはなかった。

 ……しかしいつからか、まりやは瑞穂のことを意識するようになり。
 ただの幼なじみで居るのが我慢できなくなっていた。

 恵泉に居る誰よりも早く……物心つく前から一緒だったのに。
 そして多分、誰よりも互いの身体を隅々まで知っているというのに。

 自分と瑞穂は、いまだにキスさえしたことがないというのがなんだか許せない。

 まりやの振り上げられた拳は、瑞穂への怒りと、自分への不甲斐なさに震えた。

 拳をふりあげる自分と、殴られると思って目を伏せ手で頭をかばう瑞穂。
 そんな光景はいままでに何度もあったものの、いまはもう、昔のままでは居られなかった。

 拳をゆっくりと下ろして、瑞穂に向けて指を突きつけ、まりやは云った。

「……つぎの、あたしとの演技だけど。瑞穂ちゃんは、一切抵抗禁止ね」

 そう云ってのけるまりやのことを、瑞穂はおずおずと見上げた。

 唇に指を当てて、なんだか切なそうにしているまりやの姿を見て……。
 ……瑞穂は一瞬、見とれてしまった。



『まりやにとっては何かヒントになるものが転がっているかも知れないよ』

 ……あれは、一月の事だった。
 未だに恵泉卒業後のことを決めかねていたまりやに、瑞穂がそう云って映画を観ることを薦めたのは。

(あたしは、あの映画に触発されてアメリカ留学を決めたんだ。映画を見て将来を決める……だなんて、なんだか安っぽくて嫌だったけれど)

『そう悲観したもんでもないわよ。リンゴが落ちるのを見て物理法則を見つけるのとそれほど違いがあるわけじゃないんだし』
 つい先ほど、瑞穂とフレンチキスをして見せた圭が、あのとき云った言葉。

 たまたま映画館の前で会ったので一緒に観たのだけれど、その後、ふたりで茶を飲みながら話し合った。
 圭はあの性格だからなかなか会話は噛み合わなかったものの、まりやの悩み話を避けることもなく聞いてくれた。
 まりやとしても、それほど近しい友人でない圭に話しやすかった、というのもあるかもしれない。

『……原因や発端なんてどうでも良いって云いたいだけよ。あなたにとってそこは全然大事じゃないの……辿り着く結論や結果の素晴らしさに賭けるべきだわ』

 その圭の言葉が後押しになったのかもしれない。
 まりやは、自分の数少ない趣味であるファッションについてより深く勉強するため、海外留学を決めたのだ。

 ……正直、まりやとしても分の悪い賭けだとはわかっている。
 お嬢さま学校でぬくぬくと育てられた自分に、どこまで出来るのか。

 けれど、ただ閉じた世界の中で、先の見えぬ未来に悩み、安穏と過ごすことをまりやは潔しとしなかった。
 ……外の世界に『喧嘩』でも挑むような気構えで、まりやは未来を見据えていた。



 控え室に戻ったまりやは、黒い学生服の上着を脱いで、傍に来た奏に手渡した。

「奏ちゃん、上着だけSサイズに交換してもらってきて」
「は、はいなのですよー」
「由佳里……は、まだダメか」

 控え室の隅でがちがちに固まっている由佳里の姿を見て、まりやはため息をついた。
 紫苑と圭の演技は一応見ていたようだけれど、目に写すだけで、実際にはあんまり頭の中に入ってないようだった。
 何度となく会場からわき上がる歓声に怯え、自分の番が来るのを恐れている。

 由佳里の姉役として一年間、一緒に寮生活してきたというのもあるけれど。
 まるで少し前の自分の、悪いところを凝縮して倍増しにしたような感じの由佳里の様子に、まりやは気が気でなかった。

「……由佳里、ちょっとだけあたしの準備、手伝って」
「は、ははは、はい……」
 ギクシャク、といった感じでまりやのほうを向く由佳里。

 そんな由佳里を前にして、まりやは着ていた白いYシャツのボタンをぷつぷつと外していき、そうしてバッと勢いよく脱いだ。
 真っ白な品の良いブラジャーが現れたが、背中に手を回しそのブラジャーのホックを外す。

「えっ、まりやお姉さま?」
 由佳里がちょっと驚いてる間にも、まりやは自分のブラジャーを外してしまった。
 そうして現れる柔らかそうな白い乳房を目のあたりにして、由佳里は息を呑んで見入った。

