1998.01/26 Mon 08:31
街路に投げ捨てられていた、ピンクの傘。
開かれた状態で、先端を下に置かれている。
そのため、降りしきる雨がたまっていた。
彼はその傘を拾いあげ、水を振り払った。
「まあ、いまさら意味はないけどな」
微かに笑って、自分と茜の上に傘を差す。
彼の傍らに寄り添うように、茜がつかまっていた。
彼ほどではないが、茜の服もずぶ濡れになっていた。
「…服、ビショビショです」
茜が、いま気づいたように呟いた。
彼の服は、すでに吸い取れるだけ吸い取ったように、水分を含んでいた。
「ダイジョブだ。馬鹿は風邪ひかないって言うしな」
「…それなら、私も大丈夫です」
「そうか…」
ふたりして黙り込み、傘の下で見つめ合う。
茜の瞳を近くで見つめて、彼は胸を締めつけられるような切なさに震えた。
(…茜を置いて、俺はどこに行こうっていうんだ)
彼が痛切に感じているのは、自分の存在感が、日に日に希薄になっていくこと。
そして、別の世界に自分がいて、この世界とは逆に、そこでの存在感が増しているという感覚。
この世界での自分というものが、ゆるゆると流れ出していく。
それに従って、周りの人々から忘れ去られていく。
最初は、幼なじみの詩子だった。
10年以上も一緒にいた詩子に忘れられて…クラスメートに忘れられて…そして、両親にさえ忘れられた。
(なのにどうして茜だけは、俺のことを忘れないんだ)
わからない。
…ただ、彼にも、ひとつだけわかっていることがあった。
この世界で誰よりも、忘れられたくない人が…茜だということを。
(俺と茜の関係は、なんなのだろう)
恋人?
(…違う。なにかが違う)
兄妹?
(それも、なにか違う)
親友?
幼なじみ?
(違う。それだけじゃ足りない)
自分たちの関係を、一言で表す言葉など見つからない。
(祐一と、茜…。それだけで、充分か…)
彼は、傍らに寄り添う茜を、見つめる。
茜が自分の腕に抱きついているのを見て、彼は苦しげに顔を歪めて、それを振りほどいた。
「…ゆう?」
「恥ずかしいだろ…」
「そんな…ひどいです」
この期に及んでまで拒絶を見せる彼の態度に、茜は眉をひそめた。
そんな茜をじっと見つめて、彼は思いを巡らせる。
(…ずっと考えていた。消えていく俺が、茜になにを残してやれるかって…)
いま、自分に起きている現象から、逃れることはできない。
それと悟り、彼は受け入れた。
そうしてなにを出来るかを、ずっと考えていた。
「行こう。…やっておかなければいけないことが、あるんだ」
空き地。
彼らの、思い出の場所。
幼い頃は、よくここで日が暮れるまで遊んだ。
学校に通うようになってからは、ここで待ち合わせて、幼なじみと一緒に登校した。
「うん、やっぱり、ここがいいな」
「ゆう?」
「…最後を迎えるのは、ここが、いい」
茜は、その言葉にびくりと身体を震わせる。
つぎに、彼の胸にしがみついた。
「ゆう、いったい、なにがどうなっているのっ? 最後って、なんのことですかっ?」
いままで、そう叫び出したいのを我慢していたのだろう。
「…俺にも、よくはわからないんだ…」
「そんなっ…」
「ただ…そうだな。前に、お菓子の国がどうのって、話しただろ?」
「はい…」
「あれが、現実に起こっているんだ」
「そんな…」
「茜だって、わかっているだろう? 俺のことを、周りがみんな忘れていく」
「…はい」
「この世界での俺という存在が、薄れていくんだ。そうして、別の世界へと飲み込まれていってしまう」
「どうして…。どうして、この世界に留まれないんですか?」
「……」
「この世界が嫌いなの? ゆうにとって、意味のないものなんですか…?」
「……」
ずっと、あの楽しい日々が続けばいいと願い。
失った幸せな日々を取り戻せることを願い。
遠い幼い日に切望し、生まれた、もうひとつの世界。
(…あゆ…)
そこには、彼が初めて恋をした、あの雪の街の少女がいるのだろうか。
あるいは、幼い日に永遠を誓ってくれた、この幼なじみの少女がいるのだろうか。
それとも、そのふたりが…。
あの時に望んだままの姿で、待っているのだろうか。
