『……アレはほんとうのこと、だったのですね』
 それは……。
 厳島貴子にとって、忘れ得ぬ過去。
『もう二度と、私のことを「お姉さま」などと呼ばないでっ……!』
 ……決してやり直すことは出来ない、深い深い過ちと、後悔。

 控え室で、紫苑と黙って見つめ合いながら。
 貴子は、己を縛り付ける過去の中へと沈んでいった……。



 ……貴子にとって、「厳島のお嬢さま」と呼ばれることは苦痛だった。

 父である厳島壮一郎は、厳島家を一代で急成長させた凄腕の経営者だ。
 しかしその成金主義たるや、物心がついて世界を知り始めたばかりの貴子ですら呆れさせるほどだった。

 だから決して、貴子は厳島家の名を笠に着ることはしたくなかった。
 恵泉の他の女生徒たちと同じ様に扱われることを望み、黒塗りのハイヤーでの出迎えを止めてバス通学に替え、豪華過ぎるほどの弁当を嫌って自分で手作りにしたりと様々な努力をした。
 厳島家の力を使うことに躊躇いのない兄は、そんな貴子の努力を無意味なことだと一笑に付したものだった。

 ……清く、正しく、生きる。
 厳島家のお嬢さまだからと後ろ指をさされるのだけは嫌だったから、貴子は常に真面目に生きていた。
 他人に厳しく、そしてなによりも自分に厳しく、己を強く律して、正しい生き方を望む。

 欲望のままに生きる父も、母も、兄も。
 物心つくようになってから、貴子には嫌悪感が増すばかりで、尊敬できそうもなかった。

 ……だから。
 初めて尊敬できる人と出会えた時、貴子はとても嬉しかった。
 憧れ、敬い、そうして自分にとっての規範となる人。
 かくあるべしという人物が目の前に現れ、貴子の心は救われた。

 その人が、十条紫苑。
 ひとつ年上の、美しいひと。

 紫苑は幼い頃から周りに慕われるような人だったから、貴子はそれこそ小等部の頃から知っていた。
 けれど知り合う機会もなく、ただ、美しく優しい先輩が居るという情報があるに過ぎなかった。

 知り合う機会が出来たのは、高等部に入ってから。
 貴子の一代前の生徒会長が、紫苑と親しく交流を持っていたからだった。
 貴子の生真面目さを気に入ってくれた生徒会長が、「会わせたい奴がいるんだ」と云って引き合わせてくれたことが、すべてのはじまり……。

 ……初めて会話を交わしたその人は、想像通りに美しくて優しくて清らかで。
 そして……どこか子供っぽくて頼りないところのある、とても可愛らしい人だった。

「彼女は身体が弱い所があるから、それが原因で倒れるようなことでもあったら、君に守ってやって欲しい」
 悪友然といった様子で、生徒会長は笑いながらそう口にした。
「紫苑が黒髪の姫君なら、さしずめ貴子は栗毛の騎士か」
 そう揶揄して云う生徒会長だったけれど、まさか紫苑が留年することになるとは思ってもいなかっただろう。

 尊敬できる人が身近にいるということは、貴子にとって励みになった。
 紫苑との交流を、だから貴子はとても大切にした。
 まっすぐな性格の貴子を紫苑も気に入ってくれたらしく、話す時間は日ごとに増えていった。



 ……そんなある日のこと。

 嫌っている兄が、貴子に三枚の写真を差し出して見せた。
 中等部に入る頃から、兄の視線にイヤらしさを感じるようになって避けるようになっていたのだが、その日は妙にしつこく話し掛けてくる。

 そうして、三枚の写真を差し出しながら彼は云った。
「貴子から見て、この三人のうち誰が良いと思う?」
 唯我独尊な兄が自分に意見を訊くことなど珍しいことだった。
 だから、嫌々ながらも指し示された三枚の写真に視線を向ける。