 女同士であるから恥ずかしがる必要はないだろうけれど、まりやの白い裸体は、まるきり大人の女性のソレで。
 クラスメイトたちの裸を体育や部活の着替えで見ることは多かったものの、それはまだ少女らしさのほうが強い裸だったので、まりやと比べられるようなものではなかった。

 ……美しかった。
 暗い控え室の中で、まりやの白い裸が浮き上がって、由佳里の目に映る。

 そんな由佳里の思考を気にすることなく、まりやは持ってきていた鞄を取り上げた。
 その中から色々と物を取り出すのだけれど、その中にあった白く細い布束を取り出した。
 陸上部に所属している由佳里は、それがバンテージのように見えた。

「胸にさらしを巻きたいんだけど、由佳里も手伝って」
「は、はい」

 白く細い布束……さらしを、まりやは地肌に巻いていく。
 由佳里はもちろん、まりや自身も勝手がわからなかったものの、互いに協力し合ってさらしを胸に巻き付けることに成功していた。

「……なるほど、ブラをつけたままだと胸が強調されるから、さらしを巻いたって所ね」
 圭が黒い学ラン姿のまま、腕組みをしてまりやのことを観察していた。

 そんな圭のことを気にせず、まりやは由佳里の頬を両手でつかんで、自分のことを見つめさせる。

「由佳里、あたしね。演技、止めることにした」
「えっ……?」
「紫苑さまと圭さんの舞台を見るまで、あたしも色々と演技のこと考えてたんだけど」
「………」
「そんな演技とか気にせず、ちょっと舞台の上で瑞穂ちゃんに本音をぶつけてくる」

 ニヤっと、悪巧みをしている時によく見せる笑みを、まりやは浮かべた。

 そこに、黒い学ランを持ってきた奏がやってきて、まりやにそれを手渡した。
 黒い学生服に手を通したものの、前のボタンは締めない。
 はだけられた学生服の真ん中から、白いさらしが巻かれた胸とその下にある小さなヘソがのぞいていた。

「まりやお姉さま、なんだか女番長さんみたいなのですよ〜」

 上着だけ小さめのものを選んで着ているので、それはまるで短ランのようだった。
 鞄の中から白く長い鉢巻きを取り出して頭に巻き、薄い白手袋を手にはめる。
 奏が云ったように、いまのまりやは女番長とか、あるいは応援団とか、そんな感じの姿になっていた。

「……ほお、そんな小道具を用意していたのね。確かに、コンテストのルールでは学ラン上下着用が義務づけられているだけで、その他の着衣について禁止事項はないわね」
「紫苑さまやあなたに演技で真っ向から戦いを挑むほど、あたしは莫迦じゃないわよ」
 白い鉢巻きを強く縛ったり、手にはめた白い手袋を引っ張って着衣を整えつつ、まりやは云った。
「もっとも最初は、あたしの演技でもなんとかなるんじゃないかと思って色々考えてたけどね。ふたりの……特にあなたの演技がインパクト強すぎて、こりゃあかんと思ったわけ」

「らしくないわね。……あきらめたの?」
「そうねえ、勝負はちょっとあきらめ気味だけど。こんな舞台は滅多にないからね」
 まりやは、ニヒヒと笑ってみせる。
「……舞台の場を借りて、ちょっと瑞穂ちゃんに告白をぶちかましてくる」

 目を丸くしている由佳里の頭を、まりやは優しく撫でてやった。

「由佳里もさ。演技とか気にしないで、ちょっと瑞穂ちゃんの胸を借りて、云いたいことを云ってくればいいんじゃないかな」

 由佳里から手を離して、まりやは振り返る。
 遠く、向かいの舞台袖に瑞穂が立っているのが見える。

 うし、と小さく気合いを入れて、まりやは控え室から元気よく出陣していった。



「……そうそう、まりやさん」

 案内役の君枝に話し掛けようとしたまりやのことを、圭が引き留めて話し掛けてきた。

「なによ、圭さん。気合い十分だってのに、出鼻をくじこうっていうの?」
「このあいだ恵泉の食堂で話した、ニュートンとリンゴの話、まだ覚えてる?」
「ええ、もちろんよ。……悔しいけどさ、あんたとの会話があたしのことを後押ししてくれたんだから」

 まりやの言葉に満足そうに頷いた後、圭はニッと小さく笑った。

「あなたに云った後、気になって調べたんだけど。リンゴが落ちたのを見て万有引力を見出したって話……あれは、後から出来た作り話みたいなのよね」
「……作り話ぃ?」
「けど、説得力ある話だったでしょう? 要するに後から出来た話であろうと、それに説得力があるなら真実味が出るって話。こないだも云ったけれど、きっかけはどうあれ結果を出した者勝ちってことかしら……」
「……で、それがなんなわけよ?」
「ただ、いつ訂正しようかと、虎視眈々とチャンスをうかがっていただけ」
「虎視眈々とって、あんたね……」
「人を驚かせるのがあたしの生き甲斐」