ふたりとの約束。
ふたつの、約束。
小さな彼が切望し、生まれた世界…。
(でも…。俺はもう、そんな世界など望んじゃいない)
彼は、歯を食いしばる。
(俺が成長したように、やはり成長した茜と、ずっと、一緒にいたかった…。
一緒に成長して、一緒にいろんなことを知り、感じて。そうして、思い出を積み重ねていきたかった)
けれど…。
そんな望みが、もう叶わぬものだと、彼は痛切に感じていた。
泣きたかった。
彼女を抱きしめたかった。
行きたくない、と声を限りに泣きわめきたかった。
…それを、ぐっと我慢する。
ひとり残す茜を思い。
自分になにができるかを考え、選んだもの。
(茜になにも残してやれないのなら…。いっそ、全てを忘れさせてやろう。
俺みたいな馬鹿のことを忘れて、幸せな日々を見つけだせるように…)
束縛。
…それを、彼は感じていた。
(俺と茜は、互いの存在から、自らを戒めてしまっている)
見えない鎖が、ふたりの心を縛りつけていた。
それと気づくことのない、制約。
それが、ふたりを自由にさせることを邪魔していた。
…そんな鎖が、自分をこの世界に繋ぎ止めているのだとも、彼は思う。
けれど、もうこの世界に留まれないのを悟っている今。
茜にとっては、ただの重みでしかなくなる。
この世界から消えて行こうとする彼。
そんな彼が、茜になにかしてやれることといったら…。
(茜を束縛する、俺という鎖を断ち切ってやることだろう)
「茜。俺のことは忘れろ」
「…嫌です」
「忘れるんだ」
「…絶対に嫌です」
茜の変わらない頑固な所に、彼は苦笑する。
それを堪らなく愛おしいと思い、その切なさに彼は喘いだ。
「私は…ゆうが側にいてくれないと、駄目なんです…」
「…大丈夫だよ、茜なら」
「駄目です。…たとえば朝、ひとりでは起きれません」
「そうだな…。茜の寝ぼすけな所、なんとかしないとな」
「低血圧だから無理です。だから、毎朝モーニングコールしてくれる人がいないと駄目なんです」
「しいこにでも頼めよ」
「詩子じゃ駄目です。詩子はよく忘れます。きっと忘れます」
「そうか…。それじゃ、困るな」
「一大事です。遅刻の常習犯になってしまいます」
…ふたりきりの、寂しげな空き地。
ひとつの傘をさして、その下で向かい合っている男女。
彼は震える手で、茜の頭に手を置いた。
「茜…。お前は、ひとりでも大丈夫だよ、きっと」
(ひとりでも、茜なら大丈夫だ。そしてひとりで歩き、自立したお前は、きっと、今よりもキレイになる。美しくなる。
できれば俺が…時間をかけてゆっくりと、お前が巣立つのを手伝ってやりたかったけど。
俺にはもう、それだけの時間が残されていないから。
…寂しいな。
美しく成長したお前を、見てみたかった。ひとりの女になったお前を、この手で抱きしめてみたかった。
そうすればきっと、お前に抱くことのなかった「恋」というものも、生まれたかもしれないのに。
悔しい。
お前ほどの女を、他の男に取られてしまうのか。
…けど。
お前なら。意固地で頑固で、そしてなにより真摯なお前なら。
生半可な男など、近寄らせはしないだろう。
お前の心に接することが出来るような…。
本気でお前を欲するような男が現れたら…。
しょうがない。
我慢するよ、俺は。
そうだな。
そんな男が、茜の前に現れることを、俺は願っているよ…)
…じわじわと、視界が狭まっていく。
ゆっくりと遠のいていく風景。
(ああ、もうそろそろ、消えるのか…)
と、彼は自覚した。
茜の仕草に、穏やかな微笑みに、その緩やかな声に。
茜と過ごした、大切な時間。
他愛ないお喋り、くだらない冗談。
忘れられない、数え切れないほど、たくさんの思い出。
(…い、嫌だ…やっぱり嫌だっ。俺は、そんな大人じゃない…。
待ってくれ…ああ、待ってくれっ。
俺は、ずっとこの世界にいたいんだ。
ずっと、茜の側にいたいんだ。
…でも、それはできないから。
ああ、わかっている、わかっているよっ…。
なら俺は…。
だから俺は。
ああでも、わがままを言わせてくれっ。
消えていく俺の、最後のわがままを…)
