1998.01/06 Tue 16:21

 …赤。
 夕焼けの赤。

 赤い、空。

(夕焼け空は、なんでこんなに悲しいんだろうな)

 彼は、移ろいゆく空を眺めて、そんなことを思う。
 すでに東の空は暗くて、西にある夕日とせめぎ合っていた。

 複雑な色合い。

 枯れ草を踏む音を聞いて、視線を地上に戻す。
 そうして、自分に向かってゆっくりと歩いてくる幼なじみの少女を見つめた。

「…ゆう、どうしたの?」

「ごめんな。呼び出したりして」
「いえ…。暇でしたから」

 空き地。
 住宅街にぽっかりと放置された空間。

 枯れ草の上に立ち、じっと自分を見つめてくる茜を、彼は見つめ返す。

「…それで、用事って?」
「いや…そのぅ…」

 彼は、ぽりぽりと頬を掻く。

(寂しかったんだよ)

 とは、口に出せなかった。

「こないだの雪、まだ残ってますね…」

 茜は足元の雪に気づき、しゃがみ込んでそれを拾う。
 かたまっていた雪が、茜の手の平の上で崩れ、滑り落ちていった。

「また、雪が降るといいですね」
「…俺は、雪は嫌いだ。雨のほうがいい」
「ゆう…?」

 彼の態度を見て、茜は思い出した。

『…悲しいことがあったんだ…』

 つと立ち上がって、茜は彼の側に歩み寄る。

「もしかして、6年前の…?」
「……」
「そう、ですか…冬休みと言っていたけど。6年前の、今日だったんですか…?」

 彼は答えず、その場にしゃがみ込んだ。
 そうして茜がやったように、雪を拾い上げてもてあそぶ。

「…なあ、茜…」

「はい?」
「例えば…そうだな。幼いときに、お菓子の国のお姫様になりたいと、強く願った女の子がいたとするよ」
「あ…私がそうです。そんなこと、思ったりしてましたよ」

 彼は両手で雪をかため、丸い形を整えて見せる。

「そんな幼い頃の願いがさ。時が経って、ほんとにお菓子の国が、その子の強い願望で生まれてしまったんだ」
「え…」
「たとえ…いや違くて、おとぎ話だな。ちょっと想像してみてくれよ」
「…はい」
「それで、その子はどうすると思う…?」

 彼が広げた両手の上で、雪玉がコロコロと転がる。

「そうですね…。その女の子は、選ぶんじゃないでしょうか。その国に移り住むか、いまいる所に残るか」

(選択肢なんてあるのだろうか…? それを望んだのは、その子だけではないはずなんだ)

「…王子様がいるんだ、その世界には。盟約を交わしていたんだよ、ずっと一緒に暮らそうって」
「それなら…。その王子様は、盟約を果たそうと女の子を連れていこうとするのでは?」
「すると俺は…いや、その女の子は、元いた世界ではどうなると思う」

「…いなくなるんじゃないでしょうか…」

 彼の手から、雪玉が落ちる。
 地面に叩きつけられ、それは崩れた。

(すると、なんだ。幼い頃に切望したことが、今さらかなって。
 そうして俺は、この世界から消えていこうとしているのか…?

 子供の戯れ言のような、おぼつかない口約束が、現実に俺の存在を危うくしている?
 まさか…。

 …でも。
 現実に俺は、いまその過程上にいるじゃないか…)