 まったく表情を変えないまま、Vサインをしてみせる圭。

「……まあ、なにが云いたいかっていうと。結論や結果が大事なのはもちろんだけど、そこに至る経過も、まあ、それなりに重要なんじゃないかしら」
「どこがどうなって、経過の話になるわけよ……」
「まりやさんの場合、遠くのことを凝視し過ぎて、足下が留守になりがち。あのまますぐに出て行かれたら、あたしと瑞穂さんのキスシーンの余韻が壊されてしまったわ」
「あっ……」

 瑞穂に告白をぶちかますことに気を取られていたから、周囲への注意力がなくなっていた。
 あのままの勢いで出ていたら、圭の演技で生まれた空気がいまだ色濃く残った中で、舞台にのぼるはめになったのだ。

「……敵であるあたしに助力をしてくれるだなんて、らしくないわね、圭さん?」
「云ったでしょ、余韻を壊されたくないって」
「後悔するわよ、あたしに余裕を与えたこと」
「……むしろ楽しみだわ。こっちは本気をかいま見せたっていうのに、勝手に諦められては悔しいもの。もっとも、優勝はあたしで確定でしょうけどね……」

 云うだけ云って、圭は控え室に戻っていった。
 その背中を見つめがら、まりやは口元に右手を当てつつ思考を巡らす。

「……やったろうじゃん。けど、あたしの演技では圭に勝てそうもないし……とするなら……残る手段は……」

 まりやの口元に、再び、あのニヤリとした笑いが浮かんだ。

「君枝さん、ちょっと」
「あ、はい。もう準備は出来ましたか?」
「ええとね、演技の際に使うハンドレスマイクについて訊きたいんだけど……」



『決勝、エントリーナンバー3。三年の御門まりやさま……!』

 小豆色の厚い垂れ幕が、静かにあがっていく。
 そうして、舞台中央に佇む瑞穂の姿があらわになっていった。

 穏やかに微笑んで舞台の上に立つ瑞穂の姿が、見る者に清涼感を抱かせる。
 圭との一幕で生まれた桃色の空気は、すでに無くなっていた。

 そうして、舞台袖から颯爽と現れたまりやの姿に会場はわいた。

 カッカッと音高く舞台のうえを歩くまりやの足は長く細く。
 その腰元で、ボタンをせずにはだけたられたままの黒い学ランの裾が小さくはためき。
 さらしを巻いた胸と小さなヘソがのぞいて、白い肌と黒い学生服の対比が映える。
 手に付けられた薄手の白手袋と、頭に巻いた長い白鉢巻きの演出が、この先の演技を期待させる。

 正統派という感じで正装を思わせた紫苑と、演技で魅せた圭とはまったく方向性が違うものの、まりやの男装も見る者を楽しませた。

 中央まで来てクルリと方向転換し、会場に対して正面を向くまりや。
 その斜め後ろに瑞穂を付き従えている感じになるのだが、その距離感は計算されたもので、まりやより背の高い瑞穂との身長差をあまり意識させないことに成功していた。

 会場に対して正面を向いたまりやは、肘を折り両手を後ろに回し、胸を張る。
 いわば応援団風の「休め」といった体制を、その男装姿で決めた。

「これより、ここで行われる一幕はフィクションであり、実在の人物、団体などとは一切関係ないということをご了承願います!」

 ハンドレスマイクの補助もあったものの、まりやの高い声はよく通る。
 会場に自分の声が十分に響き渡るのを確認してから、まりやは少し顎を持ち上げ、堅く目を閉じた。

 次に何が起こるのかと期待して生まれた静寂の中、まりやは右手を胸に当てて、悲しみに満ちた声音で告げた。

「……私には、とても後悔していることがあります」

 胸に当てた右手を動かし、自分の斜め後ろ方向にいる瑞穂に対して指を揃えつつ指し示した。

「ご存じの方も多いと思いますが、私と彼女……宮小路瑞穂とは、幼なじみであります。それはもう、物心つく以前からの付き合いで、姉妹同然に十八年間を過ごしてきました」

 瑞穂と紫苑が同学年に来てから影が薄くなっていたものの、まりやのことが噂にのぼることも少なくない。
 特に、瑞穂がエルダーとなってからは、その関係がいかなるものかと取り沙汰されることもあるほどだ。
 まりや自体が公言したこともあって、瑞穂とまりやが幼なじみ同士ということはわりと有名な話だった。