「茜…キスしていいか…?」
彼は、絞り出すように言葉を紡ぐ。
思わず口に出してしまったその言葉に、彼は泣きたくなった。
我慢すると、かたく決めていたのに。
それなのに口から滑り出した、その言葉。
「…駄目です」
「そうだよな…」
「違います。キスじゃ駄目なんです。キスなんかじゃ全然足りないんです」
茜は、両手で彼にしがみつく。
「ゆうが望んでいたことを…私に、刻み込んでください」
「茜…?」
「わからないですか…回りくどいですか? 私は、あなたに抱いて欲しいと言っているんです」
「…だめだ。できない」
「どうしてっ!?」
「消えていく俺が、忘れられていく俺が、お前にやっていいことじゃない」
「忘れません。絶対に忘れませんっ。…待ちます。思い出を胸に、ゆうが帰ってくるのを待ちます」
「それは、あまりにつらすぎるじゃないか…」
「構いません。私は、ゆうのことを愛しています。それとも、ゆうは私のこと…それほど好きでいてくれないんですか?」
違う…と、彼は叫びたかった。
しかし、それをグッと我慢する。
(本当に好きだから…そんな残酷なこと、お前に残していきたくないんだ)
「そして、約束してください」
茜は言った。
「きっと戻って来るって。この世界から消えても、絶対に帰ってくるって。約束してください…」
「…駄目だ、出来ない」
「どうしてですかっ!?」
…幼い日の、約束。
それが、この事態を招き寄せてしまった。
だから彼は、約束など出来なかった。
そんな約束が、大切な茜を縛ることになってしまうから。
「いいか、茜。忘れるんだ、俺のこと…」
彼は、意識が急速に薄れていくのを感じていた。
「それが俺の、願いだから…」
「そんなお願い、ずるいです」
「…茜」
彼は、自分に抱きついている茜を引き剥がそうとした。
けれど茜は、それを許さなかった。
力づくでしがみついてくる。
絶対に逃がさない、とでも言うかのように。
(結局俺は、茜になにをしてやれたんだろう…)
彼は、視界が暗闇に閉ざされていく中、茜の額に優しく口づけをする。
「お前の頑固過ぎるところ。それが、少しだけ心配だよ」
…ふいに。
茜は、両腕で抱きしめていたはずの彼の身体を失った。
両手が宙をつかみ、彼が持っていたはずのピンクの傘が落ちてきた。
茜の視界が、ピンクで染まった。
その傘がゆるやかに地面に落下すると。
茜の瞳に、誰も映らなかった。
「え…?」
確かに目の前にあった彼の姿が、消えた。
確かに感じていた、彼の温もりが失われた。
「ゆう…?」
突然の出来事を受け入れられず、辺りを見回す。
なにもない、空き地。
枯れ草と、土の地面と、水たまりと、空から降りしきる雨だけ。
「そんなっ…」
おろおろと、意味もなく歩き回る。
「あぁ…ああぁあっ…」
彼を見失ったと同時に、茜の中にあった、彼という存在が薄らいでいった。
それを、必死に繋ぎ止めようと足掻く。
「忘れませんっ! 絶対に忘れませんっ!」
茜は声を限りに叫び、自分の身体を抱きしめた。
「だからお願いです…。絶対に帰ってきてっ…!」
茜は、声高く、泣いた。
受け入れがたいこの出来事に。
失いたくなかった大切な人を想って。
茜はひとり、彼がいた場所に立ち、泣き続けた。
同日 16:37
「――茜っ!」
空き地に、その声が響き渡った。
…自分が呼ばれたのだとわかり、茜はうつむけていた顔をあげる。
ブルーの傘を差した幼なじみが、自分に向かって駆け寄ってくる。
自分が差しているのとお揃いの、ブルーの傘。
「…詩子」
「ああ、もうっ。どうしたのよっ…?」
詩子は、自分が着ていたコートを、茜の肩に羽織らせる。
「服、濡れてて冷たいよ。口も真っ青じゃない…」
「……」
「とりあえず、家に帰ろうよ? 茜のお母さんも心配してる」
「…嫌です」
茜の拒絶に、詩子は深い溜め息をもらす。
幼なじみが普通の状態でないことなど、一目でわかっていた。
「寒いよ。風邪引いちゃうよ?」
「馬鹿は風邪ひかないらしいから…」
「……」
詩子はもう一度、溜め息をつく。
そして、茜の横に並んで、黙って立った。
「……」
「……」