 彼は立ち上がり、雪玉だった雪の集まりを、ギュッと踏みつける。

「…あかね…」
「はい」

 側に立っている茜。
 彼女の長い髪を1房、すくい上げる。

「…俺、茜のこと、好きだよ」
「……」

 茜は、少し驚いた表情を見せた後、頬を染めながら頷く。

「…私もです」
「お前と、ずっと一緒にいたいよ」
「私もです…」

 キリキリと胸を締めつける切なさに苦しみながら。
 彼は、茜の瞳を見つめる。

「茜…抱いても、いいか…?」
「……」

 茜はなにも言わずに、彼の胸に抱きつく。
 彼は震える手で、自分に抱きついて来た茜を抱きしめた。

 甘い香り、細い肩、女の子らしい柔らかな身体。
 長くて艶やかで、そして寒風で冷たくなった茜の髪。

「…これで、いいですか…?」

 茜は、彼の首の辺りに顔を埋めたまま、囁く。
 そんな言葉に、彼は苦い微笑みを浮かべる。

「違うよ、茜…」
「え?」
「今日も親、遅いんだ。俺の家、来ないか…?」

「あ…」

 ようやく彼の求めることを理解して、茜の顔が耳まで真っ赤になった。

「あっ…う…でも…そのっ…」

 抱きしめている彼女の肩がこわばり、緊張のために震える。
 それを感じで、彼は悲しそうに目をつぶる。

「…いや、冗談だ」

「え…?」
「なんとなく、困らせてみたくて言ったんだ。…ただの冗談だよ」
「……」

 ほっとしたのか、彼女の身体が、また元のように柔らかになる。

「でも、もうちょっとこのままでいさせてくれよ…」
「…はい」

 彼は優しく、彼女の身体を抱きしめた。

(…これでよかったのかもしれない)

 とも、彼は思った。

(俺は茜のことが好きだけど。
 恋人として愛しているのだろうか?

 赤ん坊の頃から一緒にいる幼なじみで…。
 まるでその延長のように愛情を抱いて。

 そうだ、親兄弟に抱く愛情のようなものでしかないんじゃないか。
 …それで、いいんだろうか。

 それに。
 それに…)

 こみ上げる悲しさに、閉じたまぶたが震える。

(…消えてしまう俺が。置いていこうとする俺が、茜を抱いていいはずがない)

 …そうして、彼の日常は壊れはじめる。

 すでに夕刻は過ぎ、周りに闇が降りてきていた。


「…ゆう。私の家で、ご飯食べていきませんか?」

 茜は彼から身を離し、右手で彼の左手を、左手で彼の右手をつかんで、やんわりと引っ張る。

「ん…?」
「お母さんが、たまにはゆうを連れてきたらどうかって言ってくれたんです」
「そうか…。おばさん、まだ俺のこと、覚えてるのか?」
「……? 当たり前じゃないですか…? お正月に、会ったばかりです」
「…そうだったな」

 彼は乗り気でない様子だったが、茜の引く手に逆らわず、空き地から出ようと歩きはじめる。
 茜は右手を離し、左手だけで彼と手を繋ぎ、並んで歩く。

 …と。
 彼の足が止まり、それにともなって、茜の身体が後ろに引っ張られる。

「…ゆう?」
「……」

 立ち止まって前方を見据える彼の視線を追うと…。
 空き地に接した道路を歩く、もうひとりの幼なじみの姿があった。

「…詩子」
「……」
「ゆう。詩子も誘っていいですか? みんなで夕御飯。きっと楽しいです」
「……」

 彼は押し黙ったままだ。
 彼もまさか反対しないだろうと、茜は詩子のほうに歩きながら声をあげる。

「詩子っ!」

 道路を歩いていた詩子が、茜の呼びかけにピタリと立ち止まる。

 彼と茜が繋いでいた手が、するりと離れる。
 茜は、彼が詩子に気を使って離したのだと思い、とくに気にしなかった。

「あれ、茜ーっ。どうしたのよ、こんな所で」
「はい、ちょっと、ゆうに呼ばれて」
「……?」

「それで詩子は、どうしたの?」
「…あ、うん。あたしは、親に買い物を頼まれてね」

 詩子は、手提げていた袋を持ち上げて示す。

「よかったら私の家で、夕御飯、一緒に食べませんか…?」
「う〜ん、魅力的なお誘いね。あたしが持ってるの、コンビニで買ったお惣菜なの。今夜はうち、期待できないからね」
「じゃあ、お買い物が終わったら、ウチに来ませんか? ゆうも来てくれるし、みんなで夕御飯です」