「……ちなみに彼女のほうがひとつき早く生まれたわけですが、美味しいおやつをめぐる際には私が姉で、悪戯して大人に怒られそうになった時は彼女に姉役を押しつけ私が妹になります」
 ニッと笑いながら云ってのけるまりやに、後ろにいる瑞穂が苦笑する。
 そんなふたりの様子に、会場のあちこちでクスリと笑いがもれた。

「ほんとうの……本当の、姉妹のようでした。通う学校は違うし住む場所も違うものの、私たちが会わない月はありませんでした。長電話をして愚痴をきかせたり、互いの家に泊まったりして過ごすことも多かった。彼女との十八年にも及ぶ交流は、長かったようでもあり、短かったようでもあり……」
 そこで、まりやは俯いた。
 前髪がサラリと流れ、頭に巻いた白鉢巻きが衣擦れの音とともに流れ落ちた
「……そんな彼女との縁も、ここを卒業してお互いに大人になることで、絶たれることになりそうです」

 ふたりの暖かい交流話から一転、悲しい話へと移ろうとしていることを感じて、会場がざわりと揺れた。

「先ほど紫苑さまもおっしゃいましたが、卒業式を経て会えなくなる人、会いにくくなる人が出てきます。私たちも例外ではなく……いいえ、それはまたいつものように私の我が儘のせいなのでもありますが……」
 まりやは顔をあげ、言い放つ。
「私は、アメリカに留学することが決まっています。なので、彼女との縁ならずとも、他の皆さんともお会いする機会はほとんどなくなってしまうかと思われます」

 圭の演技で、間近に卒業を迫っていることを一時的に忘れていた会場の空気が、再び静かに沈んでいく。
 まりやの肩に、後ろから瑞穂が歩み寄って左手を置いた。

「……会いに行くよ、まりや。何度だって、会いに行ってみせる」
 瑞穂が涙をこらえるような切なげな声で、そう云った。
 それに対して、まりやもまた、泣きそうな顔で頷く。

「瑞穂ちゃんは優しいね。……でも、会えないよ。会えば里心がついてしまうから。あたしは、向こうで実績を残すことが出来るまでこの国へは戻らない……」
 自分の横に来た瑞穂のことを、まりやは見つめ返す。
「……正直、分の悪い賭けだとは思ってる。自分にどこまで出来るかもわからない。けどもう、自分を誤魔化して、ただ大人しくしてることに耐えられなくなった。傷ついてもいい、夢やぶれてもいい。ただ、この手でなにが出来るかを確かめてきたいんだ」

 まりやは自分の手を一度見つめた後、再び会場を見据えた。

「日本を去ろうとしている私の心残り。それが彼女、宮小路瑞穂のことです」
「え……」
「今代のエルダー・シスターを立派に努めている彼女ですが、この恵泉に来るまではここまで華やかな人ではありませんでした。確かに勉強は出来るし、運動も無難にこなすし、礼儀作法は完璧だし、見た目も綺麗だし、性格は優しいし……。素養はあったんだと思います。でも、それを活かす術を彼女は知らなかった。ある意味で、よく出来たお人形のような子供だったのかもしれません」

 さきの圭のように、会場に居る女生徒たちの感情を計算して動かす、などということは、演劇の素人であるまりやには無理だった。
 けれどいま、まりやが何を喋ろうとしているのかと、会場の意識を集めることに成功していた。

「だから……だから私は……。姉妹のように思える彼女に、翼を与えてあげたかった。彼女らしく生きられる場所に連れて行ってあげたくて、この恵泉になかば無理矢理に連れて来たのです。当初は戸惑い、私に恨み言を云うことも多かったのですが……いまは違う。そうよね……瑞穂さん?」
「もちろん、いまでは感謝しています。この恵泉で、いままで知らなかった色々なことを学べて、来れて良かったと心底思いますわ」

 まりやと瑞穂は、淡い微笑みを浮かべて頷きあった。

「果たして彼女は翼を手に入れ、私の予想通りに……やがて予想を超えて高く羽ばたいて見せてくれました。人にとって誰しもが相応しい場所があるのだと思わせ……私の目を、海外留学へと向かせてくれたのも彼女の存在があったからなのだと思います」

 そうして言葉を切り、まりやはしばらく沈黙する。
 それは己の気持ちを整理するようでもあり……。
 会場にざわめきが生まれようとする気配を感じた瞬間、口を開いたまりやの口調は、さきほどと変わっていた。