黙り込んだまま、お揃いの傘をさした、ふたり。
「…詩子、帰ってください」
「イヤ」
「ひとりにしてください…」
「いまは、茜の側にいなきゃって思うから、イヤ」
「……」
「……」
茜の胸の奥に、チロチロと燃え上がる不快な気持ちがあった。
誰かに八つ当たりしたかった。
そうして声高くなじれば、この深い悲しみも紛れるのではないか。
「詩子…」
「ん?」
「その傘…誰からもらったんですか?」
「え? ああ、これ? …あれ? ええっと…」
「覚えていないの?」
「ええと、ちょっと待ってよ。う〜んと…」
「去年のクリスマスに、幼なじみのゆうからプレゼントされたんですよ」
「…え、ゆう? ゆうって…誰?」
「忘れたんですか? あんなに喜んでいたのに」
「えと、ええっと…」
「…ひどいですね」
「うう…ごめん。…でもでも、この傘が大切だっていうのはわかるのよ、うん」
大切だっていうのはわかるのよ。
そう言った詩子に、茜の中にあった暗い感情が首をもたげる。
「…詩子は嘘をついています」
「ええっ?」
「大切だというのなら、どうして忘れるんですかっ…」
「それもそうだよね、おかしいなあ…」
「詩子のっ…!」
茜の声が、しだいに高くなっていく。
それを自覚しているのに、止められない。
「…詩子の、そういういい加減なところ、私は嫌いですっ」
「あ、茜ぇ…」
「嫌いです。詩子なんて嫌いです。…大嫌いです」
「ご、ごめ…。茜、ごめん。でもあたし、ほんとに思い出せないんだよお」
茜は、傘を握りしめる手に、力を込める。
…茜には、許せなかった。
10年以上も一緒にいたのに、まっさきに彼のことを忘れた、詩子を。
「あ、茜ぇ…。ねえ、なにか言ってよ。あたし、茜のこと、親友だと思ってるから。だから…」
「…親友?」
そう言った詩子に、茜の中にあったなにかが、はじけた。
「…親友っ!? そんなこと…あなたに言われたく、ありませんっ」
「茜…」
「あなたの顔なんて見たくありません。帰ってください。もう二度と話し掛けないで」
「なっ…!」
大人しく聞いていた詩子も、さすがに、その言葉に黙っていられなかった。
「ふざけないでよっ! こんなわけわかんないことで親友止めたくないよ、あたし!」
「…親友なんかじゃないです」
「嫌! 絶対に嫌よ! …ねえ茜、落ち着いて話そう? もしもあたしが悪いのなら、きちんと謝るし…」
「……」
「嫌なところがあるなら、ちゃんと直すからっ。…ね? そんな一方的に言われたって、あたし…わけわかんないよ…」
『なにかを手に入れるためにはね、なにかを捨てなきゃいけないの』
ふいに…。
茜の頭に、そんな言葉が浮かび上がった。
(…え?)
それはいつだったか。
詩子が、茜に向けた言葉。
『…でもでも、この傘が大切だっていうのはわかるのよ、うん』
クリスマスパーティーでプレゼントされた傘を、本当に嬉しそうに受け取った詩子の姿が思い出された。
(…あ…)
『あたしが離れて、ふたりきりになる機会が増えれば、ちゃんとくっつくと思ったのに』
(…そうか…)
『あたしと、ゆうくん。どっちかを選べって言われたら、茜はどうする…?』
(…いま、やっと気づいた…)
『想いってどうして…消せないんだろうね…』
(…どうして、こんな簡単なことに、気づいてあげられなかったんだろう…)
「…し、詩子…」
「なにか言ってよお。あたしは嫌だよっ? 親友止めるの…!」
「ごめ…ごめ…なさい…」
茜の瞳から、ボロボロと涙がこぼれはじめた。
詩子のためと、愚かな自分を哀れんで。
「わわ、泣かないでよっ。いいのよ、茜も、いろいろあったんでしょ?」
「私…親友失格です…」
(詩子らしくない…とか。決めつけて。
詩子の気持ちに全然気づいてあげられなかったのに、わかったふりをして。
そんな幼い私なのに、ずっと我慢していてくれた詩子…)
「私、なんて馬鹿なんだろう…なんて子供だったんだろう…」
「茜ぇ…泣かないでよう…」
「ゆうに甘えて、詩子に甘えて…私は、なんて愚かで、傲慢だったんだろう…」
降り続ける雨のように、茜の涙も、止まることを知らなかった。
◇