 そうして、一枚の写真に目が止まった。
 それは、十条紫苑。
 恵泉の黒い制服を着て、澄ました顔をしている紫苑その人だった。

「どうして、兄さんが紫苑お姉さまのことをご存じなのです……?」
 驚きを隠せず、貴子は紫苑の写真を手に取る。
 憧れている紫苑の写真が、兄の手の中にあるのが嫌だった。
 だから、差し出されるままに紫苑の写真を抜き取っていた。

 普段逃げる貴子が興味深げに訊ねてくるのが楽しいのか、彼は満足そうに頷いた。

「そうか、紫苑っていうのか。貴子が良いっていうのなら、この子にしよう」
 兄の楽しそうな台詞に、貴子は云いようのない悪寒を覚えた。

 ……それが、運命の選択。

 三人の花嫁適合者の中からただひとり選ばれたのが、紫苑その人。
 そうやってゲームのように他人の人生をもてあそぶのが、兄たちが好んで使う厳島家としての特権。



 紫苑と再会したとき、すでにその顔に微笑みはなかった。

 唇を固く閉ざし、寄せた眉で悲しみを表し、ただじっと貴子のことを見つめていた。
 病気がちで身体が弱いとは聞いていたものの、そのような暗い顔を見るのは初めてのことだった。

「あなたの厳島家から、私の十条家へ婚姻の話が持ち出されました。私の両親は厳島家への恩義に報いるために、それをお受けすることになるでしょう」

 ……政略結婚。
 なんと浮世離れした言葉であろうか。
 しかし財界に連なる者たちにとって、いまだにそれは現実に行われていることであり、血と家柄が尊ばれ、誇りにする者たちがいる。
 十条家はいまでこそ凋落したが、元を辿れば侯爵家の元華族という家柄だ。
 それを兄が……あるいはその背後にいる父が買い取ろうというのだ。

「……心当たりがあるようですね。昨日お会いした、あなたのお兄さまがおっしゃっていたことは……」

 あの日……。
 兄がカードを選べとでもいうかのように三枚の写真を差し出したことを思い出して、貴子は慄然とした。
 ……あれは、選択。
 貴子自身が、紫苑を選び出してしまったのだ。

「あなたが、私を選んだということは」

 全てを悟り、貴子はよろめく。
 震える身体を止めようと、己の両腕でかき抱く。

「……アレはほんとうのこと、だったのですね」

 遠い……。
 目の前にいるはずなのに、紫苑がどんどんと遠く離れていくのを感じた。

「し、紫苑……お姉、さま……」
 行かないで、と震える手を伸ばして。
 そうしてその手は、紫苑によってはね除けられてしまった。

「もう二度と、私のことを『お姉さま』などと呼ばないでっ……!」

 ただ、ひとり。
 初めて尊敬できると思ったその人に、拒絶されてしまった。

「……厳島だからといって、全てを手に入れられると思ったら大間違いだわ」
 去りゆく紫苑が残した言葉が、貴子を打ちのめした。

 物心つくようになってから、必死になって頑張ってきたのに。
 「厳島家のお嬢さま」だからと後ろ指をさされるのが嫌で、自分を律し、清く生きようと努めてきたのに。
 尊敬する人に、「厳島」ということで拒絶されてしまった。

 ……失ってしまった。
 自分の選択で、大切な人を失ってしまった。

 地面に崩れ落ちて泣きむせぶ貴子は、厳島という家を呪った。
 汚い、醜い、なんと虚栄に満ちた家族なのだろう。
 握りしめた掌からこぼれる赤い血と、流れ落ちる涙。
 厳島の血を全て洗い流せてしまえたら良いのにと、強く思った。

 ……その日を境に、ただ嫌っていた家族のことを憎むようになった。

 しかし、毎日口にする食べ物も、柔らかで暖かな部屋と寝床も、着心地の良い服も、恵泉に通うための学費も、そして自分の血肉でさえも、それら全ては両親に与えられたものだった。
 貴子を構築するそのほとんどは、貴子自身の物ですらない。