「……さて、私は後悔と云いました。彼女をここに連れてきたことに、私が後悔しているということを皆さんに告げたい」
「まりや……さん?」

 瑞穂も、会場にいる女生徒たちも、戸惑う。

「ここで私は、皆さんに考えてもらいたい。エルダー・シスター制度とは、いったいなんなのか、と」

 外国の政治家がパフォーマンスをして見せるように、まりやは白手袋をはめた両手を肩まで上げて、広げた。

「毎年六月に投票を行い、その年度の最も素晴らしい3年生を生徒自らが選び出し、その生徒に与えられる名誉ある称号。恵泉の伝統を受け継ぐ者として、全生徒の規範となる女生徒を選び出す制度……」

 そこで、まりやの広げられていた手は引き戻されつつ、胸の前に交差した。

「……というのは表向きの理由ではないかと、私は思うのです」

 会場にざわめきが生まれ、次第に大きくなっていく。
 それを助長するかのように、まりやは胸の前に持ってきた手に拳を作って、力を込めているかのように震わせて見せた。

「私は……私、御門まりやは! エルダー・シスターとは、いわば全生徒たちの生け贄なのではないかと思うのです!」

 興味、という感情を取り込み、まりやは会場にひしめくようにいる女生徒たちの心をいわば支配した。
 その後はもう、まりやの独壇場。
 尽きることなく、暴風のように言葉を叩き付けた。

「年頃の少女たちが抱くごく当たり前の欲求は、しかしこの恵泉女学院という閉鎖された女子校の中では晴らされることは無い。
 その満たされない欲望の捌け口としてエルダー制度が作られたのではないかと思うのです。
 満たされぬ欲求は、放っておけば同世代の少女同士に向きがちになってしまう。
 それは非常によろしくないので、恵泉でひとつの制度が生まれたのではないか、と。
 誰しもが憧れ、誰しもが恋惹かれてもおかしくないという人物を祭り上げること。
 たとえば、クラスメイトの某のことを好きだと告げれば異常と引かれるものの、エルダー・シスターの某に恋心を抱いていると云っても、誰も莫迦にはしない。
 この恵泉で退廃した空気を生み出さぬがために作られた息抜き。
 誰もがその年相応な欲求を向けてもおかしいとは云われない、ただひとりの人物。
 いわば生け贄のような存在がエルダー・シスターなのではないでしょうか!」

 まりやは自分の斜め後ろにいる瑞穂のことを手で指し示すが、とうの瑞穂は、まりやが云わんとすることを理解しようとして口を少し開けたまま硬直していた。

 共学校ならばごく当たり前のように生まれる男女の恋人も、女子校といういわば閉鎖された空間に通う恵泉の女生徒たちにはあまり縁がない。
 もちろん、外部の学校に通う男子と交際している女生徒たちも居るが、共学校に比べればあきらかに数少ないだろう。
 満たされぬ欲求が、身近な女生徒同士に向きがちになってしまうのを少しでも防ごうと、エルダー・シスターを生け贄として、その人に想いを向けて息抜きさせようとしているのではないかと、まりやは云うのだった。

「私が見たところ、このエルダー制度はうまく機能しております。
 身近な女生徒同士による同性愛へと発展はさせず、憧れの人へ抱く淡い恋心のようなものへと昇華し、欲求をはらすということに成功している。
 女生徒同士による恋愛になってしまえば、恵泉卒業後もあとを引くでしょう。
 しかしエルダー・シスターへの想いは、今このとき、どんなに強い欲望を抱いていようと、恵泉を離れればそれは美しい想い出へと変わっていくでしょう。
 ……このエルダー制度を百年以上前に生み出した学園関係者に乾杯、といったところでしょうか」

 普段饒舌なまりやもさすがに疲れたらしく、そこで一呼吸置いた。
 んっ、んっ、と喉を整えた後、再び口を開いたまりやの口調は、先ほどよりも強い声音をともなっていた。

「……ああ、しかし!
 まさか当時の立案者も、よもやエルダー・シスターその人が牙を持つことになるとは思わなかったでしょう!
 まるで誘蛾灯のように、つぎつぎと近寄ってくる恵泉の少女たち。
 それに、牙をつきたてるエルダーがいたとしたら……」