「……」

 茜の言葉に、詩子は首を傾げる。

「ねえ、茜…」
「はい?」
「さっきも言ってたけど…」

 詩子は、自然な表情で茜に問い掛ける。

「ゆう…って、誰?」

 詩子が真顔でそう言うので、茜は酷く驚いた。

「…なっ…し、詩子? なにを言ってるんですか…?」
「茜の知り合い? その、ゆう…って人」
「詩子っ! そういう冗談は、私、嫌いですっ。ゆうも、何か言ってください」

 茜は、詩子の態度に苛立ちを覚えながら、背後を振り返る。

 …しかし、そこにいるはずの幼なじみの姿は、無かった。



   1998.01/15 Tue 07:06

『ぷるるるるるるる…』

 ふいに、電話の呼び鈴が鳴り響く。
 気持ちのいい微睡みの中にいた茜は、その音で無理矢理目覚めさせられた。

「…う〜ん…」

『…ぷるるるるるるる』

 茜は布団の中でくるりと回転し、うつぶせになる。
 そうして、枕に抱きつきながら、右手をのばして受話器をつかんだ。

「…はい」
『……』

 しかし、受話器の向こうは黙ったままだ。

「……?」
『……』

 なんとなく落ち着かない気持ちになって、茜は身体を起こす。
 そうして、受話器に当てた耳に意識を集中する。

「ゆう? ゆうですか?」
『…ああ、そうだ』

 受話器の向こうから、安心したような溜め息が聞こえた。

『茜…。俺のこと、わかるか?』

「当たり前じゃないですか。ゆうの声なら、作っていたってわかります」
『そっか…。うん、おはよう、茜』
「おはようございます…」

 茜は緊張を解き、うつぶせのまま、枕に顔をうずめる。

「…どうしたんです…?」

『モーニングコールだ』
「…今日は祝日で、学校はお休みです…」
『そうだったな…』
「…毎朝起こしてくれるのには感謝してます。…でも、休みの日に悪戯で起こされるなんて、ひどいです…」

『……』

 また、受話器の向こうが沈黙する。

「…ゆう?」

『俺の家、来ないか…?』
「今からですか?」
『うん、今からだ』
「ご両親は?」
『ふたりとも、昨夜から帰ってこない。…ひどい親だよな』

『今日も親、遅いんだ。俺の家、来ないか…?』

 …冬休みの日に聞いた、あのときの彼の台詞が思い出され、茜は躊躇する。
 それと悟ってか、彼は鼻で笑った。

『…大丈夫、変なことはしないよ』
「はい…」
『ただ…そうだなぁ。…腹が減ったんだ』
「…え?」
『朝からインスタントもなんだし。俺が作れるのって、チャーハンくらいだろ?』
「そうでしたね…」
『もし、茜が暇だったら…。うちに来て、ご飯作ってくれないか…』

 その申し出に、茜は正直驚いた。

 彼とは、もう10数年もの付き合いになるけれど。
 彼がこうやってわがままを言ったり、甘えてきたりすることは少ない。

 茜のほうが、いつも頼ってばかりだったから。
 こうやって頼りにされるのは、悪い気持ちではなかった。

「…わかりました」
『ほんとか?』
「はい。…ただ、ちょっと時間かかりますが、いいですか?」
『大丈夫だ、我慢するよ。…でも、出来るだけ早く来て欲しい』
「はい」

『…待ってるから』

 そう言い終えて、彼からの電話が切れた。

「……」

 最後の彼の言葉が妙に重く感じられて。
 茜は、言いようのない不安を覚えた。



   同日 08:43

「…ごちそうさまでしたっ…!」

 彼は茜の作った朝食を腹一杯に食べ、満足そうに椅子にもたれた。

「お粗末様でした」

 そんな彼を見やって、茜は微笑む。

 茜の前には、まだご飯が残っている。
 少食の上、食べるのが遅い茜。

 彼の家のキッチンでの、幼なじみふたりの朝食風景。

「こんなうまい飯を食ったの、ほんとに久しぶりだ」

 彼が嬉しそうに言うのに照れて、茜は顔を逸らし、ご飯を食べる手を進める。

「…そうなんですか?」
「ん? ああ…。最近、インスタントやコンビニ物ばっかりでさ」
「おばさんは?」
「いつも通り朝早くに出て、夜遅くに帰ってくる。最近は、どんどん酷くなって、帰って来ないこともあるな」