 ……自分は、自分ですらない。
 あの人の前に出ても恥じることのない人間になりたい。

 貴子が本当の意味で自立を意識し、そうして厳島を出ることを決意したのは、この日のことだった。

『紫苑が黒髪の姫君なら、さしずめ貴子は栗毛の騎士か』

 出会った日に、ふたりを引き合わせてくれた会長が冗談まじりに云った言葉。
 笑い返したものの、その言葉は胸に気持ちよく響いて、貴子にとってささやかな誓いになっていた。

 ……あの人の騎士役になってみせる。
 あの人をきっと……救い出してみせよう。

 出会った日の誓いを。
 その日、再び強く、心に刻んだ。



 紫苑がエルダー・シスターに選ばれてからも、貴子は「お姉さま」と口にすることが出来ず、下級生でただひとり「紫苑さま」と呼び続けていた。
 それを、出会った当初のふたりを知る者たちは、紫苑と貴子のふたりは特別仲が良いからだと勘違いしてくれた。

 それぐらい、紫苑の演技はうまかった。
 紫苑がエルダーとなると、必然的に生徒会のメンバーとの交流も増える。
 その中で紫苑と貴子とは、互いに感情を抑えながらも、にこやかに会話を交わしていた。

 ……紫苑とて、愚かではない。
 自分に訪れた政略結婚が、すべて貴子のせいではないのだと気づくことに時間はかからなかった。

 しかしそれでも、前のような関係には戻れない。

 紫苑にとって両親は敬愛すべき人たちであったし、貴子の父と兄は、まだ子供である紫苑のことなど軽くいなしてしまう。
 ……必然的に、やり場のない感情は貴子に向かいがちになる。

 いけないとはわかっていても、結果的に暗い未来を招き寄せた貴子を赦しきれず。
 以前親しかったということもあって、紫苑は貴子への気持ちを持て余しがちだった。



 貴子は、あれからというものさらに厳しく自分を律した。

 清く、正しく、美しく……。
 一生懸命に生徒会活動に励み、生真面目さにも磨きがかかり、時として冷たいと表現されるほどまっすぐに。

 ……自分は違う。
 厳島家が示したような、汚濁に満ちた醜い人間ではない。
 だから、そんな目で見ないで……。

 なにかに追い立てられるように突き進む貴子に、付いてくる者はそう多くはなかった。

 去年の初夏に行われたエルダー・シスターの投票結果を見れば、一目瞭然だろう。
 突然現れた宮小路瑞穂という転入生に、エルダーの座を奪われてしまった。

 憧れの人が果たせなかった夢を、己が果たそうと求め。
 そしてそれをまっとう出来れば、またあの人に近づけるのではないかと思っていた。

 しかし、瑞穂のエルダー選出に対して意義を唱えた貴子を退けたのもまた、紫苑その人だった。

(……お姉さまなら……瑞穂さんなら、なにか良い考えが浮かぶだろうか)

 貴子の視線は今に戻り、舞台の反対側にいる瑞穂の姿を捕らえた。
 つぎの出場者である圭と打ち合わせをしている瑞穂の横顔をじっと見つめる。

 敵対し、迷走し……。
 そしてとうとう、尊敬に値するもうひとりの人となった、宮小路瑞穂。

 騎士の誓いを強く刻んだあの日から、貴子はずっと、紫苑を救う方法を探していた。
 婚約の破棄を、両親と兄に懇願しても無駄に終わることはわかっている。
 むしろ、そんな貴子のことを彼らは面白がるだけだろう。

 いくつか思いついた考えのどれもが、すべては厳島家の崩壊に結びついてしまう。
 厳島家自身が無くなってしまうことになんの未練はないものの、それに付随するようにして、厳島に連なる者たちを巻き込んでしまうことになるのだろう。
 そうすることで紫苑ひとりを救えたとしても、貴子の見えぬ場所で第二、第三の悲劇が生まれることが容易に予想される。

(……なにか、上手い方法はないものだろうか。
 自分には探し出せなかったけれど、あるいは、あの人なら……)

 貴子が瑞穂の真実を知り、紫苑のことを打ち明け。
 ふたりが協力して紫苑を助け出すのには、まだ幾ばくかの歳月を必要としていた。



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