 ビシィっと勢いよく、瑞穂に対して指を突き付けるまりや。

「私の後悔とはっ! 翼を与えてやりたいと恵泉に連れてきた彼女が、牙を持っていたことに気づかなかったことです!!」

「えええええ〜〜っ……」
 さすがに、いままで黙っていた瑞穂も口を開いた。
「ちょっとまりや……。黙って聞いてれば生け贄やら欲求発散制度やら毒牙やらって好き放題に……」
「ならば問おう、宮小路瑞穂っ!」

 舞台のうえでいつの間にか、まりやと瑞穂とは対面していた。
 指を突き付けるまりやと、それに押されるようにして引き気味な瑞穂。

「あなたがこの学院に来て半年あまり。幾人の女生徒からその唇を奪った!?」
「うっ……」
「先ほどの小鳥遊圭とのフレンチキッスを置いたとしても、昨年の学院祭で生徒会長厳島貴子のファーストキッスを公衆の面前で奪い去ったことは疑いようのない事実っ!」

 会場のあちこちで、「きゃーっ」と黄色い声があがった。
 圭とのキスがフレンチキスだったのか、とか。
 学院祭で、瑞穂と貴子が本当にキスしていたのか、とか。
 その際、貴子がファーストキスだったのか、とか。
 そんな諸々の事情をまりやが告げたことで、違う盛り上がりが生まれていた。

「そ、それは不可抗力で……」
「不可抗力であろうと事実は事実。認めましたね、宮小路瑞穂! さらに云うならば、私の可愛い後輩から、あなたにファーストキッスを奪われたと相談されたことも、一度や二度ではないのですっ……!!」

「ま、まりやお姉さまーっ!」
 舞台袖に居た由佳里が、恥ずかしさのあまり半泣きになって悲鳴をあげていた。

(由佳里から一回、一子ちゃんから二回だから三度の相談だし、嘘はついてないわよね)
 まりやは内心、ぺろりと舌を出していた。

「再度問おう、宮小路瑞穂! あなたがその毒牙に掛けた女生徒たちは、いったい何名いるのか!?」
「な、なんめいって……」
「十名か、二十名か、それともっ……? あるいは、そう問いかけることも無駄なのか」
 突き付けた指を戻し、まりやは不敵に笑いつつ腕を組んだ。
「誰もが、いままで食べたパンの枚数など覚えているわけがない……」
「そんなにいないよっ、ご、五人……?」
「五人っ!?」

 カッと、見開かれるまりやの瞳。
 口を大きく開いて噛みつきそうな勢いで、まりやの両手が瑞穂の肩をつかんだ。

「五人といったな、このタワけぇ〜〜っ!! どこの女子校に、五人の女生徒とキスするヤツがおるかーーっっ……!!」
「ちょっ、待っ、ちょっ、まりやっ」
「貴子と由佳里と圭と一子ちゃんと、あともうひとりは誰だこのヤローっ!!」

 会場が黄色い歓声でわいた。
 先ほどのエルダー制度がどうとやらはもうどこかにいってしまい、いまはもう、まりやと瑞穂の幼なじみによる喧嘩の様相を呈してきた。
 ふたりのことをよく知るクラスメイトたちはくすくすと笑い。
 ふたりに憧れている女生徒たちは、ハラハラとその舞台上を食い入るように見つめていた。

 床に倒され、仰向けになった瑞穂の上に、まりやが馬乗りになっていた。
 馬乗りになった勢いで、まりやの手が瑞穂の首を締め付けるように当てられている。
 ふたりの荒々しい呼吸が交差し、マイクに乗って会場のスピーカーから拡大されて漏れていく。
 互いに薄く汗をかいて、その頬に髪を貼り付けつつ、じっと見つめ合う。

 男装をしたまりやが、エルダー・シスターである瑞穂を押し倒して馬乗りになっている。
 そんな刺激的な光景なはずなのに、それを見る者に、なにか悲しみを感じさせた。

「……瑞穂ちゃんが誰の唇を奪おうが、誰を泣かせようが、あたしがどうこう云えることではないのかもしれないけど。
 ただ……そう、ただ……あたしだけが瑞穂ちゃんの魅力を知っていたのに……ここに連れてきたせいで人気者になって……。
 ううん、元はといえばあたしがそうさせたっていうのに……あたしを置いて、どんどん前に行ってしまう瑞穂ちゃんを見て寂しくなっちゃったんだ」

 瑞穂の首に当てていた手を、ゆっくりと上へとずらして……。
 まりやの指が、瑞穂の唇をとらえた。

「これが……恵泉の女生徒たちを惑わす、大嘘つきの唇か」
「……そう、だね……ぼくは……私は、大嘘つきだ。まりやに鍛えられたということもあるけど……大人になるってことは、嘘がうまくなるってことかもしれないね」