 彼は茜が容れてくれたお茶をずずず…とすする。

「…俺のことなんて。息子のことなんて忘れてるんだろ、きっと」
「そんなことはないですよ。ゆうのために、頑張って働いているんです」
「…だといいけど、な」

 ふと思い出したことがあって、茜は彼に問い掛ける。

「そういえば…。詩子と喧嘩をしているんですか?」

「…なんでだ?」
「ゆうのことなんて知らないって、詩子が言い張って。とりつく島もないんです」
「…ああ、そのことか…」

 彼は苦い微笑みを返す。

「それなら心配ない。時間が解決してくれるよ…」
「…ほんとに?」
「ああ…。だからあんまり、しいこのヤツを刺激しないでやってくれ」
「……」

 納得いかない顔で見返してくる茜に、彼は苦笑する。

「ダイジョブだって。だから、あいつのほうから俺のことを切り出すまで、黙っていてくれ」
「…わかり…ました」

 不承不承といった感じで、茜は頷く。

 彼は目を伏せがちに、空になった皿を眺める。
 そうして、そっと囁く。

「…こんなうまい飯を食えるの…最後かもしれないな…」

「え?」
「…いや、なんでもないぞ」
「……?」

 彼は視線を落とし、自分が手に持つ湯飲みに視線を注ぐ。
 そうやって、湯飲みをもてあそびながら、ポツリポツリと言葉を紡いでいった。

「…俺な…」
「はい」
「俺、茜には、本当に感謝してるんだ…」
「……」

 なにを突然…と、茜は驚く。
 そんな茜の視線を無視して、彼は目線を落としたまま、独白のように言葉を続ける。

「茜に会えて、心底よかったと思う。茜が側にいてくれたから、いまの俺があると思うんだ」
「…私もです」

「でも、近づきすぎていたのかもしれない」
「…え?」
「俺が甘えて、茜が甘えて…。そんな風に、互いに、あまりにも頼りすぎていたのかもしれない」

 彼がなにを言おうとしているのか、茜には理解できない。
 ただ、言いようのない不安が、茜を居心地悪くさせた。

「な、なにを…。それで良いじゃないですかっ。お互いに支え合って…そうして、強く生きていけるっ…」
「…でもな。ずっと一緒にいるわけには、いかないだろう?」

 苦みのある彼の微笑みに、茜は呼吸を忘れるほどに凝固する。

「いつまでも、ずっと一緒にはいられないんだ」

 もう一度言って、彼は顔をあげ、茜を見つめる。
 言葉を失っている茜と、彼の視線とが争うようにぶつかった。

「…わ…私、は…」

 ようやく言葉を取り戻した茜の声は、つっかえつっかえで悲しげに震えていた。

「私は、それでもいいと…。ずっと一緒でも良いって…思って…ます」
「…なあ、茜。お前、恋ってしたこと、あるか?」
「えっ…!?」

 あまりの問い掛けに、茜はからかわれているのかと思った。
 しかし、彼の眼差しはあくまでも本気だった。

「…ないのか?」
「多分…」
「それはやっぱり、俺みたいな馬鹿が、ずっと側にいたからだろう? それで、お前に迷惑かけていたから…」
「…そうですっ。ゆうが側にいてくれたから、そんな恋なんてする必要なかったんですっ」

 まるで別れ話でも持ち出すような彼に苛立って、茜は強い口調で言う。

(別れ話…?)

 そんな言葉がふいに浮かんで、茜は泣きたくなった。

(別れ話どころか、私たちは、恋人同士でもないじゃないですか)

「…俺は、あるよ」

 ポツリと呟かれた彼の声に、茜はズキリと心が痛む。
 「それ」が自分相手ではないことを、茜は察した。

「俺は、あるよ」

 もう一度、彼は言った。

「…もしかして、それは…」

「そうだ。6年前の、冬休みだ」
「……」
「たった2週間の出会いだったよ」

「…そ、そんな昔のこと…。そんな幼い頃のこと…」
「幼い頃の気まぐれだって思うかもしれない。でも俺は、いまだに忘れられない」
「それは、その女の子を失ったから…」
「それもあるかもしれない」

 彼は、なんの前触れもなく、ふいに立ち上がる。
 椅子に座る茜を見下ろしながら、彼は痛みを感じさせる表情を浮かべていた。

「そんな幼い初恋に囚われて、俺はどこかに行くのかもしれない」
「……」
「いままでずっと一緒にいたお前を置いて…。俺は、どこかに行くのかもしれないんだ」

 あまりのことに…。
 茜には衝撃が強すぎて、にわかに反応できなかった。

(…なんでこんなことになったんだろう?)

 穏やかで、暖かで、そして幸せな朝の風景。

 それが突然、壊れてしまった。

 胸の動悸が激しくなり、握りしめた拳はぶるぶると震えていた。
 眩暈を覚え、視界が暗く狭い。
 ぐらぐらと、頭が揺れる感覚にとらわれる。

 …茜は、なにも言えない。

『冗談だよ』

 そんな風に彼が笑ってくれるのを期待するしか。
 いまの彼女には、できなかった。

「ごめんな…」

 彼が、とても悲しそうな顔で謝罪の言葉をこぼす。

「…い、嫌です」

 茜がなんとか紡げた言葉。

「…そんなのは、嫌です…」
「……」

 お互いになにも言えず、押し黙る。
 そうやって訪れた沈黙が、ふたりの間に横たわった。

 …その息の詰まるような沈黙を破ったのは、第三者だった。

 家の玄関から、物音が聞こえてきた。
 ドアの鍵を、開ける音。

 ビクリ…と、おかしいほどに彼がおびえる。

 やがて入ってきたのは、なんのことはない、彼の母親だ。
 茜も幼少の頃から知り合っていて、家族ぐるみで付き合いがある。

「おばさん、お邪魔してます」

 茜がなんとか笑みを作って話し掛けると、彼の母親はひどく驚いた様子だった。

「あ、あれ? 茜ちゃん、なんでウチにいるの…?」
「えっと…。ゆうに、朝御飯を作ってくれって頼まれて…」

 茜の答えに、彼の母親は怪訝な表情を見せる。

「…ゆう? ゆうって…誰?」
「えっ…」

 そうしていま気づいたかのように、彼の母親は、自分の息子に目を向ける。

「その男の子、茜ちゃんの知り合い?」

 それは…他人を見る目だった。

 自分の息子を、他人のように見る母親。
 仲の良かったふたりを知っているだけに、茜のショックは強く、頭の中が真っ白になった。

「お、おばさ…な、なにを…言って…」

 茜は、親子を見比べる。
 彼は真っ青な顔をして、そこに直立していた。

 やがて、彼が絶叫する。

「…なにを言ってるんだ母さんっ…!!」

 それでハッと我に返ったように、彼の母親は瞳に暖かみを取り戻す。

「…あっ…えっ…ゆ、ゆう?」
「……」
「え、ええっ? わ、私、なんで…? ゆうのこと…」

 自分がつかの間でも息子を認識できなかったことに、母親はオロオロと慌てる。
 そんな彼女に、彼は染み入るような微笑みを返した。

「…やだなぁ。いくら寝不足だからって、それはないだろ…」
「ご、ごめんね、ゆう。私…」
「良いって良いって。ほら、早く着替えてきなよ。今日は休み…なんだろ?」

 息子にほだされ、彼女は首をひねりつつも、自分の部屋に戻っていった。

 そうしてまたふたりきりになると、奇妙な静寂が辺りを占めた。

「…ゆ、ゆう…」
「茜、今日は帰ってくれるか?」

 彼は、茜には形容しがたい表情を見せて言った。

 まともな思考ができない茜を、彼はまるで追い出すように押していく。
 そして、茜を玄関から外に出して扉を閉める際、彼は泣きそうな顔で言った。

「…ご飯、サンキュな。ほんとにうまかったよ…」

 重苦しい音を立てて閉められた扉を前に、茜はなにも言えず、しばらく立ち尽くしていた…。



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