 舞台のうえに押し倒されたまま、瑞穂は自分の唇に当てられたまりやの手を取り、握りしめた。
 それはまるで、もう離したくはないと示すように。

「ほんとうに……私は、大嘘つきだ。いまだって、まりやのことをこんなにも引き止めめたいと思っているのに、平気な顔をしているんだから……」
「いかな瑞穂ちゃんでも、あたしのことを引き止めることなんて出来ないよ……」

 悲しい事実を告げるように、まりやは淡々と言葉を紡ぐ。
 そうして上体を起こそうとするのだけれど、手をつかんでいる瑞穂に引っ張られ、再び、瑞穂のうえに覆い被さるようになる。

「……だけどね、まりや。別れゆくふたりを、いつか必ず、引き合わせる方法なら知ってるよ」
「へえ……どんな方法で……?」
「とても強い約束。云わばおまじない」
「再会のおまじない、ね。どうやるの……?」
「……幼なじみふたりが、再会を誓って口付けを交わすんだ」

 しばらくの沈黙が下りた後……まりやは、プッと吹き出して笑った。

「あはは、やあだ瑞穂ちゃん、本気で云ってる? 酔っぱらってたりしないよね?」
「まりや……」
「やっぱりあれね。その唇でみんなを騙してきたんだね、宮小路瑞穂さん、は……」
「……まりやはやっぱり意地悪だ。意地っ張りで天の邪鬼で……」
「そうね。引っこ抜けないくらい、深く根付いた黒い尻尾が生えてるみたい」

 ニヒヒと笑った後、まりやは下にいる瑞穂のことを覗き込むように顔を下げる。

「意地悪なあたしとしては、こう訊いて瑞穂ちゃんを虐めたくなる。『こんなに人が見ている中で、キスなんて出来るの?』って」
「出来るよ」
 それはまるで、子供が意地を張るように。
 瑞穂は即座に答えた。
「まりやのためだったら、出来るよ」
「……けど、意地っ張りなあたしは、それにこう答えるの。『そんなおまじない、ありはしないよ。あるって云うのなら、どこの国のなんて名前のおまじない?』って」
「それは……」

 返事に窮した瑞穂の手から、まりやは自分の手を引き抜いた。
 そうして上体を起こし、少し距離を置いて話を続ける。

「そんなおまじないがあるとしても、それは特別な場所でだったり、特別な時間だったり、あるいは……お互いにファーストキス同士だったり。幼なじみ同士ってのは……初恋は実らないとかでも有名だけど、お互いに知りすぎているから、なかなか難しいものなのかもしれないね」
「まりや……」
「……でも」

 まりやが、再び真上から瑞穂のことを見下ろす。
 白く長い鉢巻きが黒い学生服のうえを衣擦れの音とともに滑り、瑞穂の頬に当たる。

「でも……あたしは……そんな優しい瑞穂ちゃんの、切なそうな瞳を向けられちゃうと……」
 ゆっくりと……ほんとうにゆっくりと、まりやの顔が、瑞穂の唇めがけて落ちていく。
「……いまだけは、その瞳に……騙されちゃってもいいかなぁ……って……」

 まりやの両手が、瑞穂の両頬をとらえ。
 瑞穂の手が、そんなまりやの手をうえから包み込む。
 ふたりの顔が、時間を掛けてゆっくりと近づいていき……。

 ……やがて、息が届こうかというほどに近づいたとき。

「ちょっと待ったあっ……!!」

 ズダーンという激しい音とともに、舞台袖から誰かが飛び出してきた。

「なっ」「なっ」「なっ」
「「「なにごとっ……!?」」」

 誰もが硬直して動けぬ中、その人はただひとり、舞台のうえをツカツカと歩いていく。
 男子学生服上下に、黒い学生帽をかぶっているものの、それは紛うことなく小鳥遊圭その人だった。

「な、ななななな、なんなのよ、圭っ!?」
 怒りよりもまだ驚きのほうが強いままに、まりやは身体をねじって声をあげた。

 圭はどこから持ってきたのか金属製のホイッスルを右手で取り出し、かぶった帽子のつばを左手でおさえながら、ピィーーっとホイッスルを音高く鳴らした。
 その後、帽子をおさえていた左手でまりやのことを指さし、真顔のままにこう云った。

「……時間切れです、エントリーナンバースリー御門まりやさん」
「んなっ……!!」

 圭の言葉を皮切りに、まりやの頭上……舞台のうえから、きゅらきゅらと小さな音を立てつつ、小豆色の垂れ幕が下がりはじめた。

「このミス・ミスターコンテストにおける規定のルールでは、告白の演技につかえる時間は最高四分となっているわ。演技に見入っている生徒会メンバーからストップウォッチをもぎ取って見たところ、すでに六分三十秒」
 ホイッスルをしまった手で、今度はストップウォッチを取りだして示して見せた。
「二分三十秒超過ということで、身動きできない生徒会メンバーに変わって、このわたくし、小鳥遊圭めが代わりに制止させていただきました」

『……ええと、小鳥遊圭さまがおっしゃったように、大会の規定ルールにより、御門まりやさまの告白の演技はこれで終了とさせていただきます』

 帽子を圭に奪われていた君枝が、慌てた様子で手に持ったマイクでアナウンスを入れた。
 先ほどの圭の声は、まりやと瑞穂の胸元に付けられたハンドレスマイクによって拾われ、会場内に届いていた。

「こ、これからって時に……! 制限時間なんてとっくに過ぎてるんだから、あともう十秒でも待ってくれたっていいじゃないのおっ……!!」
「ルールはルールです。決まり事が守られないなら、みんな好き放題にやってしまい、ゲームはなりたたないのです」
 硬直が解かれた会場からも、まりやと同じように不満の声があがっていた。
 それに対して、圭はまったくつけいる隙がないような声音ではね除けていた。

 そうこうするうちに、垂れ幕は下がりきっていた。
 この状態では、いかにまりやでも演技の続きがどうこうとは云えなくなってしまった。

 すでに出場したメンバーと生徒会メンバー、それと演劇部に所属している者たちなら周知のことなのだけれど、垂れ幕が下りきった時点でハンドレスマイクのスイッチは自動で一斉にオフになる。
 それを知っているので、垂れ幕が下がりきったのを見届けてから、圭はニヤリと笑ってこう云った。

「……ふふふ、残念だったわね、まりやさん。なかなか素敵な舞台だったので、あたしも見入ってしまったわ……」
「制限時間のことなんてすっかり忘れてたわ……。あなたの云うとおり、あたしは遠くのことを見過ぎて目の前のことを見逃しがちだわね」
「あのままあなたと瑞穂さんとが口付けを交わしていたら、あたしの優勝も危なかったかもね……どうにか止められないかと思考を巡らして、制限時間に気づいたってわけ」

 いつも勝ち気なまりやが、不意に、涙を流しそうなほどに濡れた声で云った。
「くっ……せっかく、瑞穂ちゃんとキスできると思ったのに……」
「むむ……」
 そんな態度の急変に、圭が少し怯む。

「あともう少しで……瑞穂ちゃんと……」
「むむむ……ここはギャースって怒ってくれたほうがあたしとしても楽なのだが……」

 珍しく戸惑いを見せる圭に隠れて、まりやはこっそりと、俯きながら舌を出す。
 しかし、それは誰にも気づかれていない。

 ……と。
「まりや……」
 そんなまりやの肩に、上半身を起こした瑞穂が、手を掛けた。

「え、瑞穂、ちゃん……?」

 垂れ幕が下がってからは嘘泣きだったのだけれど……。
 そんなまりやを、瑞穂が優しく頬を撫でながら顔を近づけていく。
 ……そうして、舞台に腰をおろしたまま、ピンッと逃げるように背筋をのばしたまりやを抱き締めつつ、瑞穂が優しく唇を重ねた。

 それは由佳里とのように微笑ましいものではなく。
 貴子とのように突発的なものでもなく。
 圭とのように奪われるようなものでもなく。

 ……別れを意識した、一子との悲しいキスに似ていた。

 短くもなく、長くもないキスのあと、ゆっくりと唇が離れていく。
 そうして、瑞穂はとても優しい微笑みを浮かべながら、まりやに言葉を紡いでいく。

「約束だからね、まりや」
「瑞穂、ちゃん……」
「元気なままのまりやで、またきっと、私のところに帰ってきてね」
「……うん」
「疲れたり、挫折したり、泣きたいことがあったら、私のところに休みに来ていいから。そのときはまた、元気なまりやに戻って、私のところから旅立っていけばいい」
「……うん」
「大好きだよ、まりや」
「あたしも……大好きだよ、瑞穂ちゃん。ほんとうに、大好きだから……」

 まりやの瞳から、真実の涙がこぼれて落ちて。
 自分のことを抱き締めてくれている瑞穂の長い髪に、落ちた。

 間近に迫った別れから逃れるように、ふたりはかたく抱き締め合うのだった。



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